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黒岩麻里 会いに行ける奇跡のネズミ[『図書』2025年11月号より]

会いに行ける奇跡のネズミ

 

 私には、研究者人生を捧げた「推しのネズミ」がいる。

 そのネズミを追いかけて20年以上。けれども、実際にその姿を目にしたことは、数えるほどもない。研究対象をほとんどみたことがないという研究者は、まずいないであろう。画面越しに憧れるアイドルやミュージシャン。私にとってそのネズミは、まさにそんな存在であった。手を伸ばしても届かない、雲の上の存在。研究という営みは、推しに心を寄せ続けるファン活動そのもの。私の「推し活」とは、このネズミをめぐる研究の日々なのだ。

 

 世界で、そして日本でも、人々に最も愛されているネズミは、ウォルト・ディズニーらが制作したミッキーマウスであろう。ミッキーマウスを嫌いな人など私は聞いたことがないし、老若男女を問わず、世界中の多くのファンを虜にしている。さらに『ねずみくんのチョッキ』シリーズは、私自身が子どもの時に愛読し、息子が幼いころにも読み聞かせた絵本だ。トムとジェリーのアニメも、親子2世代にわたり楽しんだ。このように人々に愛されるネズミもいるのだが、彼らは例外的な存在で、一般的に「ネズミ」は忌み嫌われる存在であるように思う。

 食料品や穀物を食い荒らす害獣。病原菌を媒介することから、不衛生なイメージも強い。中世ヨーロッパで猛威を振るったペスト(黒死病)の大流行には、ネズミが深く関わっていたとされ、長い間人々の記憶に「ネズミ=負のイメージ」が刻まれてきた。ただし、ペストの流行には諸説があり、ネズミは無関係であったとの研究報告もある。科学的な真偽はともかくとして、夢の国のミッキーたち以外は、歓迎される存在ではないように思う。

 そのためか、「ネズミの研究をしています」と言って、あまり良い顔をされたことがない。とある科学番組の撮影で、某タレントが私の研究室を訪れた際に、意気揚々と私の推しネズミの写真を見せようとしたところ「この世でネズミが一番嫌いなんです」と顔をしかめられ、大きなショックを受けたことがある。

 ただし、ネズミと一口に言っても、世界にはさまざまな種類のネズミが存在している。「ネズミ科」に分類される種はざっと数百種以上にのぼり、実に多様だ。人々の生活圏内に生息し、害獣として扱われるのはごく数種の「都市ネズミ」だけであり、ほとんどのネズミは森林や草原、山地帯などの自然環境下に棲んでいる。見た目も大きさも生態も、まるで違う。

図1 飼育されているアマミトゲネズミ
図1 飼育されているアマミトゲネズミ。周りの紙のようなものは飼育用のおがくず(ウッドチップ)

 私の推しネズミは「アマミトゲネズミ」という。その名の通り、奄美大島の森林に生息する固有種で、背中側にトゲ状の毛がまばらに生えている。大きさは15センチ程度、ずんぐりむっくりとした丸いフォルムとクリクリとした黒眼はなんとも愛らしい(図1)。自身の思い入れを抜きにしても、ネズミの中では特にカワイイ方だと思う。主にシイの実を食べて暮らしている、おっとりとした島のネズミだ。

 そして、私がなぜトゲネズミをほとんど見たことがないかというと、この種が絶滅危惧種であり、1972年には国の天然記念物にも指定されているからだ。その数を減らした主な要因は、人為的影響によるところが大きいと考えられている。

 もともとトゲネズミの天敵は、ハブという毒蛇だ。トゲネズミはハブに狙われると、60センチ以上も垂直にジャンプして攻撃をかわすという、のんびりした性格に似合わず、トリッキーな手段で身を守ることが知られている。数十年前の資料には、ハブの胃袋からトゲネズミのトゲが出てきたという記録がある。トゲネズミは時にはハブに食べられ、時には大ジャンプでするりとかわし、奄美大島の生態系は均衡を保っていたのだと思う。

 ところが、事態は一変する。1979年、ハブの駆除を目的として、もともと日本にはいなかったマングースが数十頭、奄美大島に放たれたのだ。しかし、ハブ駆除の効果はほとんどなく、マングースはより襲いやすい島の動物たちを次々と捕食していく。奄美大島の固有種として大変に有名なアマミノクロウサギも、マングースにより劇的にその数を減らした。トゲネズミにしても、マングースの前ではお得意の大ジャンプも効果はなかった。

 そして2005年、奄美大島では外来生物法に基づき、本格的な防除事業が開始された。私がトゲネズミの研究を始めたのは、ちょうどこのころであった。

 

 ここまで読んで、私のことを珍獣ハンターのごとく奄美大島の森林に入り、数を減らしたトゲネズミを追う研究者だと想像された方が多いかもしれない。誤解を招いて申し訳ないが、実はそうではない。私の主戦場は研究室内の実験室であり、さらにその研究室は札幌にある。奄美大島からはうんと遠い、北海道大学でトゲネズミの研究をしているのだ。

 北海道も、自然が非常に豊かな地域だ。そして、北海道らしい野生動物も多く生息している。同じ絶滅危惧種や天然記念物としては、タンチョウやシマフクロウが有名である。最近では、ヒグマが人の生活圏に現れ、ヒグマとの共生なども大きな話題になっている。「北大の先生なのに、なぜ南の島のネズミの研究を?」と不思議に思われることもしばしばである。

