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【訳者あとがき】クリストファー・イシャウッド作/真野泰 訳『シングル・マン』

 クリストファー・イシャウッド(1904~1986)は英国生まれの作家。第二次世界大戦開戦前後の時期をヨーロッパで過ごしたのち、米国に移住。著名な作品として『さらばベルリン』が、『キャバレー』のタイトルでミュージカルや映画となり、大人気を博したことをご存知の方も多いのではないでしょうか。
 本作『シングル・マン』もまたイシャウッドの代表作であり、デザイナーのトム・フォード監督、コリン・ファース主演で映画化もされました。「一人で生きる」とはどういうことか? 舞台は1962年、キューバ危機直後のカリフォルニア。まだ戦時の記憶も生々しい街で、同性の恋人ジムを事故で亡くしたジョージが生きる、「シングル」のある1日を描きます。
 以下に、契約上、訳書に収録することが出来なかった「訳者あとがき」と「イシャウッド略年譜」を掲載いたします。ぜひ本作を味わう導きの糸としてお読みいただければ幸いです。

 


 

 このたび岩波文庫から刊行された『シングル・マン』は、クリストファー・イシャウッド(1904―86)の小説A Single Manの全訳である。翻訳にあたっては、1964年にニューヨークの出版社サイモン・アンド・シュスターから刊行された初版を参照しつつ、底本としてはニューヨークのファラー・ストラウス・アンド・ジルー社による1987年版を用いた。初版には小説の終わり近くの「片手が枕の下を探ってハンカチを引っぱり出し、……」(文庫228頁)という一文がない。

 この小説は主人公のジョージが朝に目を覚まし、バスルームで「膀胱の中身を空け」(6頁)てから、夜にバスルームで「膀胱の中身を空け」(226頁)たのち、眠りにつくまでの一日を描いている。作品中に明記されているのは1962年という年だけだが、米ソが核ミサイル配備をめぐり対峙したキューバ危機が回避されてから約1か月後であることや、人々の言動から推して金曜日であるらしいことを考え合わせると、11月30日を想定しているものと思われる。
 イシャウッドは1962年の夏、ヴァージニア・ウルフ(1882―1941)の『ダロウェイ夫人(Mrs Dalloway)』(1925年刊)を読んでいた。同年8月22日の日記で、その散文は一音一句の狂いもなく、楽器で演奏することさえできそうだと評し、これまでに読んだ最も美しい小説の一つに数えている(同月26日に読了し、改めて賛辞を記すことになる)。同時に、政治家夫人の一日の意識の流れを追ったこの小説の手法を、自分の文体を保ったまま試すことができないだろうかと考えはじめてもいる。その後の模索の末に生まれたのが、本作『シングル・マン(A Single Man)』である。
 なお、日記の引用は、Katherine Bucknell編 Diaries 全3巻(1996年、2010年、2012年刊)による。米国版はハーパーコリンズ社刊、英国版は第1巻がメシュエン社刊、第2・第3巻がチャトー・アンド・ウィンダス社刊である。1960年代の日記は第2巻 The Sixties: 1960–1969 に収められている。

 主人公のジョージはイングランド北部に生まれた58歳の大学教師である。米国西海岸に暮らし、ロサンゼルスのサン・トマス州立カレッジ(架空)の英文科で教えている。作者のイシャウッドもまたイングランド北部の出身であり、また1904年8月の生まれであるため、62年11月には58歳だった。あとで見るようにベルリンなど各地を転々としたのち、1939年に渡米。ニューヨークでの生活を経て拠点を西海岸に移し、その後サンタモニカ周辺に居住していた。59年から62年にかけては、ロサンゼルス州立カレッジ(現、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)で英文学を講じている。
 主人公ジョージは長年のパートナーであったジムを自動車事故で失い、一年が過ぎた今もその悲しみから立ち直れずにいる。またその喪失を契機に、自らの老化といずれ訪れる自分の死を強く意識するようにもなった。それでも、カレッジのキャンパスを歩き、授業をし、学生や同僚と話し、スポーツジムで汗を流し、同じ英国出身の女友達と食事をともにする中で、ささやかでかけがえのない心の晴れ間を見出していく。病院に立ち寄って末期患者の友人を見舞った帰り道、車を運転しながら街の人々を眺めているうちに、生きていることがむしょうに嬉しくなる。「おれは生きている、生きているぞおれは」(126頁)と思う。「たとえこんなオンボロでも、まだ温かな血と生きている精液と濃密な骨髄と健やかな肉の詰まった体の中にいるのはなんとよいことか!」(126頁)と心の中で叫ぶ。
 イシャウッド自身にも長年連れ添った同性のパートナーがいた。1953年に出会い、翌年からイシャウッドが亡くなる86年まで30年以上にわたって生活をともにしたドン・バカーディ(1934年生まれ)である。本作がトム・フォード監督によって映画化された2009年、『アンジェリーノ・マガジン(Angeleno Magazine)』12月号のインタビューに応じたバカーディは往時を振り返り、1960年代初頭は二人の関係がぎくしゃくし、自分のほうから別居を切り出していたことを明かしたうえで、きっとイシャウッドは小説の中でジムを死なせることで、一人で生きることを想像の中で試してみたのだろう、と語っている。

