石原明子 水俣と福島の交流を続けて
「自分が水俣病のことから逃げずに、もっと早く向き合っていたら、原発事故が起こらなかったのではないかと思うと、あなたたちに申し訳ない。」
(2013年、水俣の語り部・杉本肇さんが福島の若者たちに泣きながら謝った時の言葉)
「信じられる? 私たちのために、泣いてくれる大人がいたんだよ。それってすごくない?」
(杉本肇さんの言葉を聞いた、水俣にきた福島の若手リーダーの言葉)
3.11震災を挟む前後の年、私は、人間関係の葛藤を解決する紛争解決学等を学ぶため、米国の大学院に留学をしていた。その日は、カリフォルニア州バークレーにいて、クラスメートに「あなたの国が大変なことになっている。すぐにインターネットを見て!」と言われた。数日後、米国のテレビ中継で、リアルタイムで、東京電力福島第一原発が爆発する映像を見た。故国がなくなってしまうのではないかと思うほどの衝撃だった。
最初に福島の地を訪れたのは、その年の7月だった。郡山市の学校でPTA主催の勉強会があり、そこに講師として呼ばれていた医学博士の崎山比早子さんにたまたま出会い、同行した。親御さんたちは、放射性物質の降下の中で、子どもに何を食べさせるか、洗濯物は干して大丈夫か、ここに住み続けて大丈夫なのか、と気が狂わんばかりの不安を抱えていた。同時に彼らは、家族や身近な友人同士での人間関係の葛藤と分断に苦しんでいた。放射性物質の危険性について異なった認識や行動をする人同士で、本音が話せず、話せば深く傷つけあってしまうということだった。「こんな時だから力をあわせたいのに、どんどんバラバラになっていくんです」と福島のお母さんが言った。留学前に私が住んでいた水俣でも、人間関係の分断が人々を苦しめた。私は、福島の人々に水俣と同じ苦しみを味わわせてはならない、と強く思った。水俣の人々の命がけの祈りを感じていたからである。
健康を奪われ、差別や人間関係の分断に苦しんだ水俣病の患者の一部には、後に「赦す」と語り出す人たちが現れた。しかしそれは「水に流してよい」という意味では決してない。彼らが「赦す」と言ったのは「苦しむのは自分たちが最後となる社会を一緒に作ってほしい」という命がけの祈りで、後世を生きる我々への突き付けでもあった。彼らが「赦す」と言った覚悟を無駄にしてはならない。そう思い、紛争解決学の知見を用いて、水俣と福島をつなげる活動を開始した。事故後の福島の各地や避難先でそれぞれの立場や意見を言葉にし、活動を始めた20代から40代の若手中堅リーダーたちに声をかけ、共に水俣を訪問していただいた。
今でも忘れられない瞬間がある。2013年、彼らを最初に水俣に招いたときのことだった。水俣の語り部の方が「自分は若いころ、暗くて辛い水俣が嫌で、水俣を捨てて東京に出て、30歳を過ぎて再び水俣に戻った」と話す中で突然言葉に詰まり、「自分が水俣病のことから逃げずに、もっと早く向き合っていたら、原発事故が起こらなかったのではないかと思うと、あなたたちに申し訳ない」と号泣された。福島からの若者たちも声をあげて泣いていた。現実的には、水俣の語り部一人の力では原発事故は防げなかったかもしれない。でもその語り部の方が、原発事故を自分事として受け止めた涙の謝罪は、確実に福島の若者たちの心に届いた。
参加した20代の女性は、「水俣に行けてよかった。信じられる? 私たちのために泣いてくれる大人がいたんだよ? 私たちのために泣いてくれる人なんて、それまで出会ったことがなかった」と言った。 原発事故のあと、若い彼らは、自分たちは国や社会から捨てられた、と感じていた。子どもも産めないかも、結婚もできないかも、自分たちに未来はないのでは、と絶望していた。「誰も私たちのために泣いてはくれない」と感じていたのだ。
水俣病患者運動を牽引し「チッソは私であった」という言葉を残した緒方正人さんが、原発事故後に「それでも子どもを産み続けた」という文章を寄稿した。その問いかけの深さが自分の中で意味を成すのに時間がかかった。緒方さんは言う。「水俣も福島も沖縄もいわゆる「国策」の犠牲地区。しかし私たちは「日本国民」「米国民」という以前に、「自然界という生国の民」なのではないか」。豊かさを求めて原発を作り出したのも人間、健康な子どもを産みたいと産み分けようとするのも人間。水銀の毒を吸って障害をもって生まれた我が子を宝子(たからご)といって育くむのも人間。命はどこから来ているか。私たちは生き物としてどう生きるべきか。人間の罪と尊さ。45歳で産んだ我が子は、今4歳になった。
今年2023年10月20日、「私たちのために泣いてくれる大人がいたなんて」と水俣で泣いた彼女が、美しい男の子を出産した。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)