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中村督 右派とは何か?[『図書』2026年2月号より]

右派とは何か?

ルネ・レモンの郷愁に寄せて

 

 左派とは何か、右派とは何か。そんなことに縛られまいと思いながらも、結局、この問いに囚われている。野球の外野の話(左翼、右翼)なら愉快だが、こと議論は政治についてである。大学でヨーロッパ政治史を講じていると、ふと「なんでこうなった?」と思うことがある。

 私事で恐縮だが、かつてフランスの『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』というニューズマガジンを対象に博士論文を執筆した。同誌はサルトルやフーコーなど多くの知識人の声を届ける言論誌として知られるが、その一方で1964年の創刊以来、政治的には中道左派のポジションを占めてきた。厳密にいうと、左派と右派の強固な対立軸を基盤にしたフランスの政治文化にあって、社会党支持を打ち出してきた。といっても、ジャコバン主義的な国家統制には批判的で、個人の自由の領域を拡大しようと社会民主主義路線を主導してきたのである。

 と、左派については細かく(そして早口で)論じられるのに、右派とは何かという話になったとたん、杳としてわからず「保守」とくらいにしかいえなくなってしまう。これは筆者の問題でもあるが、おそらくフランスの歴史家も同じで、左派に対しては星雲状になった諸団体を数え上げて分析してきたのに、右派に関しては十把一絡げに右派とする傾向がある。

 ルネ・レモン『フランスの右派 1815-1981』の批判はまさにこの点にある。ルネ・レモン(1918-2007)は戦後フランスを代表する歴史家であり、長いあいだパリ政治学院で教鞭を執った。研究、教育、大学行政、いずれの面においても政治史の分野では、この人をおいてほかにはいないという人物だ。そのレモンの最初の著作が、このたび邦訳に至った『フランスの右派』である。ただ、「最初の著作」といっても1954年に初版が出た後、何度も版を重ね、82年の第4版では大幅に加筆修正された。とくに邦訳でも底本とした第4版は右派研究の古典中の古典として広く近現代史を学ぶ者たちに読み継がれてきた。

 『フランスの右派』の問いかけはたった一つ、畢竟、「本当に右派のことを理解しているのか?」である。丹念にフランスの右派を描いた本書はれっきとした歴史研究の成果だが、その調子は明らかに挑発的である。たとえば、戦間期のファシズムを論じた節で不意に出てくる「〔左派にとって〕人はいつも誰かのファシズムだからである」なんていう言葉をみると、自分のことをいわれているかのように感じる人は少なくないのではないか。本書は理性的な筆致で書かれているが、随所にレモンの感情が吐露されている。

 

 さて、そうなってくると気になるのはレモン自身の政治的な立ち位置である。『フランスの右派』には左派に向けられた辛辣な表現や皮肉が散見される。他方、右派に関しては3つの潮流(反革命のレジティミスム、経済優先の自由主義的なオルレアニスム、国民との結びつきを重視する権威主義的なボナパルティスム)を精緻に追いながら、ときにその功績や美徳にも触れている。とはいえ、レモンはそれらを手放しに称揚しているわけでも、いずれかに肩入れしているわけでもない。

 それでも本書にはレモンが共感を寄せて書いていると思わされる思想潮流がある。キリスト教民主主義である。キリスト教民主主義はカトリック勢力のなかでも民主主義の原則を受け入れ、近代化を遂げていった運動である。レモンを知る者にとって、彼がカトリック知識人であることは自明である。1932年にキリスト教青年学生組合(JEC)に入会し、高等師範学校時代にはその事務局のメンバーとなり、65年から75年にかけてカトリック知識人協会の代表を務めた。また、レモンの伯父はニース司教のポール・レモン(1873-1963)で、両者は親しい間柄にあった。それゆえレモンがキリスト教民主主義に引き寄せられたのだとしても、なんら不自然ではない。

 ただ、今日のフランスには有力なキリスト教民主主義の政党が存在しない。この点は、ドイツ(キリスト教民主同盟)、オランダ(キリスト教民主アピール)、ベルギー(キリスト教民主フラームス)などの近隣諸国とは異なる。かつてはフランスでも、「人民共和運動」という名の下、キリスト教民主主義政党が大躍進を遂げたことがあった。しかし、それもパリ解放直後の一瞬のことで、1950年代には衰退の一途をたどっていった。振り返ってみれば、『フランスの右派』の構想を温めていたであろう時期にこの潮流は頂点を迎え、初版刊行時の1954年にはすでに翳りがみえていたということになる。

 レモンは本書のなかでキリスト教民主主義に関してかならずしも多くを説明しているわけではないが、断想のようなかたちで不意にこんな言葉が出てくる。

 

〔……〕アクシオン・フランセーズとキリスト教民主主義の分水嶺は、結局のところごく少数の者にしか関わらないとはいえ、フランス政治を理解するうえで、おそらく左派と右派の境界線と同じくらい重要である。〔……〕この分水嶺は、カトリシスムの二つの気質、二つの感性、二つの解釈を分かつものであり、両党派の間で生じた熾烈をきわめる争いには、残忍な宗教戦争で激化する内戦のような荒々しさがあった。(266頁)

 

 アクシオン・フランセーズはドレフュス事件から生まれた王党派の極右組織のことだが、同じカトリシスムでもそれとキリスト教民主主義とは異なるという。それはよくわかる。しかし、驚くべきは、両者を隔てる境界線が、左派と右派の境界線と同程度に重要であると述べていることだ。レモンはそれほどまでにキリスト教民主主義に大きな価値を認めているのである。明言こそしないが、2つの陣営のうちキリスト教民主主義に身を置いて語っているのはたしかだろう。

