菊池由貴子 つらい事実を伝える使命
東日本大震災から3年を経て、災害の記憶の風化が懸念されています。被災地の外においては、それは仕方のないことなのかもしれません。しかし、当事者である、我々地元の人間が、被災の記憶を風化させることは許されることではありません。「事実をありのまま伝えることが生き残った我々の使命である」との思いから本事業に携わりました。
(赤浜公民館館長 古舘一義「本誌発行に当たり」、『受け継ぐ 大槌町赤浜地区 3・11東日本大震災後の軌跡』赤浜公民館、2014年)
東日本大震災で住民の約1割に当たる93人が亡くなった岩手県大槌町赤浜地区。ここでは、地区の震災記録誌が2冊も作られた。中心メンバーだった赤浜公民館館長の古舘一義さんは、これを教本として地区住民全員が語り部になることを期待していた。ところがその後、病に倒れ、2021年に70歳で亡くなってしまった。私が公民館を訪ねれば「休んでいって」とつぶやき、濃いめのコーヒーを作ってくれた一義さん。私にとっては「癒しキャラ」だっただけに悲しかった。
その翌年、私は地元での震災風化を知った。
大槌高校から、震災について話してほしいと頼まれた。風化防止の施策を考える授業だという。生徒は当時4~5歳。避難や避難所運営の訓練はしているが、震災についてはほとんど教わっていないとのことだった。
小中学校を統合した大槌学園には「ふるさと科」が、大槌高校には「復興研究会」がある。いずれも震災を機に、地域について学び、関わろうという趣旨で始まった。全国的にも高く評価されている。震災についてもそこで教わっているものと思っていたので、にわかには信じられなかった。
授業の冒頭、「津波がどこまできたか知っていますか」と尋ねてみたが、生徒は知らない様子だった。私は念のためと思って用意した地図で説明した。「施策を考えさせる前に、今日明日来るかもしれない津波から助かる方法を教えた方がいいのでは」と思った。
「震災で被災した役場庁舎が残っていれば」とも思った。2階天井まで津波に襲われ、窓や壁がぶち抜かれた庁舎を見れば、津波の脅威は一目瞭然だった。
庁舎は「見たくない人の気持ちに寄りそう」とする平野公三町長の強い意向で、2019年に解体された。当時の大槌高校生が早期解体に反対したにもかかわらずだ。平野町長ら解体派は「震災遺構がなくても伝承できる」と豪語した。ならば、解体前にその方法を示すべきだったのではないか。
大槌町役場は震災時、過去の津波浸水区域にあった庁舎前で災害対策本部を立ち上げた。避難指示を出さず、町民に避難を呼びかけることも、本部を高台に移設することもなかった。1,286人が犠牲になり、被災率は約8%と県内最悪だった。その原因は何だったのか。どうすれば一人でも多くの命を助けることができたのか。このことをしっかり検証し、語り継ぐことが最も重要ではないか。
ところが、震災伝承では「相手を怖がらせるな」「当時の関係者を責めるな」などの考えに陥りやすい。当たり障りのない話題が好まれ、伝え方や見せ方が重視されがちだ。マスコミは美談や悲劇を求め、震災を経験していない有名人に語らせることが多い。うわべだけのものとなり、震災の事実はそうやって風化していくのだと知った。
一義さんは言いたいことがあっても我慢する性格だった。でも、こうした現状を知ったら、嘆かずにはいられなかっただろう。
一義さんは記録誌に「(多くの犠牲者が出た)現実から逃げることなく正面から立ち向かい」とも書いている。つらい事実にこそ向き合い、ありのまま伝える。私も地元の人間としての使命を果たしたい。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)