 本作は当初、The Englishwomanという題のもとで書き進められていた。イシャウッドの1962年9月18日の日記によると、同日の朝、浜辺に出て書きかけの小説について二人で話すうちに、バカーディからThe Englishmanにしてはどうかと提案があったという。さらに翌63年8月2日の日記によれば、7月29日の晩、バカーディがベッドの中で長いこと黙っているので寝てしまったかと思っていると、やぶからぼうに言ったのだそうだ。「タイトルにA Single Manっていうのはどう?」
 英語でa single manは「独身の男性」の意だが、同性婚が認められていない世界では、同性愛の男性は、法律上、常にa single manである。
 同性婚が認められないどころではない。1962年の時点では、同性間の性行為はカリフォルニア州を含むほとんどの州で刑法犯だった。イシャウッドの回想録Lost Years: A Memoir 1945–1951には、1949年12月4日、若い恋人ジム・チャールトンとヴァラエティ(Variety)というゲイ・バーに出かけた際、警察の手入れに遭ってサンタモニカ警察署へ連行された顛末が記されている。取り調べでお前は同性愛者かと問われ、それを否定したことをイシャウッドは深く恥じている。
こうした時代にも、男性の同性愛をテーマとした作品は書かれていた。たとえば、本作が捧げられている米国作家ゴア・ヴィダル(1925―2012)による、同性愛の青年を主人公とする小説『都市と柱(The City and the Pillar)』(1948年刊)。イシャウッドはこの小説を高く評価しつつも、主人公が元恋人の男性を殺してしまうという結末に不満を表明していた。また、尊敬するE・Ⅿ・フォースター(1879―1970)から『モーリス(Maurice)』の原稿を読ませてもらったイシャウッドは、同性愛の主人公たちに希望のある結末を与えるというフォースターの考えに共鳴し、生前出版を勧めていた。しかしフォースターが死後出版の意志を翻さなかったため、その判断を尊重して原稿を預かり、没後1971年の刊行に重要な役割を果たすことになる。こうした文脈の中で見ると、『シングル・マン』は、同性愛の関係も幸福なものであり得るし、実際しばしば幸福なものなのだ、というイシャウッドの主張に具体的な形を与え、しかも1964年という早い時期に公にされた作品である点で、歴史的に重要な意義をもっている。
 同性間の性行為(正確には、そのうちの成人同士の合意に基づく私的なもの)が刑事罰の対象から外されるのは、カリフォルニア州であれば1976年。それを刑罰の対象とすることは違憲にあたると合衆国最高裁判所が明示的に判断するのは、2003年のローレンス対テキサス州事件の判決においてである。2004年、全米で初めてマサチューセッツ州が同性婚を認め、2015年のオーバーグフェル対ホッジス事件での最高裁判決により、事実上全米で同性婚が合法化されることになる。2022年には、結婚尊重法(Respect for Marriage Act)も成立した。これは、各州で合法的に成立した結婚(同性婚・異人種間結婚を含む)の法的効力を、州を越えて保障する連邦法である。
 2026年3月、日本においても、全国で提起された6件の同性婚訴訟が最高裁判所大法廷で審理されることが決定された。早ければ2027年にも、同性婚をめぐる憲法判断について最高裁としての統一見解が示される局面に入ったことになる。

