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杉本博司 スギモトノートで「絶滅」を読む[『図書』2026年7月号より]

スギモトノートで「絶滅」を読む

 

死ぬ。銀塩写真、さえも。

 この6月16日から、竹橋の東京国立近代美術館で「杉本博司 絶滅写真」という展覧会が開催されています。「絶滅」写真というのは、銀塩写真のことです。今やデジタル写真全盛の時代、銀塩写真と申し上げたところでピンとこない方があるかもしれません。

 銀塩写真というのは、光に反応するハロゲン化銀を感光材として使った写真一般を指します。なかでも、このハロゲン化銀が含まれたゼラチン乳剤を塗布した印画紙上に像を結ぶ、ゼラチン・シルバー・プリントという技法で私は作品を作り続けてきました。

 一方、デジタル写真というのは、取り込んださまざまな光を、その強弱等の別によって一旦、電気信号に変換し──いわゆる0と1の世界です──、それをもとに画像化したもので、今、「写真」といえばその多くがこのデジタル写真を指します。銀塩写真とデジタル写真。この両者の基本的な仕組みの違いが分かれば、それぞれの強みと弱みもおおよそ分かるはずです。

 銀塩写真の強みに限って言えば、銀塩写真はしばしば、「無限の階調」という表現で讃えられます。これはデジタル写真を支えるメカニズムが0と1から成る二進法の(階段状の)世界であるのとは違い、大判カメラで撮影した銀塩写真は大きく引き伸ばしても粒子が見えず、色調の変化も連続的である、ということを言っているのです。そしてその美は銀という物質が支えているわけです。

 と言って、デジタル写真が全くいけない、と主張するわけではありません。私もデジタルカメラを使って作品を作ったことがありますし、シリーズ〈Opticks〉のように、デジタルプロセスを介在させて作品化したものもあります。

 今回の展覧会は3年ほど前、近代美術館から回顧展を考えているとお話があったので、構想を練り、展示方法を考え、これにあわせて新作も制作してきました。「回顧展(レトロスペクティヴ)」というのはふつう、物故作家を取り上げるものですから、それを生きているうちに依頼されるのは「もうそろそろ寿命も尽きるかな」ということが予想されているわけです。

 一旦向こうの思惑をそう受け取った後、いやいや、俺はまだこれから作るものがいっぱいあるんだ、という気持ちが湧き上がってきて、それが新作制作にも繋がりました。

 その銀塩写真がなぜ「絶滅」なのか、これはご来場の方それぞれにお考えいただければいいのですが、一つの単純な答えは、この銀塩写真のフィルムがほとんど作られなくなった、ということです。フィルムが作られなくなったのはもちろん、デジタル写真が爆発的に普及したからです。また現在、銀塩写真のフィルムに使われている感光材についても環境への負荷を考えて、昔のものと同じではなくなっています。

デジタル以前/以後

 写真はいったい、何を写しているのでしょうか。歴史的に写真は真実の存在証明だった、と言うことができます。今では信じられないかもしれませんが、写真には証拠能力があったのです。写真に写ったものはある・・ものだ。これがデジタル以前の常識でした。私が〈ジオラマ〉などの作品で示したかったのは、写真には写らない・・・・ものもある、ということなのです。《アビシニアコロブス》(オナガザル科の霊長類。1980年)や《カリフォルニア・コンドル》(1994年)の姿が定着された写真を前に、見る人はそこに生命を感じ取っていました。しかしこれはアメリカ各地の自然史博物館内のジオラマを撮ったものなのです。元よりそこに命はなかった。虚も撮ってしまえば実になる。これは本作制作時点において、「「写真は真なる存在を証している」と考えられていた」という前提がなければ成立しない捻りです。そして大雑把に申し上げれば、20世紀終わり頃まで、写真が真実をある程度担保していると考えられていた時代は続いたのです。

 ところがデジタル写真の登場はその前提を覆しました。私に言わせれば、その時点で写真に決定的な変質が生じたのです。これほどデジタル画像の氾濫する現代、今や写真が常に真を写すものだと考える人の方が少数派かもしれません。

 ここまで、フィルムや真実性について申し上げてきました。しかし、それだけではない。「絶滅」についてもう一つ、私は恐ろしい想像を抱きます。

 ダゲレオタイプという写真術が1839年に公表されてから約2世紀、あらゆるものがデジタル化した現代にあっては、通信は言うに及ばず、物流も発電も放送も、「歴史」を下支えしている人間の記憶さえも、とにかく何から何まで二進法的データに変換・保存されているわけです。

