北丸雄二 事実をして語らしむ
Jesus, please end this right now! God, please end this! (ジーザス、お願いだ、これを今すぐ終わらせください! 神よ、今すぐこれを!)
(9.11世界貿易センター・テロで、北棟ロビーで目撃された消防本部付き司祭マイカル・ジャッジ神父の最後の祈り。直後、神父は瓦礫直撃で死亡。同テロ第一号犠牲者として記録される)
社会部記者は交通事故から殺人事件、大災害まで数多くの惨事に出遭うことになります。惨事の取材は悲劇の記録です。なぜ悲劇を記録するのか? それが何の意味を持つのか? 警察回りから始まる新人記者としてはそれは当然の仕事だと受け入れていた私にとって、その疑問に自分なりの答えを見つけねばと思った最初は1985年8月12日の御巣鷹山への日航123便墜落事故でした。その後の1年を追って翌年、デスクから遺族の人々の取材を命じられました。
東京と大阪を行き来し、人間にとっての最大のトラウマを聴き取りながら、これを記すことは一体どこに通じるのだろうと考えていました。「お涙頂戴」のニーズに応えるのは商業メディアの最も安易な常套ですが、話を聴くうちにこれは「お涙」を聴いているのではないと思い始めました。これはその人たちの日常でした。そしてその人たちは自分の日々の苦しさを、他人に思いを吐露することによって昇華させようとしている。私はただの隣人でもいい、通りすがりの旅人でもいい、とにかくこの人たちは自分の日々の思いを他の世界に流し、通すことで、希釈することなく他者と繫がることを求めているのかもしれない、と思いました。双方向ではなく、まずは一方的な吐露であったとしても、繫がりを求めることは縋ることにも似て、でも、私たちはそうやって一緒に生きている……新聞記者は、ただその事実を記す。その意味の何たるかを語る前に、事実をしてその意味を語らしめる。
御巣鷹に妻と娘を亡くした男性は、訥々と思い出を語る1年後のその時も、小柄だったのだろう妻のピンクのカーディガンを羽織っていました。
冒頭に引用した「9.11」は、御巣鷹の時とは違って今度はマンハッタンに住んでいた私の目の前で起きました。現場は地獄でした。これも1年後に、343人の犠牲者を出したニューヨーク消防本部の数多の同僚たちを取材して回りました。みんな(日本のメディアだというのに)自分たちの「事実」を書き遺してほしいと、喪った友への思いの丈を語ってくれました。「寄り添う」という言葉が優しさの言挙げのように使われますが、私はとてもそれを担いきれない。新聞記者(だった者として)は、ただそこに「立ち会う」ことしかできないのだろうと思いました。でも、最後まで立ち会う、見届ける。それがジャーナリストの仕事なのでしょう。
その9年半後の「3.11」はたまたま帰国していました。東京で揺れを体験し、1カ月半後、やっと通れるようになった道路を辿って車で数時間かけて女川まで上がりました。取材する余裕はまだありませんでした。とにかく延々と続く津波の荒涼を目に焼き付けました。メモ帳に走り書きの句が残っています。
風光るここは冥王星かもしれず
春暁や主なきランドセルの腹
天地に水と瓦礫と花ばかり
内実のこんな破綻にも木の芽か
やがて震災の日本から再びニューヨークに戻り、遠く離れた地から西の空を仰ぐと、途轍もなく大きなアメリカの夕焼けが空を覆っていました。惨事を繰り返す神が、まるで赦しを請うているような美しさでした。マイカル・ジャッジ神父の祈りを思い出していました。私たちの祈りを聞き留めることができない神を、その大夕焼けの束の間、赦すしかないかと感じていました。
(現在は隔月で「web岩波 たねをまく」で連載継続中)