 本作のA Single Manというタイトルは別様にも、〈一人の人間〉とも読める。人間は、結局はシングルだ。イシャウッドの前作Down There on a Visit(1962年刊。以下、Down There)では、アンブローズという登場人物がこう言う――「でも、人間、いつだって一人だろ」。そして、個々の人間であるというそのこと自体が一種の「牢獄」なのだと論じるのが、ジョージが授業で教材としている(70頁以下)、オルダス・ハックスリの小説After Many a Summer Dies the Swan(1939年刊、邦訳は高橋衞右訳『夏幾度も巡り来て後に』近代文藝社)の登場人物プロプターである(第1部第9章)。
 どこまでも一人である人間が、やはりどこまでも一人である他の人間とどう関わることができるのか。本作では、ジョージの人との接し方が細密に描かれる。たとえば、キャンパスで声をかけてきて、並んで歩きはじめた学生のケニーと、結局しゃべりながら一緒に書店までいってしまう場面。ケニーは書店に用があったのだが、ジョージに用はなかった(90―97頁)。そして、かつて自分からジムを奪おうとした女性を病院に見舞う場面。余命いくばくもないその恋敵のベッドの横にすわり、手をとる。それは、いずれ死を免れない者同士として、なんらかの接点をつくるために必要な行為なのだという(117―118頁)。そして、スポーツジムでローティーンの少年と並んで腹筋運動をする場面。横の少年の動きに意識を集中しているジョージに少年の活力が乗り移る(131頁)。そして、女手ひとつで育てた息子に出ていかれ、泣きじゃくる女友達の横にすわり、女友達の体に片腕を回す場面。もう片手では、ちゃっかり酒を飲みつづけ、でもその腕の動きが相手に伝わらないように気を付ける(154頁)。
 このように、ジョージは人の横に並び、人の仕草、表情、声に注意を払いつづける。その際、理解しようとすることは、かならずしも求められない。なにしろ、「非理解――あるいは相互誤解にとどまる覚悟そのものが一種の親しみなのだ」(96—97頁)と言うのだから。それどころか、この小説で繰り返される〈人と並ぶ〉という動作は、他者を理解しようとする衝動から一歩退き、それでもその場に留まりつづけるための積極的な位置取りでさえあるのかもしれない。人と向かい合わないことによって、注意(attention)が、理解と評価へ、さらには評価に基づく操作や介入へと変わることなく、ただ他者の現実に触れつづけるための態度として保たれる――そのような可能性が示唆されているようにさえ思われる。このようなジョージの人との接し方は、シモーヌ・ヴェーユ(1909―43)やアイリス・マードック(1919―99)の〈注意(attention)の倫理〉とでもよぶことのできるものの実践として読むこともできるだろう。実際、ジョージの理解無用論は、ヴェーユの「他者とはわれわれの読みとはまちがいなく別物である」(冨原真弓訳『重力と恩寵』「読み」、岩波文庫)ということばを思い出させる。ひとことでいえば、『シングル・マン』は、人と向き合うのではなく、人と並んで、人に注意を払いつづけることの効用についての小説である。この〈並ぶ〉関係は、最後のケニーとの場面で大きく揺らぐのだが、その揺らぎはむしろ、この態度の困難さと切実さを際立たせている。