 あらゆるものがデジタル化されてしまった世界が、例えば特殊かつ大規模なサイバー攻撃を受けたらどうなるだろうか。情報処理ができないからライフラインは直ちに停止します。都市部を中心に食糧もすぐに不足する。これは言わば現代の兵糧攻めです。しばらくのうちに一旦は回復したとしても1週間後、2週間後に攻撃の第2波がきたらもう助かりません。サイバー攻撃がデジタル画像に及べば、それを元に歴史を構想することにも著しく困難をきたすでしょう。フィルム、ネガ、紙に焼かれた銀塩写真などが人類最後の記憶装置であって、そのあとはどうなったか将来の人にはまるでわからない──という未来が待っているかもしれないということです。

 その点、銀塩写真のようにモノがあればまだしも、と思います。例えば平安時代、末法思想を背景として貴族たちは経文を書写させ、経筒という金属製の埋納器に収めて土中に埋めました。こういうものは現在も残っていて、その経文や埋経という行為そのもの自体から、一端とはいえ当時の人々の精神世界を窺うことができるわけですが、これとても紙というモノがあればこそです。デジタル信号に変換されたもの・・は、消えれば/復元できなければ、そこから何物かを取り出すことはできません。それを歴史として顧みることもできない。そうした反省に立ってか、デジタルデータのマイクロフィルム化が進んでいるとも聞きます。

 率直に言いますと、21世紀の私は、30世紀の世界の存在を無条件に信じることができません。この「絶滅写真」展で想定している最期はそれほど先のことではないのです。文書(ドキュメント)の絶滅だけならもう100年もないかもしれないし、もしかしたら、その日・・・は明日かもしれない。

今日、世界は死んだ。もしかすると──

 より実感をもって感じられる「絶滅」もあります。私はアメリカを中心にだいたい半世紀、海外で暮らしてきました。米国ではニューヨークに住んでいますが、マンハッタンやブルックリンはやや特異な場所で、文化的にはヨーロッパとの係わりが強い。

 ところが、ほんの川向こうのニュージャージーに行くと別世界です。人々の体つきが違うと感じます。

 例えば先日、ある調査記事を目にして驚きましたが、それによると、戦争や飢饉、気候変動から飢え死にする子供が減らないだけでなく、その対極にある肥満した人もまた大勢死んでいる、そして米国各地における肥満に関連した死は、前者よりなお多い、という。これは驚くべきことです。

 前近代、と一応申し上げておきますが、人の子が大人になるというのは割に珍しいことでした。餓えは日常茶飯のことだったので、人間には危機に備えて脂肪を蓄えておこうという向きに選択淘汰の圧力がかかっていたのでしょう。これは長期間かけて獲得された遺伝子水準の話です。そこへごく例外的なことに危機が生じないという環境が生まれ、珍しくも肥満という状態が生じた。人間が脂肪で死亡する、という皮肉な事態が出来するようになったのです。

 もちろん肥満しているという状態と死というイベントを明らかな因果関係で結ぶことはできませんが、明らかに肥満と死亡の間には相関があるという。これは末期的状態というべきでしょう。人が肥満して死ぬ、とは思いもしませんでしたが、これは現実に起きていることです。

 私は2014年、パリにあるパレ・ド・トーキョーで「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という風変わりなタイトルの展覧会を開きました。様々な「主義者」たちや職業人に、いつか来る世界の終末を33通りの最悪のシナリオとして語ってもらい、私がこれまで蒐集してきたモノや作品と組み合わせて展示したものです。

 3話だけ、ここに引いてみましょう。

 

古生物研究者──今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。人類の消費とそれに伴う生産力の増大により、エネルギー消費に歯止めがかからなくなり、埋蔵する化石燃料を使い果たすまでにはそれほど時間はかからなかった。化石燃料の燃焼により、大気成分の構成は急激に変化し、植物による光合成が妨げられる結果となった。地表はもはや哺乳類の生息環境に不適となり、人間を含むすべての哺乳類は死に絶えた。脊椎動物はデボン紀に水中から地表へ進出したが、これからは生命の水中回帰が始まる。イルカや鯨などの水中哺乳類にこれからの進化は委ねられる。人間のエラ呼吸化が私の研究課題だったが、志半ばで終わる。私の遺伝子は一応残すが、大気中で再生する目はまず無いだろう。

 

比較宗教学者──今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。地球に近づく大隕石の軌道が計算され、3年後に99パーセントの確率で地球に衝突することが報告された。人々は世界の終末を確信し、宗教が大復活を遂げた。しかし一神教と多神教が対立し、また一神教内部でも多くの預言者が現れ、中には我こそがキリストであると主張するものも現れた。何を信じるかで、人々が疑心暗鬼に陥り、宗教対立による殺戮が続いた。皮肉なことに大隕石は地球をかすめて去った。私は最後まで無神論を貫いたおかげで拷問を受けたが、辛うじて生き残った。しかし、この世を生き抜く価値があったのかは疑問だ。

 