 なぜに北海道にいながら、20年以上もトゲネズミの研究を続けているのか? その理由は、トゲネズミがもつとても不思議な生物学的特徴にある。ヒトを含め、哺乳類ではY染色体上の遺伝子で性が決定される。地球上に哺乳類は6,000種ほど生息するといわれているが、ほとんど全ての哺乳類では、オスはY染色体をもち、もたないとメスになる。しかし、トゲネズミはY染色体をもたず、性を決定する遺伝子も消失してしまっているのだが、オスが生まれてくる。こんな哺乳類は世界中を探してもほとんど存在しておらず、実にユニークで稀有な存在なのである。

 さらに、哺乳類のY染色体は退化の一途をたどり、いつか消えてなくなってしまうとも言われている。Y染色体がなくなってしまったら性決定遺伝子も失われてしまうので、男性が生まれなくなる。そうすると女性だけでは子孫を残せないので、Y染色体消失は人類滅亡の危機を招く⁉ と、なんとも物騒な学説まで囁かれているのだ。

黒岩麻里『幻のネズミ,消えたY 性の進化の謎を追う』(岩波科学ライブラリー)

 この性決定の謎とY染色体の運命を明らかにすべく、私は長きにわたり、トゲネズミの染色体や遺伝子の研究をしている。研究の詳細については、近刊の『幻のネズミ、消えたY──性の進化の謎を追う』(岩波科学ライブラリー)をぜひお読みいただきたい。私は、学術的にも価値の高い哺乳類が日本にいることを、研究を通して世界や日本に広め、トゲネズミの保全活動へとつなげることを信念としている。なお、トゲネズミの絶滅が危惧されているのは、先に述べたように人為的な影響のせいであり、決してY染色体を失ったからではないことは断言しておく。

 

 トゲネズミは全部で3種おり、アマミトゲネズミのほかに、徳之島に生息するトクノシマトゲネズミ、沖縄本島に生息するオキナワトゲネズミ(図2)がいる。3種の中でも特に生息個体数が少なく深刻な状況にあったのが、オキナワトゲネズミだ。私が研究を開始した2005年当初は、オキナワトゲネズミは絶滅したと考えられていた。生きた個体の目撃情報が30年以上もなく、幻の哺乳類とも言われていた。しかし、関係者の多大な努力が実を結び、2008年に生息個体が捕獲される。「幻の哺乳類、再発見!!」と、当時は新聞やテレビのニュースを大いに騒がせた。

図2 調査で捕獲されたオキナワトゲネズミ
図2 調査で捕獲されたオキナワトゲネズミ。アマミトゲネズミに比べ、からだが少し大きいとのことだが、筆者はオキナワトゲネズミは一度も見たことがない

 捕獲されたオキナワトゲネズミを野外にかえす際の映像が、関係者から送られてきた。この映像は、NHKの全国ニュースにも使用されたものだ。担当者が罠の蓋を開け、そっと外に出てくるトゲネズミ。しばらくぼーっとしてその場で動かない。ちょっと拍子抜けする。なぜなら、外に出るや否や、一目散でこけつまろびつ逃げ出す姿を想像したからだ。まるでカメラに映されているのをわかっているかのごとく、その姿を捉える絶好のチャンスをくれているようだ。そして、何を思ったのか、ぴょん! と蓋を開けた担当者の靴の上に飛び乗った。多くの野生動物は、まずは警戒して逃げ出すし、ましてや自分から近づいてきたりはしないように思う。なんとものんびりしたトゲネズミのその姿、そしてトゲネズミに飛び乗られて驚く人間の姿が、全国に報道された。

 

 アマミトゲネズミの話題にもどろう。奄美大島での防除事業は着実な成果を上げ、2024年9月には、ついに島からマングースが根絶されたとの公式発表がなされた。そして現在、アマミトゲネズミの生息個体数は増加傾向にあり、分布域の拡大も確認されている。研究を始めた当初は、「私が定年退職を迎えるまでにトゲネズミが絶滅してしまったらどうしよう」と切実に思い、時間を惜しんで研究をしてきたことを思い返すと、大変に嬉しいことだ。

 そして、そんな私の推しのネズミを、一般のみなさんも見ることができるようになった。アマミトゲネズミの生息域外保全が進んでいるのだ。生息域外保全とは、野生下で絶滅の危機にある動植物種を、自然の生息地とは異なる安全な施設で保護し、人工的に殖やして種の存続を図る活動だ。アマミトゲネズミは、現在国内の動物園8施設で飼育されており、そのうち6施設では一般公開もされている。みなさんも、奇跡のネズミに会いに行けるのだ。

 動物園の飼育担当者に聞いた話では、トゲネズミはどんなに広い飼育スペースをとっても、普段は一箇所に全員がごちゃっと固まって「トゲ団子」の状態で寝ているという。なんとも仲の良い微笑ましい姿だと思う。動物園の公式ウェブサイトやSNSでは、アマミトゲネズミの写真や動画が公開されているので、ネット上でもトゲネズミをみる機会が格段に増えた。こうして一般の人に身近な動物となっていくことも、とても嬉しい。

 このエッセイを寄稿した時点では、以下の6施設でアマミトゲネズミの展示公開がされているとのことだ。ぜひ、奇跡のネズミに会いに行ってほしい。ただし、アマミトゲネズミは夜行性なので、動物園が開園している昼間に訪れても、どこかで団子を作ってぐっすりと眠り、やっぱり見ることができないかもしれない。

 【展示公開施設】
井の頭自然文化園(東京都武蔵野市)、横浜市立金沢動物園(神奈川県横浜市)、埼玉県こども動物自然公園(埼玉県東松山市)、神戸どうぶつ王国(兵庫県神戸市)、宮崎市フェニックス自然動物園(宮崎市)、鹿児島市立平川動物公園(鹿児島市)

(くろいわ あさと・生物学)


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