金智英 交差する言葉のなかで[『図書』2026年6月号より]
交差する言葉のなかで
韓国における茨木のり子の詩の受容
日本で茨木のり子の詩を読み、研究してきた私にとって、茨木のり子と尹東柱はいつもパラレルに思い浮かぶ存在である。岩波書店から刊行された『茨木のり子全詩集 新版』(2025年9月)に、これまで未公開であった尹東柱詩の訳稿が収められたことは誠に感慨深い。茨木の旧宅の遺稿の中に尹東柱詩の訳稿を発見したときのことは、今も鮮明に記憶している。
私は大学の卒業論文で日本における尹東柱の受容を扱ったとき、はじめて茨木のり子という詩人の名に出会った。その後の訳稿発見の経緯とその分析については、すでに詩誌『詩と思想』(3月号)で説明したため省略するが、今回『茨木のり子全詩集 新版』に収められたことは茨木を通して再び尹東柱に出会い直す契機となった。以下では韓国における茨木の詩の受容に尹東柱がどのように関与したかたどってみたい。
日本で茨木のり子は「現代詩の長女」とも呼ばれ、戦後詩を代表する詩人の一人として長く読み継がれてきた。しかし韓国で彼女の名が読者の記憶に定着していく過程には、いくつかの迂回路があった。詩がそのまま届いたというよりも、断片が別のかたちで先に流通していたと言ったほうが近い。
韓国で茨木のり子の作品が、最初にまとまった一冊として読まれたのは、詩ではなくエッセイ集『ハングルへの旅』(2010)であった。すでに1960年の翻訳詩選集などを通して作品の一部は紹介されていたが、それらはあくまで選集の中のいくつかの作品として扱われるにとどまっていた。それに対して『ハングルへの旅』は一冊の書物として読者に手渡され、茨木のり子という存在をまとまりのあるかたちで印象づけることになった。韓国語版の裏表紙には「詩人の目に映った韓国人・韓国文化・韓国の物語」といった説明が掲げられており、書中には尹東柱に関するエッセイが収められている。韓国の読者にとって、とりわけ尹東柱に言及した部分が強い関心を引いたと考えられる。植民地支配という歴史を背負う日本の詩人が、朝鮮語で詩を書き、その生を奪われた詩人・尹東柱をどのように受け止め、どのように語ったのか。その問いは、文学的関心を超えた重みをもって読者を引き寄せていたのである。
韓国ではじめて刊行された日本詩の翻訳詩選集として知られるのは、青雲社の『日本詩集』(1960)で、詩の紹介と理論的理解とをあわせて提示する構成がとられていた。もっとも、日本文学はこうした翻訳を通じてのみ受け取られていたわけではなかった。植民地支配の歴史を背景として、日本語を読むことのできる世代は1950年代まで一定数存在しており、作品は原語のまま読まれることも少なくなかった。しかし1960年代に入ると、その状況は徐々に変化していく。日本語で読むことのできる読者が減少していくなかで、日本文学は次第に韓国語への翻訳を通じて読まれるものへと移行していった。それは、日本語で直接読まれていた時代とは異なるかたちで、日本文学を一つの「外国文学」として受け止めていくことを意味していた。ただし、翻訳が進んだ1960年代であってもその中心は選集やアンソロジーであり、個々の詩人に焦点を当てた単著の刊行が広く行われていたわけではない。実際、詩人の単著として比較的早い段階で刊行されたものとしては、金龍済による石川啄木訳詩集『ひとりでいこう』(新太陽社、1960)が挙げられるが、こうした試みはまだごく限られたものであった。
1990年代に入ると状況はさらに変化していく。民音社の『世界詩人選』シリーズにおいて、複数の詩人の作品が単行本として紹介されるなど、日本詩の翻訳出版は次第に体系性を帯びていった。この時期の特徴は、量的な拡大というよりも、むしろ質的な転換にあったといえる。日本文学翻訳の出版状況としては一時的な停滞も指摘されているが、その一方で、翻訳の方法や水準は大きく見直されていった。その背景には、いくつかの要因が重なっていた。
1980年代以降、植民地世代とは異なる立場にある日本文学研究者による翻訳が本格化したことが挙げられる。従来とは異なる視点から翻訳が行われるようになり、翻訳のあり方自体が再検討されていった。同時に冷戦の終結以降、それまでの安保共同体的な枠組みによるイデオロギー的拘束が緩み、日韓関係をめぐる歴史認識や言語の問題があらためて浮上した。さらに、日本をかつての支配の記憶に結びついた存在としてだけでなく、「外国」として捉え直そうとする関心も広がるなど。こうした読者側の変化もまた、翻訳の質的向上を後押しすることになった。その結果、90年代以降、日本詩の単著としての翻訳は徐々に増加し、2000年代に入るとその動きはいっそう加速する。江國香織、佐川亜紀、小池昌代、谷川俊太郎など、さまざまな詩人たちの作品が単行本として継続的に紹介されるようになり、日本詩の受容はより広がりを持つようになった。2017年、茨木のり子訳詩選集『わたしが一番きれいだったとき』が刊行されたのは、こうした流れの延長線上にあった。では、そこに至るまで、茨木のり子の詩は実際にどのように受け取られてきたのか。その具体的な過程を、もう少し丁寧にたどってみたい。
