安田浩一 震災取材のときと同じように
「やさしい人になれますように」
(在日クルド人少女・6歳)
差別と憎悪に満ちた言葉が路上で飛び交う。日の丸が打ち振られる。そうした風景を目にする機会が増えた。いま、「移民排斥」を訴えるデモや集会が各地で繰り返されている。
ゼノフォビア(外国人嫌悪)の空気は濃度を増すばかりだ。とりわけ、埼玉県南部で暮らすクルド人に向けられた“ヘイト攻撃”は深刻な事態を招いている。「外出するのがこわい」。そう訴えるクルド人と何度も出会った。
公園で遊んでいるクルド人の子どもを恫喝する者がいる。自宅を盗撮されたり、仕事場(解体工事現場)に無断侵入された経験のあるクルド人は少なくない。クルド料理のレストランにはイタズラ電話が相次ぐ。「自警団」を名乗る連中が街を闊歩し、クルド人の一挙手一投足に目を光らせる。2026年2月におこなわれた川口市長選挙では、「外国人に住みにくい町づくり」を訴える候補者も登場した。SNSにいたってはクルド人に対する暴力や殺害を示唆する書き込みも目立つ。
取材を重ねるたびに、私の気持ちも暗くなる。底が抜けたような感覚に襲われる。
昨年の夏、地域のボランティア団体が運営する日本語教室を取材した。学んでいるのはすべてクルド人の子どもたちだ。
教室の壁には、それぞれの子どもたちの「将来の夢」を記した短冊が飾られていた。
「やさしい人になれますように」。そう書いたのは6歳になったばかりの少女だった。
両親は祖国トルコからの迫害を逃れて来日、少女は川口で生まれ育った。
――「やさしい人って、どんな人?」
私の問いに、少女はこう答えた。
「道で転んだ人がいたら、すぐに助けてあげられる人。そんな人になりたい」
へえ、いいじゃん。いいよね、それ。私は笑いながら相槌を打ち、曖昧な言葉で返した。そして――帰宅してからその言葉を思い出して泣いた。
なんなんだよ。いま、もっとも「やさしい人」を必要としているのは、彼女の方じゃないのか。クルド人が差別と偏見のまなざしを向けられていることは、おそらく彼女だってある程度は知っているはずだ。いくら子どもでも、日本社会の冷淡さに気が付かないはずがない。それでも彼女は、やさしくありたいと願う。その無邪気で素朴な心情が、私には悲しかった。正直、つらかった。
振り返ってみれば、たとえば東日本大震災直後、東北各地を取材したときにも、被災者から同じような言葉を聞いている。「心配しないで」と近所の子どもを励ましていた人は、自身の家族が行方不明となっていた。避難所暮らしで憔悴する人々を笑顔と冗談で元気づけていた人もまた、家と家族を失っていた。苦しみながら、耐えながら、それでも他者を思いやる人が少なくなかった。
胸が締め付けられるような風景だった。私はそれを美談としたいわけではない。本当は、悲しみも苦痛も大声で訴えていい。不運と絶望を嘆いてもいいし、社会の理不尽に対しては激しい言葉で罵ったってかまわない。だが、苦痛を知っている人こそ、他者の苦痛をも理解しようとする。
社会は、私たちは、そこに甘えてはいけないと思うのだ。美しい物語に触れて安心してはならないのだ。あえて言えば、苦しんでいる人のやさしさに頼るような社会であっては困るのだ。
必要なのは、本当に困っている人、助けを求めている人にとっての「やさしい社会」だ。それを担保する制度や仕組みだ。もっとも弱い立場にある人が、自らやさしくありたいと望むのは、そこにしか救いがないことを知っているからだろう。
6歳の少女は、きっと「やさしい人」になるだろう。私が転んだら、たぶん、そっと手を差し出してくれる。そのとき、私は彼女の手を握り返しながら、あなたが躓いたとき、困ったとき、今度は日本社会があなたをきっと助けてあげるのだと伝えたい。
そんな社会で、私は彼女とともに生きていきたいのだ。





