伊藤駿・中丸和 被災地の問題を、被災地だけの問題にしない
授業なんかのときにも、何が違うかな向こう(楢葉)となぁって話をしていて。空が違うと子どもはよく言っていて、周りの子どもたちもそうなんだって話を聞いたりして、いろんな人がいることのその良さみたいなのは、子どもたちから逆に教えてもらっていました。
(原発事故により避難してきた子どもが複数人いた学校のA先生の言葉)
東日本大震災の発生当時、伊藤は高校3年生で千葉に、中丸は中学2年生で塩竈(宮城県にある港町)にいた。塩竈は甚大な津波被害を受けた地域の一つだ。中丸の自宅でも物がたくさん落ち、流されこそしなかったが津波をかぶった。避難先の学校では教員たちが懸命に対応している様子を目の当たりにした。また、千葉は千葉で避難者の受け入れや計画停電があり、一部地域では放射線量が高く検出され、ホットスポットなどと呼ばれていた。
人々が被災地を訪れ、それぞれができることをしようとしていたと思う。特に大学生や若者と言われる人たちのそうした動きは今よりもよっぽど盛んだった。伊藤も何かできることがあるならと、最初は大学のプログラムで宮城県南三陸町に、その後は今も関わるROJEというNPOで、福島県二本松市、飯舘村、南相馬市とご縁をいただいた。
一方で中丸は、居住地域以外でのいわゆる被災地支援と呼ばれるものへの関わりはそこまでなかった。大学進学後たまたまROJEで防災の活動に関わるようになり、福島県の浜通りを訪れた。被災地を訪れたり、防災の活動をしたりする中で、塩竈の出身であることを話すと、途端に被災者としての振る舞いを求められることが多くなった。そのとき初めて自分が震災のこと、原発事故のことを全然知らないということを実感した。
知れば知るほど、知らないことがたくさんあり、今に至るまで活動や研究を二人とも続けている。ただ二人とも、被災地で生活をしているわけでもなく、短い期間での支援となってしまう中で、これで良いのだろうかと思ったことは枚挙に遑がない。
そうした葛藤の一方で、災害時に子どもたちへの支援の優先順位が上がらないことや、時間が経つにつれて東日本大震災が「過去のこと」として語られる様子を見る中で、被災地が直面する課題の構造的な要因は、被災地の外側にもあるのではと考えるようになった。それが「被災地の問題を、被災地だけの問題にしない」という我々の行動理念につながっている。
災害が起こったとき、被害を0にすることはおそらくできない(そもそも被害が0であれば、それは災害と呼ばれない)。ただ、例えば避難者を受け入れたとき、冒頭で紹介した先生のような関わりや言葉がけができれば、地元のことを考えながら、他地域でも生活ができるかもしれない。どこかで災害が起こったとき、社会全体の問題として考え動くことができれば、子どもたちも含めて災害の負の影響を少しでも軽減することにつながるのではないか。そうした想いから、このたびブックレット『災害時に子どもを支える』を出版するに至った。
東日本大震災から14年が経つ。私たちはこれからも自らに問い続けていきたい。被災地の問題を、私たちの問題でもあると考え続けられているかと。