 ここで、ジョージの一日の動きを追ってみよう。
 朝、目を覚ましたのは、海岸に程近いカンファー・ツリー・レーン。日本語にすればクスノキ小路といったところだろうか。これは架空の地名だが、2024年に刊行されたキャサリン・バックネルによる伝記Christopher Isherwood Inside Out(版元は米国ではファラー・ストラウス・アンド・ジルー、英国ではチャットー・アンド・ウィンダス)によれば、イシャウッドが1948年から50年にかけて住んでいたサンタモニカ・キャニオンのイースト・ラスティック・ロードの家がモデルになっている。なお、サンタモニカ・キャニオンは、サンタモニカ市の北西端とロサンゼルス市(パシフィック・パリセーズ地区)にまたがる地域である。
 朝食を済ませたジョージは車を駆ってサン・トマス州立カレッジに出勤。これも架空のカレッジだが、作中で与えられている位置に照らせば、前述のロサンゼルス州立カレッジを念頭に置いていると考えてよい。
授業を終え、カレッジの教員食堂でサラダとコーヒーだけの昼食を済ませてから、ロサンゼルス中心部の病院にかつての恋敵を見舞う。
 見舞いののち、行くはずの日ではなかったが、スポーツジムに寄る。
 その後、買い物にスーパーマーケットへ。
 一人で食事をする気になれなくなったジョージは、スーパーで買ったものを自宅に置いてから、同じ英国出身の女友達の家で食事をし、酒を飲む。
 だいぶ酔ったのでまっすぐ帰ってベッドに入るつもりだったはずが、自宅の前の橋まできたところで気が変わり、近所のバー、ザ・スターボード・サイドでさらに飲む。日本語にすれば右舷亭となるこの店の名は架空だが、バックネルの伝記によれば、イシャウッドのいきつけのバーS. S. Friendship(現、Shore Bar)が原型になっているという。
 ザ・スターボード・サイドで前述の学生ケニーにでくわし、最後は二人で海に入り波に洗われる。イシャウッドに「浜辺(The Shore)」(1952年、米誌『ハーパーズ・バザー(Harper's Bazaar)』への初出時のタイトルはCalifornia Story)という短い文章があり、住み慣れたサンタモニカ・キャニオンを「西のグリニッジ・ビレッジ」と紹介し、いきつけのバーにも触れ、夏は混雑をきわめる浜辺もレイバー・デー(労働者の日。9月の第1月曜。法定休日)を過ぎると人影もまばらになる、しかし、素晴らしく暖かな秋の日射しはいつまでもつづき、クリスマスまで海に入って泳ぐことができると記している。
 右に略述したジョージの一日のうち、自宅→カレッジ→病院→スポーツジム→スーパーマーケット→自宅までは、車を運転しての移動である。イシャウッドは1947年に英誌『ホライズン(Horizon)』に寄せた「ロサンゼルス(Los Angeles)」という文章の中で、「ロサンゼルスっ子は職場、娯楽の場、そして自宅のあいだを車で長距離移動する生活に慣れている。一日に80マイル(130キロ弱)走ることも決して珍しくはない」と記しているが、この日のジョージの車の走行距離も、イースト・ラスティック・ロードからイシャウッドの勤めていたロサンゼルス州立カレッジまでの距離を参考とするならば、少なくとも55マイル(90キロ弱)に達していると思われる(じつは、スポーツジムとスーパーマーケットのあいだで気まぐれを起こし、北の丘陵地帯をドライブするのだが、それは勘定に入れていない)。
 1960年代初頭、自動車普及が日本に先行していた米国でも、安全規制の整備と安全意識の定着が追いついていなかった点では、日本と大差がなかった。たとえば当時、乗員のシートベルト着用はおろか、自動車へのシートベルトの装備も義務付けられていなかった。米国において、66年制定の連邦交通車両安全法(National Traffic and Motor Vehicle Safety Act)に基づく安全基準が策定され、すべての新車にシートベルトの装備が義務化されるのは68年からである(日本は翌69年から)。イシャウッド自身、何度も交通事故を起こした。58年11月27日の日記には、前々日の晩、居眠り運転をして駐車車両に衝突し、顔をハンドルに激しく打ちつけ、顔面、ひざ、胸に怪我を負ったことが記されている。そして、『シングル・マン』を執筆中の62年10月11日の日記によれば、イシャウッドはその朝、電話をかけてきたかつての恋人ジョン・ザイゲルから、ザイゲルの恋人エド・ハルゼーが自動車で正面衝突を起こし、即死したことを告げられている。ちなみに、この小説が刊行された1964年は、日本では俳優の佐田啓二が自動車事故で亡くなった年である。
 この自動車というものが、この小説では人間の身体の比喩としても用いられる。自動車が身体ならば、運転者は意識である。ケンブリッジ大学退学後にロンドン大学で半年ほど学んだ医学の知識も背景として、イシャウッドは人間を、物質である身体が意識によって生きられている過程として捉えている。その過程は、睡眠と覚醒、食事と排泄という基本的な身体のリズムに刻まれる――そのことを確認するかのように、この小説は覚醒で始まり入眠で終わり、あいだに三度の食事、一度の排便、三度の排尿、さらに数度の放屁が書き込まれている。むろん、自由と力の象徴である車は、同時に、劣化、故障、そして廃車へとむかう運命を免れない。