最初期の紹介として確認できるのは、すでに触れた1960年刊行の『日本詩集』に収録された「見えない配達夫」である。その後、70年代までは翻訳詩選集において茨木の詩が継続的に取り上げられることはなかったが、80年代に入ると少しずつ紹介されるようになる。1984年刊行の探求堂の『現代日本詩集』4(「六月」「わたしが一番きれいだったとき」「見えない配達夫」「私のカメラ」収録)をはじめ、複数の詩選集において、茨木の作品はまとまったかたちで収録されるようになっていく。90年代以降になると、掲載の機会はさらに増え、創作と批評社などの主要出版社による『日本現代代表詩選』をはじめ、誠学社の『日本名詩鑑賞』といった詩選集にも取り上げられていく。このように見ていくと、茨木の詩は単発的に紹介されたのではなく、複数の詩選集を通じて反復的に読まれてきたことがわかる。
注目されるのは、こうした選集を通じた反復的な掲載のなかで、特定の作品が繰り返し読まれることにより、そのタイトル自体が読者の記憶のなかで独自の位置を占めるようになっていった点である。なかでも「わたしが一番きれいだったとき」というタイトルは、詩の内容の理解に先立って広く知られるようになり、やがて別の文脈のなかでも用いられていくことになる。このことは、このタイトルが小説の題名として用いられている事例からも確認できる。2009年のコン・ソンオク、2011年のシン・イヒョンはいずれも同名の小説を発表しているが、そこには茨木の詩に対する個別的な読解や共感が前提として存在していると考えられる。同時に、こうした反復的な紹介を通じて、このタイトル自体が広く知られるようになり、他の文脈においても参照されうる言葉として機能するようになっていったと見ることができる。そして、2017年、翻訳詩集『わたしが一番きれいだったとき』が単行本として刊行されるに至る。刊行の時期としては決して早いとは言えないが、この書物は、それまで詩選集の中で繰り返し読まれてきた「わたしが一番きれいだったとき」という言葉が、そのまま一冊のタイトルとして掲げられた点でも注目される。ここで初めて、茨木の詩は「選集の中の一人」ではなく、「一冊の詩集を持つ詩人」として読者に手渡された。しかもこの書物には、尹東柱をめぐるエッセイも収められており、複数の入口を往還しながら読むことのできる構成が形づくられていた。
2019年、韓国MBCの人気テレビ番組『神秘なTVサプライズ』で、尹東柱と茨木の関係が取り上げられた。番組では、茨木が尹東柱の詩「序詩」に深く心を動かされ、日本の教科書への掲載に尽力したエピソードが紹介された。ここでも茨木は「尹東柱を愛した詩人」として示され、こうしたメディアでの言及は、彼女の名を広く共有させる契機となったと考えられる。その後も、茨木のり子の詩は韓国において継続的に翻訳・出版されてきた。たとえば、2019年には『はじめての町』のほか、『女の言葉──茨木のり子詩選集』が刊行され、異なる翻訳者による複数の試みが同時期に現れており、茨木の詩が一過性の紹介にとどまらず、複数の読解と翻訳を通じて受容されていることがうかがえる。
このように見てくると、韓国における茨木のり子の受容は、単一の契機によるものではないことがわかる。選集、エッセイ集、特定の作品の記憶、メディア、そして単行本。それぞれ異なる入口が重なり合いながら、徐々に読者のあいだに浸透していったのである。茨木のり子は、韓国語を学び、韓国の詩を読み、とりわけ尹東柱の詩と深く向き合った詩人である。その姿勢は、単なる紹介者というよりも、他者の言葉に耳を澄ませ続けた一人の読者のあり方に近いかもしれない。
注目すべきは、韓国でこうして茨木のり子に言及するとき、尹東柱との関係がほぼ例外なく伴っているという点である。茨木のり子は、しばしば尹東柱とともに語られるかたちで紹介され、その関係性そのものが、彼女を理解するための重要な枠組みとして機能してきたといえる。韓国における茨木のり子は、まず「尹東柱を読む詩人」として知られ、その延長線上で徐々に茨木本人の詩が読まれていったのである。
こうした受容は、単に翻訳出版の量や時期だけによって説明できるものではない。むしろ、尹東柱という存在を媒介としながら、複数の入口を通じてゆっくりと形づくられてきた読まれ方であったといえるだろう。その動線そのものが、韓国における茨木のり子の姿を形づくっているのだと思う。
茨木のり子と尹東柱は日韓それぞれの読者にとって、母語を通して「隣の国のことば」で書くもう一人の詩人へと誘ってくれる存在である。尹東柱を入口にして茨木のり子を知り、茨木を通してあらためて尹東柱を読む。私には、二人は互いの名をそれぞれの読者へと運んでくる通い路のような関係に思えてならない。
(きむ じよん・日韓比較文学)