コンテンポラリー・アーティスト──今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。後期資本主義社会時代に世界が入ると、アートは金融投機商品として、株や国債よりも高利回りとなり人気が沸騰した。若者達はみなアーティストになりたがり、作品の売れない大量のアーティスト難民が出現した。ある日突然、アンディー・ウォーホルの相場が暴落した。キャンベルスープ缶の絵は本物のスープ缶より安くなってしまった。そして世界金融恐慌が始まった。瞬く間に世界金融市場は崩壊し、世界は滅んでしまった。アートが世界滅亡の引き金を引いた事に誇りを持って私は死ぬ。世界はアートによって始まったのだから、アートが終わらせるのが筋だろう。

 

 この展覧会には他にも、「養蜂家」「国際連合事務総長」「ヒトゲノム解読者」「漁師」「コメディアン」など、さまざまな面々を集わせました。これをお読みになってどう思われるでしょうか? 12年前、全くあり得ないこととは思わないまでも、アーティストとしては割合自由に想像力を羽ばたかせて書いた33のシナリオの中には、思いがけず、非常に早く現実化してしまったものがあることに我ながら驚きます。

 こうした終末論というのは多くの文明に見られるものですが、物事には終わりがある、永遠はない、という考えに立って私はこのパレ・ド・トーキョーの展覧会を構想しましたし、開催中の「杉本博司 絶滅写真」にも同じ感覚が流れている、と言えるでしょう。単に一つの写真術が失われているということ以上の含意が当然あるわけです。

「杉本博司 絶滅写真」展とスギモトノート

 今回の展覧会ではデビュー作〈ジオラマ〉シリーズのほか〈劇場〉〈海景〉などの銀塩写真作品、『図書』で2022―23年にかけて24回、表紙に掲載したシリーズ〈ポートレート〉からも《ダイアナ、プリンセス・オブ・ウェールズ》(1999年)などが出品されます。また、《ポコット族》や、《スタイアライズド・スカルプチャー120[クリスチャン・ディオール、Bar、1947]》、《Opticks 087》(全て2025年)などは初めて公開する作品です。

 そして私が20代の頃につけ始めたノート──「スギモトノート」──が所蔵品ギャラリーの3階に、作品とともに出品されます。

《State Theatre,Sydney》(左、1997年)と、撮影時の覚えが書き込まれた「スギモトノート」(右)[クリックで拡大]
©Hiroshi Sugimoto/ Courtesy of Gallery Koyanagi

 この初公開のノート、ページを捲ってみるとカリフォルニア時代お付き合いしていた人の名前が出てくるところから推すに、1971年頃から手控えとしてつけたもののようです。

 私は作品の多くをシリーズとして制作しますが、そのためには考え抜かれたコンセプトが必要です。同時にそれは完璧な技術によって実現されなければならない。その精神に立って、作品を支えるコンセプトに至る道筋が見えるスケッチや書籍の引用、現像液の配合からプリント作業のコツまで、このノートは事細かに書き込んである。今見返してみると、アーティストとしての戦略、動き方、作品の打ち出し方などこの頃からすでに考えていたことがよくわかります。20代の後半にはおおよそのシナリオがあった、とも言えるでしょう。

 この「スギモトノート」が展示されるのと同時に、展覧会では実際に手に取っていただけるレプリカもあります。そして7月には美術ジャーナリストの鈴木芳雄さん(聞き手・文)をお相手に、〈劇場〉〈建築〉など代表的なシリーズ5つを取り上げ、より丁寧にこのノートを繙いた本『スギモトノート 銀塩写真技法』(7月に小社より刊行)が出版されます。

スギモトノート 銀塩写真技法 杉本 博司 著  鈴木 芳雄 聞き手・文
『スギモトノート 銀塩写真技法』

 私は時間や意識の起源について考えを巡らし、問いを立て、アートで回答してきました。例えばそれがシリーズ〈海景〉に結実したわけですが、ロケハンのことから天気待ちの苦労、どうすれば現像ムラを出さないかの試行錯誤、現像液の配合など、シリーズ誕生にまつわるさまざまな逸話を鈴木さんが引き出してくれました。しかしそれだけではありません。

 原瑠璃彦さんとの対談に加え、私自身が数十年ぶりに繙き、出会い直した「若き日の私」の心を綴った長大な「序」も収めました。ここからは写真技術以上に、作品を支える私の、そして人類の心性を読み取っていただけるものと考えています。(談)

(すぎもと ひろし・現代美術作家)

*6月16日から9月13日まで、東京国立近代美術館1階企画展ギャラリーで「杉本博司 絶滅写真 HIROSHI SUGIMOTO: EXTINCTION」展が開催されています。月曜休館。詳細は同館ウェブサイトでご確認下さい。
☞ https://www.momat.go.jp/exhibitions/569


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