 買い物を自宅に置いたあとのジョージは、自宅→女友達宅→自宅の前の橋→いきつけのバー→海→自宅と、歩いて移動する。午前中にロサンゼルス中心部より東に位置するカレッジに出勤したあと、カレッジから海へと、つまり東から西へと、移動したことになる。そして、東から昇り、やがて中天にかかり、傾きはじめ、ついに西の海に沈んでいく太陽の運行にしたがって、ジョージは社会的・公共的な役割を解かれて――スーパーからいったん戻った自宅ではスーツを脱いで普段着になって――私人となり、最後は素っ裸になって海の波に繰り返し洗われ、洗われるたびに「ますます清らかに、ますます自由に、ますます小さくなっていく」(205頁)。
 さらに、この西進は、ヨーロッパから大西洋を渡って米国へ、そして渡米後は東海岸のニューヨークから西海岸のロサンゼルス、サンタモニカへと移ってきたイシャウッドの生涯の旅をなぞってもいる。
 イシャウッドは1904年、英国チェシャのストックポートにあるワイバーズレー館(Wyberslegh Hall)で生まれた。小説の主人公ジョージの生まれた屋敷は、チャールズ1世が斬首された1649年に建てられたことになっている(163頁)。だが、イシャウッドの生まれた屋敷はさらに古く、16世紀初頭に建てられたものらしい。1649年という年を選んだのには理由がある。イシャウッドの先祖にジョン・ブラッドショー(1602―1659)がおり、この人はチャールズ1世に死刑を宣告した判事なのである。
 1929年、英国上層中産階級の道徳的、社会的規範への違和感と、家庭における母親との緊張関係が、イシャウッドを国外へ向かわせた。1月にナチス政権が成立した33年の5月までベルリンに滞在したイシャウッドは、その後、ロンドン、欧州各地、中国などを移動して過ごし、スペイン内戦をめぐる政治的・知的議論の渦中に身を置くことになる。1935年刊のMr Norris Changes Trains(邦訳は木村政則訳『いかさま師ノリス』白水社)では、語り手はベルリンで生活し、出来事や人物に巻き込まれすぎることなく、観察者としての距離――まだ〈見ているだけでいる〉ことが可能だと信じられていた距離――を、比較的安定して保ちながら、政治と私生活の混淆を描いている。これにたいして1939年刊のGoodbye to Berlin(邦訳は中野好夫訳『ベルリンよ、さらば』角川文庫ほか)では、語り手は同じベルリンに暮らしているものの、観察者としての距離はもはや自明な前提ではなくなり、〈見ること〉それ自体が、ナチズムの台頭という政治的現実の中で倫理的な問題として浮上してくる。作品の冒頭近くに置かれた、「私は、シャッターを開いたままのカメラだ。完全に受動的で、記録するだけだ。考えることはしない」という語り手の自己規定も、額面どおりに受け取ることはできない。この作品は、加速する歴史の流れを前にして行動することもできず、さりとて適切な距離を保ちつづけることにも困難を覚える語り手が、〈見ること〉しかできない自分自身の姿を、その不安定さを含めて記録した小説となった。
 こうして、ナチスの台頭、スペイン内戦、そして第二次世界大戦直前の緊張を間近で観察してきたイシャウッドは、あたかもそうした政治の過剰から撤退するかのように渡米を決意する。前にも触れた1962年刊のDown Thereによれば、イシャウッドは「私にとって、何ものも――本当に何ひとつ――戦争に値するものはない。」との確信に至り、1939年1月、友人である詩人W・H・オーデン(1907—73)とともに大戦前夜の英国を離れた。それは気高い反戦主義の宣言であるのと同時に、見方によっては、イシャウッドが自身に引き受けた、きわめて個人的な言い訳でもあった。
 ケンブリッジ大学を退学した翌年の1926年に書きはじめられ、28年に刊行されたデビュー小説All the Conspiratorsの第1章は、イングランドの港から一羽の鵜が西の空へ羽ばたく場面で結ばれる。そしてその様子は、「まるで切羽詰まった不条理な衝動が、アメリカへむかって」飛び立つようだった、と描かれている。後年イシャウッドは同小説の58年版の前書きで、この一節を「無意識の予言」とよんで面白がることになる。
しかし渡米後の生活拠点となるはずだったニューヨークも、歴史と文化が堆積し、政治的言説の密集する、形を変えた旧世界であった。イシャウッドはほどなく、より意味の希薄な西海岸へ移っていく。その直接のきっかけとなったのはハリウッドでの映画脚本の仕事と、以前からの知己であった宗教思想家ジェラルド・ハード(1889―1971)から届いた西海岸への誘いの手紙であった。そののち、ハードから紹介されてスワミ・プラバヴァーナンダ(1893—1976)と知り合い、インドのヴェーダーンタ思想に関心を深めていく。