 また、フランスのキリスト教民主主義の系譜に関して、レモンは「マルク・サンニエやフランシスク・ゲイといった人物がその思想的連続性を象徴している」(265-266頁)という。マルク・サンニエ(1873-1950)とは、レオ13世(1810-1903)が1891年に出した回勅「レールム・ノヴァルム」(「新しい事柄」の意で、社会教説の基礎となった文書。その精神は教皇レオ14世によっても継承されている)に感化され、社会的カトリシスムの運動「シヨン」を主宰した人物である。シヨンに集ったカトリック関係者は多く、先にみたレモンの伯父ポール・レモンもその例外ではない。フランシスク・ゲイ(1885-1963)もまたサンニエの薫陶を受けた一人である。『ローブ』や『ラ・ヴィ・カトリック』といった新聞や雑誌を創刊するなど社会的カトリシスムの普及に一役買い、解放後は人民共和運動の創設に関わった。今日では顧みられることは稀だとはいえ、キリスト教民主主義の歴史が議論になるときには、サンニエもゲイもかならず言及されるといってよい。

 

 他方、キリスト教民主主義の歴史において──さらにはフランスの歴史において──サンニエやゲイ以上に大きな役割を果たしたにもかかわらず、その記憶から遠ざけられた人物にジョルジュ・ビドー(1899-1983)がいる。元々高校教師のビドーは、同時にキリスト教民主主義の活動家であり、1922年から26年までフランス青年カトリック協会(ACJF)の副会長を務めた後、先述の『ローブ』の論説記者として名を馳せた。ビドーは日本では無名に近いが、多くの人が一度は目にしている可能性が高い。というのも、44年8月26日、凱旋門を背にシャンゼリゼ大通りを行進するド・ゴールを捉えた、かの有名な写真にその姿をはっきりと確認できるからだ。パリ解放の歓喜を伝えるその写真は、一般的に自由フランスを率いたド・ゴールの迫力と権威を写し出したものとして解釈され、周囲にいる者たちはせいぜい「側近」と称されるにすぎない。ビドーはまさしく「側近」の一人であり、ド・ゴールのすぐ右隣を歩いているのである。ビドーはレジスタンスの英雄であった。

The Liberation of Paris, 25 - 26 August 1944 HU66477

 ビドーについてもう少し紹介したいが、ここはレモンに委ねるべきだろう。

 

戦前は『ローブ』紙の論説記者であったビドーは、初期からの反ミュンヘン派〔ミュンヘン協定に反対する者〕として知られ、ジャン・ムーラン逮捕後に全国抵抗評議会の代表を務めた。また、パリ解放後に組閣された政府で最初の外相を務め、キリスト教民主主義の指導者でありMRP〔人民共和運動〕の代表でもあった。(382頁)

 

 実に華々しい経歴ではないだろうか。若干不謹慎な物言いだとは思うが、ビドーは、もし戦時中に亡くなっていれば、それこそレジスタンスの英雄たるムーラン以上に神話化されたであろうとすらいわれている。いや、ここにあるように、戦後しばらくは順調であった。それならなぜビドーは歴史から忘却されることになったのか。その理由にはアルジェリア戦争中の彼の態度が大きく関係している。アルジェリアの独立をめぐって、ビドーは植民地維持を支持する、いわゆる「フランスのアルジェリア」派となったのである。そして批判の矛先は、当時の大統領、すなわちかつてシャンゼリゼ大通りをともに行進したド・ゴールに向けられることになった。本人は否定したものの、極右のテロ組織への関与が疑われたこともあって、いつしかビドーについて語ることは避けられるようになった。

 その点、レモンはビドーの功績を明記しながら、誤りは誤りとして分けて考えている。もちろん、上述のように、キリスト教民主主義あるいはビドーに対する思いはあっただろう。1938年のミュンヘン協定をめぐる政界の動きを論じた箇所でも、反対を表明した政治家はごく少数派だったとしながら、註をつけて「ジョルジュ・ビドーは別にして考えるべきである」(344頁)と述べている。当時、まだ議員でもなかったビドーをあえてこのように書き留めているのは、彼の選択が20歳そこそこの青年レモンの記憶に深く刻まれたからではないだろうか。

 しかし、レモンがこうしてビドーの功過を併記するのには、歴史家としての矜持も働いていたように思われる。以下は、本書の最後に記された、いわば歴史家の心得を説いた印象的な一節である。

 

マルク・ブロックはどこかでこう書いた。王の戴冠式を祝福する民衆の宗教的情熱と、フランスの再建を祝う建国記念祭における革命的群衆の熱狂に同時に共感できる広い心を持たない者は歴史家の名に値しない、と。同じように、筆者も右派が敬虔に受け継いできた栄光や悲劇の記憶に心を揺さぶられない者を歴史家とは認めないだろう。(533頁)

 

 ここは左派と右派を歴史の光と影と読み替えてもよいだろう。不都合な事実を歴史から忘却するのではなく、栄光と悲劇の両方を記憶にとどめようとすること。これこそが政治史の泰斗たるレモンの歴史観を支える原則のようなものであったように思う。この一節は『奇妙な敗北』という、マルク・ブロックの共和主義的信念が全面的に表出している著作を参照にしたものであり、筆者としては訝しく思うところもなくはない。とはいえ、レモンはキリスト教民主主義の歴史においても大いにその学才を発揮してきた。左派とは何か、右派とは何か。そして、キリスト教民主主義とは何か。幸いなことに、また一つ大きな問いを抱えてしまったように思う。

(なかむら ただし・フランス近現代史)


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