思想の言葉:埋葬を許さず―八〇年過ぎても宙を漂い続ける女たち 平井和子【『思想』2025年8月号】
「哲学(史)」と「思想(史)」
──改めてその方法と関連を問う
末木文美士
私たちの時代のファシズム
ハリー・ハルトゥーニアン/梅森直之訳
戦後沖縄と戦争責任論
宇田川幸大
思想と「主義」
安彦良和
イノベーション政策の軍事化と学術会議問題
隠岐さや香
「スカラスティサイド」の時代
──日本学術会議の解体が意味するもの
栗田禎子
ポストプロイセン
アニェシュカ・プフェルスカ+フェリックス・アッカーマン/岩崎 稔訳
心と物
──視点の哲学(3)
鈴木雄大
埋葬を許さず―八〇年過ぎても宙を漂い続ける女たち
崖 石垣りん
戦争の終り、/サイパン島の崖の上から/次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら何やら。/火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。/ゆき場のないゆき場所。/(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ/まだ一人も海に届かないのだ。/十五年もたつというのに
どうしたんだろう。/あの、/女。
(『表札など』一九六八年)
女性を「集団自決」に追い込むもの
サイパンに限らず、女性の「集団自決」や自死は、戦場となった沖縄や、敗戦後の「満洲」をはじめ旧「日本帝国」の各地で数多く起こった。軍人や集団の男性リーダーたちに強いられた「集団自決」であろうと、自分たちで選んだ自死であろうと、その背後には、純潔=女の価値とする家父長的イデオロギーが存在する。この貞操観念はナショナリズムと強固に結びつき、この教えに殉じた女性たちは「日本女性の誇り」として顕彰される。
例えば、新京(長春)では、一九四六年六月、女性を提供するように要求するソ連軍に抵抗して赤十字看護婦二二人が集団自決をした。彼女たちは衣服を整え、大腿部を紐で縛り、互いに頭を寄せ合って青酸カリを飲んで亡くなったという。一人生き残った看護婦長、松岡(堀)喜身子はことの顚末を、看護婦たちの遺書をもとに「犯されるより死を選びます」と題する手記にしている(1)。この話を知った山下奉文陸軍大将の部下で元陸軍大尉・吉田亀治が土地の提供を申し出て、一九五六年、埼玉県大宮市の公園墓地に赤十字の制帽と数珠を持った「青葉慈蔵尊」が建立された。碑文には「凛烈たる自決の死によってソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純潔を守り抜いた白衣の天使たちの芳魂とこしなえに此処に眠る」と刻まれている。
八月一五日以降も続けられたソ連軍の攻撃の下、樺太の真岡郵便局の電話交換手九人による「集団自決」も「北のひめゆり事件」としてナショナルな記憶となっている。彼女たちは八月二〇日、ソ連の第二極東方面軍が艦砲射撃しつつ上陸するなか、住民の多くが引き揚げを開始したのちも、「決死隊」として職場に踏みとどまって最後の打電をし、青酸カリを服毒して「自決」した。この事件は、歌、映画などで巷間に拡がり、一九六三年には稚内公園に「彼女達の霊を慰め、その功績を永久に讃えるため」に「九人の乙女の像」が建立され、毎年八月二〇日には稚内市主催の慰霊祭が行われている。九人は、公務殉職として一九七二年に勲八等宝冠章を受章、靖国神社へ合祀された。
当時、真岡郵便局長であった上田豊蔵の手記(『交換台に散った乙女の真相』一九六五年)の齟齬に注目し、北海道生まれのノンフィクション作家・川嶋康男は、長年、生き残りの関係者を訪ね歩き、『彼女たちは、なぜ、死を選んだのか?―敗戦直後の樺太ソ連軍侵攻と女性たちの集団自決』(敬文舎、二〇二二年)で、彼女たちを「殉死」へと導く力学に迫っている。戦争末期に出された「女子勤労挺身隊」の組織化要請など、時代によって培われた「逓信乙女」としての気概が、自ら「決死隊(残留組)」を選ぶ心情へとつながったこと、少女たちの連鎖する自死、交換室に配置されていた青酸カリは、若い女性たちへ「敵兵からの凌辱を避けるための自死」を促す意味を持っていたことが浮き彫りにされる。ほぼ同時期、北緯五〇度の国境付近でも極東ソ連軍の侵攻を受け、大平炭鉱病院の看護婦二三人も逃避行中、進退窮まって「集団自決」をしている(2)。