 デビュー小説が刊行された1928年春(イシャウッド23歳)から、ドン・バカーディと出会う53年春(イシャウッド48歳)までの25年間の経験を題材とした小説がDown Thereである(この小説はバカーディに捧げられている)。これと58歳の主人公ジョージのたった一日を扱った『シングル・マン』とが、いわば対照的な姉妹篇となっている。
 対照性の第一は、自伝性とフィクション性の比率にある。
鶴見俊輔は、雑誌『婦人之友』1987年11月号に「イシャウッド——小さな政治に光をあてたひと」という文章を寄せ(黒川創編『鶴見俊輔コレクション1 思想をつむぐ人たち』所収、河出文庫、2012年刊)、イシャウッドのことを「数知れぬ私小説を書」き、「くらしかたの中にある小さい政治(…)の役割に光をあてつづけた人だ」と評した。むろん、私小説といっても小説である以上、ある程度はフィクションを含むわけだが、鶴見が私小説とよんだイシャウッドの小説の中でも、クリストファー・イシャウッドという名前の主人公が一人称で語るDown Thereは相当に自伝性の高い作品、逆にジョージという名前の主人公について三人称で語る『シングル・マン』は相当にフィクション性の高い作品になっている。素材となった出来事が推測できる場合はあり、たとえばジョージがかつての恋敵を見舞った病院からの帰りに、車から街のクリスマス飾りや街角に立つ男娼を見るくだりについては、英国生まれの俳優チャールズ・ロートン(1899—1962)を見舞ったときの経験 (1962年11月30日の日記に記された29日の出来事) がその下敷きになっていると考えられる。だが見舞いの場面の素材は一つではなく、かつての恋人ポール・ケネディを見舞った折を含む複数の経験が組み合わされているのを見れば、『シングル・マン』が私小説的でありながら、フィクションとして念入りに構築された小説であることがわかる。
 登場人物についても、『シングル・マン』のほうがフィクション性が高い。Down Thereの主要登場人物には明確な実在のモデルがいる。たとえば、「ポール」の章に出てくるポールはデナム・ファウツ(1914―48)のことであるし、同章のオーガスタス・パーが前述のジェラルド・ハードである。これにたいして『シングル・マン』の重要な登場人物である学生ケニーには、ぴたりと当てはまる特定のモデルはいない。1957年から62年にかけての日記に名前が見える学生のケント・チャップマンを含む複数の若い男性との交流が基にあると推測することはできるものの、作中のケニーは具体的な背景を多く与えられず、〈若さ〉を体現する人物として造形されている。
 対照性の第二は、物語への思想の織り込み方である。
 前作Down Thereでは、師(master)と仰ぐE・M・フォースターへの思いにせよ、霊魂の存在の否定にせよ、反戦にせよ、思想は一人称の語り手の内省として、あるいは登場人物のことばとして、ゴロゴロとばらまかれていた。それにたいして本作『シングル・マン』では、大学教師ジョージが学生たちに語る少数派論などを別にすれば、思想は直接に語られるよりも、登場人物の日常の振る舞いや感覚のレベルに埋め込まれる。海の波に洗われて自分が「小さくなっていく」というジョージの感覚を、少し先に現れる「特定の誰かの意識ではなくて、過去、現在、未来にわたるすべての人とすべての物とを包含し、最果ての星々のむこうまで途切れることなく広がる意識」(233頁)ということばに結びつければ、そこにヴェーダーンタ的な個の牢獄からの解放や、全体との意識の一体性を読み取ることも可能だろう。しかし、それが思想として説明されることはない。
 このように見てくると、『シングル・マン』におけるフィクション性の上昇と、思想の非言語化とは、相互に切り離し得ない関係にあることがわかる。自伝的語りから距離をとることで、本作は思想をことばで語る小説ではなく、思想が登場人物の日常の振る舞いや感覚として生きられる小説となった。イシャウッドは同時代の記録者、歴史の証言者としての役割から身を引き、大きな政治を後景に退けて、ジョージという一人の同性愛の英国人男性が1962年の米国西海岸で生きる日常の手触りを差し出す。そしてそのように提示された日常は、究極的には、一人の人間が世界の中でどのように存在しているのかという問いへと読者を導いていく。『シングル・マン』はこの方向における一つの到達点を示す作品として、イシャウッドの小説群の中でも特異な位置を占めている。
 イシャウッドの日記を見ると、本作 『シングル・マン』について著者自身、執筆段階から強い手応えを感じていたことがわかる。たとえば1962年11月19日には「これはきわめて有望だ。マスターピース(masterpiece)になり得る形式になった」と、また63年10月31日には「これは自分のマスターピースであると確信するに至った」と、それぞれ記している。そして刊行後の64年11月23日には、「今は、自分なりの基準に照らすなら、A Single Manはマスターピースであると感じている。つまり、この小説は、私がそれに達成させたかったことを、そのままに達成している、という意味だ」と述べている。第一作 All the Conspirators の執筆時以来、E・Ⅿ・フォースターを〈マスター〉(親方、マイスター)として仰いできたイシャウッドが、この時点で自らもまた〈マスター〉の域に達したと感じるに至ったという解釈も成り立つだろう。

