大森直樹 27年目に話せたこと
今まで、避け続けていたしょうこちゃんの死。
でも、今ならそれを受け入れて前を向ける気がする。
(芦屋市立打出浜小の教材「しょうこさんのお話」、文:永田守、挿絵:松村彩子、2022年10月)
3.11と向き合うためには1.17(1995年の阪神・淡路大震災)の経験から学ぶ必要があるのではないか。そう考えて、兵庫の訪問を重ねてきた。その中で接した言葉だ。
この言葉を発したのは松村彩子さん。1.17では兵庫の公立111校で288名(※1)の子どもが亡くなったが、その周囲にいた子どもの中には、友だちの死と向き合うことを避けてきた人も多い。芦屋市立打出浜小の5年生だった松村さんもその一人だった。松村さんは友だちの中島 祥子さんを喪った。クラスの友だちは、亡くなった祥子さんのことをあまり話さなかった。「それをどう言葉にしていけばいいのかわからなかった」からだと松村さんは振り返っている。
時は流れて、松村さんの子どもが打出浜小に通うようになる。2022年1月17日の同小の追悼集会で、松村さんは6年生の子どもを前に、祥子さんのことを語ることになった。
しょうこちゃんちは、2ひきのワンちゃんをかっていました。名前は、ボヨとボヨヨン。私は、ワンちゃんのさんぽにいくしょうこちゃんについていったことをよくおぼえています。
「たのしかったなあ」
それと、今でもおぼえているのが、しょうこちゃんの笑顔と変顔! 私はいつも笑わされました。
同小教員の永田守さんは、「追悼の言葉を下敷きに教材をいっしょにつくらないか」と松村さんに声をかけた。永田さんは二つのことを考えていた。
一つは、震災の体験と向き合うことで前を向けるようになった子どもを永田さんが見てきたことに関わる。追悼の言葉をさらに教材にすることで、松村さんも前を向けるようになるのではないか。
もう一つは、打出浜小にある「しょうこさんの木」を永田さんが大切にしてきたことに関わる。1996年に祥子さんを追悼するためトチの木が植樹されていた。石の追悼碑が建てられた学校もあったが、打出浜小では生木を植えることが選び取られていた。永田さんは、その植樹の経緯を子どもと学び直して、手入れを重ねてきた。大人たちが亡くなった子どもの思い出を大切にしていることを学ぶと、子どもは納得をして安心をすることが確かめられてきた。松村さんの言葉を教材にすることで、今を生きる子どもたちは、震災との向き合い方を学ぶのではないか。
完成した教材の中に冒頭の言葉がある。ただし、まだ松村さんは「しょうこさんの木」の前には立つことができないでいる。
3.11では公立146校で513名(岩手89、宮城351、福島73)(※2)の子どもが死亡・行方不明になった。その事実とどう向き合うべきか。私の勤める大学では、防災学習室を設けて、1.17後と3.11後の教育実践記録──その中に松村さんや永田さんの記録がある──から学ぶとりくみを2021年から学生たちと始めているところだ。
※1 兵庫県教育委員会編『震災を生きて──記録・大震災から立ち上がる兵庫の教育』1996年、253~255頁より算出。
※2 大森直樹・大橋保明(編著)一般財団法人教育文化総合研究所(編)『3・11後の教育実践記録──第1巻 地震・津波被災校と3・11受入校』アドバンテージサーバー、2021年、8頁より。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)