わたしたちは、沖縄や「満洲」をはじめ、このような痛ましい死屍累々を、個々の「白衣の天使」や「逓信乙女」たちの犠牲者物語として讃えてはならない。彼女たちの「自発性神話」の裏にある、近代以降、家父長制国家が女性に求めてきた「美徳やら義理やら体裁やら」を見据えなければ、何十年経とうが彼女たちの死は宙ぶらりんのままで漂い続けることだろう。
「見へざる地下の柱」
戦場と化した「外地」の女性たちがさらされたむき出しの性暴力とは異なる形で、「本土」の女性たちも敗戦国家による性暴力にさらされた。ポツダム宣言受諾(無条件降伏)から三日後に成立した東久邇宮内閣は、中国をはじめ各地で日本軍が現地女性に行った蛮行が、ブーメランのごとく日本でも起こることを恐れた。初閣議の場で「性の防波堤」を築く必要が確認され、八月一八日、副総理・近衛文麿が警視総監・坂信弥を通じて、東京都下の接客業者に占領軍向けの性的「慰安施設」設置を要請したことは、現在多くの人々が知ることとなった。同日、内務省警保局長からも全国の知事・警察長官へ占領軍用「慰安施設」設置要請が極秘扱いで発せられた(「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」)。驚くべき速さで開設された特殊慰安施設協会(一〇月からRecreation and Amusement Association:RAA)は、八月二三日の発会式で次のような「声明書」を出している。
「時あり、命下りて、豫ての我等が職域を通じ、戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる」、「「昭和のお吉」幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純血を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見へざる地下の柱たらんとす」(3)。
つまり、敗戦という「国難」に際して、幕末、日米通商条約交渉で下田に滞在していた総領事タウンゼント・ハリスに「妾」として差し出された「唐人お吉(斎藤きち)」を再び「昭和のお吉」として召喚し、占領軍の「性接待」に充てるというのである。その背景には、「社会秩序」維持(国体護持)とともに、「民族の純血」の保持、という意識が存在する。このことは、ほぼ同時期、厚生省が引揚げ港周辺の大学産婦人科医局へ、中絶手術の堕胎罪の免責を密かに伝えていた事実とも相通じる(4)。
RAAの「慰安所」の第一号となった大森海岸の小町園では、激戦を戦い抜いてきた米兵たちが押し寄せ、かき集められた三八人の女性たちは過酷な性暴力にさらされ、うち一人は鉄道自殺をしている。RAAの幹部は彼女たちのことを「特別挺身隊」と呼んだ。また、内務省からの秘密通牒を受け、静岡県警察では占領軍の第一陣の進駐先となった御殿場町に、旅館を急きょ「慰安所」に仕立て、大井航空隊付近にいた旧日本軍「慰安婦」九人に米軍の相手をさせた。女性たちは「お前ら女の特攻だから」と「励まされ」、三時間の間に二〇人もの相手をさせられたという(5)。「女の特攻」という言葉は、日本「本土」だけではなく「満洲」の首都であった新京(長春)でも、奉天(瀋陽)でも大連でも確認できる(6)。戦争末期に、日本軍は〝特攻〟という非人道的な作戦を若者に強いたが、戦争が終わった後も女性には新たな「特攻」を強いたのである。
このような「慰安所」設置に関して、多くの警察史は「屈辱的なことであったが、善良な一般婦女子を守り、民族保護のため、当時としてはやむをえない措置」(7)と女性を二分化し、自分たちの行為を正当化している。占領兵が「慰安所」に押し寄せたことを「盛況であった」とも書き、まるで売春業者のようですらある。「女の特攻」、「特別挺身隊」などと呼ばれ、まさに「見へざる人柱」とされた女性たちの声がほとんど資料として残っていないのが悔しい(皮肉なことに、GHQ側が検閲した資料に垣間見られるが)。「どうしたんだろう。あの、女」。
敗戦八〇年を経て