 私事ながら付記しておくと、この翻訳は2018年11月のある夕、北烏山編集室の津田正氏(当時はまだ研究社にお務めだった)と岩波書店の古川義子氏のお二人と東京は神楽坂で歓談した折に端を発している。津田氏にはイシャウッドのこと、また鶴見俊輔がイシャウッドについて論じていることを教えていただいた。古川氏にはその後本書の編集を担当していただくことになり、ひとかたならぬお世話になった。おかげさまで、やりがいのある楽しい仕事となった。末尾ながら、この場を借り、お二方に篤くお礼を申し上げる。

2026年6月 真野 泰

 

クリストファー・イシャウッド略歴

1904 Christopher William Bradshaw Isherwood、8月26日、イングランドのチェシャに生まれる。父フランクは陸軍士官、母キャスリーンは裕福なワイン商の娘だった。
1915 父フランク、第一次世界大戦で戦死。
1918 イングランドの名門寄宿学校レプトン校に進学、エドワード・アップワード(英国作家 1903─2009)と知り合い、生涯の友となる。
1923 ケンブリッジ大学に進学、在学中から小説を書き始める。
1925 ケンブリッジ大学を退学。このころから W. H. オーデン(英国詩人 1907─1973)と親しくなる。
1928 最初の小説 All the Conspirators 発表。
1929 ベルリンに移住。のちに「オーデン・グループ」と呼ばれることになる若手文学者の交流圏で活動。
1932 第一次世界大戦を題材とした小説 The Memorial 発表。
1933 ロンドンに戻る。
1935 ナチス台頭前夜のドイツを舞台とした小説 Mr Norris Changes Trains、またオーデンとの共作による戯曲 The Dog Beneath the Skin を発表。
1936 オーデンとの共作による戯曲 The Ascent of F6 を発表。
1937 中篇 Sally Bowles を発表(のちに小説 Goodbye to Berlin の一部となる)。
1938 オーデンとともに中国を旅する。オーデンとの共作による戯曲 On the Frontier を発表。自伝的小説 Lions and Shadows を発表。
1939 アメリカに移住。複数の挿話からなる長篇 Goodbye to Ber-lin を刊行。代表作となり、作家としての名声が高まる。ハリウッドで脚本の仕事をするようになる。以前からの知己であったジェラルド・ハードと再会。ハードの紹介でスワミ・プラバヴァーナンダと知り合い、ヴェーダーンタ哲学に惹かれはじめる。
1944 聖典『バガヴァッド・ギーター』をスワミ・プラバヴァーナンダと共訳。
1945 Mr Norris Changes TrainsGoodbye to Berlin の2作を収めた合本が『ベルリン物語(The Berlin Stories)』としてアメリカで刊行される。小説 Prater Violet 発表。
1946 アメリカの市民権取得。
1951 Goodbye to Berlin を原作とした舞台 I Am a Camera が制作される。
1954 小説 The World in the Evening 発表。
1962 小説 Down There on a Visit 発表。
1964 小説 A Single Man 発表(本作)。
1966 Goodbye to Berlin を原作としたミュージカル Cabaret が制作される。
1967 小説 A Meeting by the River 発表。
1971 両親の日記や手紙を元にした伝記的回想 Kathleen and Frank 発表。
1972 ミュージカル Cabaret が映画化される。
1976 自らの青年時代を描く自伝 Christopher and His Kind 発表。
1980 ヴェーダーンタ修行の回想録 My Guru and His Disciple 発表。
1986 1月4日、サンタモニカにて没。

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