前述したように敗戦時、内務省は全国へ「進駐軍向け慰安所の設置」を命じた。その際、「優先的」に差し出す女性は、性売買女性たち(芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等)だと指定した。その一方、内務省保安課は、「一般婦女子」の心構えとして、「米兵ノ不法行為対策資料ニ関スル件」(九月四日)で、「例ヘバ貞操ヲ守ル為ニハ死ヲ決シテ抵抗シ」と、レイプされそうになったら死ぬほど抗拒することを求め、やむを得ない場合は正当防衛が認められる旨を説いている(8)。近代以降、女性は性的に無垢であることに価値が置かれ、被害女性は「汚れた」というレッテル貼りをされてきた。勇気を出して訴えたとしても、裁判の場で「どれだけ抵抗したか」が問われてきた。この内務省保安課の「対策」は、その貞操イデオロギーを象徴している。
二〇一七年、一一〇年ぶりに刑法強姦罪が「強制性交罪」へ、さらに二〇二三年には「不同意性交罪」へと改正された。性犯罪は厳罰化とともに親告罪から非親告罪に変更され、不同意性交の構成要件が明示され、被害者は性別を問わず訴えられるようになった。一連の改正をもたらした背景には、広範な女性たちによるシスターフッド運動がある。二〇一五年、レイプ被害者が名前と顔を出して訴えたことに連帯する#MeToo運動が日本でも拡がったこと、「強制性交罪」成立以後も、レイプ被害者が「抗拒不能」状態になかったという判断で、加害者の無罪判決が相次いだことに対して、全国で一斉に〝フラワーデモ〟が巻き起こったのだ。この法改正は、敗戦時、国から「死をもって抵抗せよ」と求められ、そのような貞操イデオロギーに殉じた女性たち、生き延びたことを恥じてきた被害者たちへ、まことに遅い歩みであるが、女性の二分化を脱し、現代の女たちが女同士の連帯で応えようとする歴史的意味を持つ。
現在、拙著『占領下の女性たち―日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店、二〇二三年)に関する講演をしたことをご縁に、日本新聞労働組合連合の女性記者を中心とする有志が、学習会を重ねられ、それぞれ自社の新聞と地元の歴史資料から、占領軍「慰安所」の開設の有無や、場所、女性たちの置かれた状況などの悉皆調査を進行中だ。長年、一人でこつこつ調べてきたわたしの、全国占領軍「慰安所」マップの空白部分が、各紙の横断的連携によって埋められ、敗戦国政府がとった性暴力の全容が明らかにされようとしている。再び、何人も「火だの男だのに追いつめられて」、「美徳やら義理やら体裁やら」に縛られて、まっさかさまにされないために。
(1) 『21世紀への遺言―真日本の顕現を』戦中派遺言出版会、一九九六年、一九五―二〇一頁。
(2) 川嶋康男は、本書の第一部を大平炭鉱病院看護婦集団自決に充てている。
(3) 『R・A・A沿革誌』(一九四九年)、『性暴力問題資料集成』第一巻、不二出版、二〇〇四年、三〇三頁。
(4) 樋口恵子は、九州帝国大学の医学部責任者が八月末、厚生省に呼び出され、「密命」を受けたことを関係者の証言から明らかにしている。「異民族の血に汚された児の出産のみならず家庭の崩壊」を防ぐため「水際で食い止める必要がある」という理由であった(樋口「引揚女性の「不法妊娠」と戦後日本の「中絶の自由」」、上野千鶴子、蘭信三、平井和子編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』岩波書店、二〇一八年、二〇七頁)。九大は、福岡療養所と佐賀療養所を開設、京城帝国大学は二日市療養所を設置した。優生保護法が戦後第一回国会(一九四七年)から審議されたことは、「引揚げ」や占領軍によるレイプによる妊娠を強く意識していたことを表す。強制不妊手術、人工妊娠中絶の合法化を含む優性保護法は一九四八年に成立した(一九九六年に母体保護法へ改正)。
(5) 平井和子『日本占領とジェンダー―米軍・売買春と日本女性たち』有志舎、二〇一四年、四四頁。
(6) 平井和子『占領下の女性たち―日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』岩波書店、二〇二三年、一〇九―一一〇、一一七―一一八、一二〇頁。
(7) 『静岡県警察史』資料編下巻、一九七九年、五八六頁。
(8) 「米兵ノ不法行為対策資料ニ関スル件」(保外発第四六号)昭和二〇年九月四日、内務省保安課長(国立公文書館 返青11007010)、二七頁。




