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金 範俊/Moment Joon 外人放浪記

第5回 シベリアへ、愛をこめて〈金 範俊/Moment Joon 外人放浪記〉

 ロシア。チェブラーシカ、ソ連時代のアニメと映画、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、戦争、高麗人(コリョサラム)、日露戦争、共産主義、ボルシチ、長崎、そして彼女。付き合って一緒に生活して6年。毎日、大阪池田市井口堂で一緒に暮らしているだけではなく、長崎で、また韓国でも人生の貴重な瞬間を一緒に過ごしてくれた彼女ですが、彼女の生まれ育ったロシア、シベリアには、なかなか足を運ぶことが難しかったです。

 学校や仕事、コロナ、そして戦争まで、このまま一生行けないのかと思っていましたが、やっとお金やその他の準備が揃った2023年の9月、「今じゃないとないぞ」と、彼女の家族へ届けるためのプレゼントをスーツケースいっぱい詰めて、同時に胸いっぱいの不安を抱いたまま関西空港で飛行機に乗りました。

 バイカル湖から北極海へ流れていくエニセイ川に接している街、クラスノヤルスク。シベリアのど真ん中、生い茂る大自然の一部分を削って、ロシアとソ連の人たちが立ち上げた街。私の愛する人が生まれ育ったその街で、夏の終わりから短い秋までを過ごした話を、どう伝えれば良いのでしょう。おおざっぱな印象と浅い理解の欠片を集めながら書いていくこの文章で、ロシアのことや私の経験が正確に伝わるとは全く思っていません。しかしどうか、この文章の行間に潜んでいる、シベリアへ送る私の愛が、あなたにも読まれることを望む限りです。

大きい土地、シベリア

 「百聞は一見に如かず」。しかし一見では到底見きれないほどの大自然を目の前にすると、実際見ていない人にそれについて語ることの無意味さを感じると同時に、いっそ「目を閉じたい」とも思ってしまいます。まさに「畏れ」そのものの、シベリアの大自然。深夜、北京から出発したS7航空の飛行機が中露国境を越えて数時間、隣の彼女の窓側の席に朝日の光線が少しずつ差し込んでくると、見えてきました。終わりも果てもない、平地と山脈をとわず、目に見える全ての地形を覆う、シベリアの大森林(タイガ)。地平線まで森が続くだけではなく、森以外何も見えないと言っても過言ではないほどの緑の大繁茂です。

 そんな大自然の隅っこを削って、人間たちが文明の力で何とか立ち上げて作ってきた街。(幸いに私の滞在中にはなかったですが)スモッグが発生して街全体が灰色になったり、市街地に熊が出没したり、日本の国土の半分ぐらいの面積の森林が数週間に亘って山火事で燃えたり。皆さんよくご存じのマイナス30〜40度の酷寒と大雪は言うまでもなくです。ナチスドイツに対する戦勝記念日として盛大に祝われる毎年の5月9日が、年によっては早い夏のように快適だけど、またある年は雪の場合もあると。彼女からその話はよく聞いていたのですが、到着してからしばらくは半袖でも過ごせた気温が、たった2週間のあいだで関西では着ることのない厚いパーカーが必要な気温まで落ちる、その恐ろしい変化と予測不能さは、実際に体で経験してみないと本当に信じられません。サイズの大きさだけではなく、その変化のスピードや規模、予測不能さ、全てが大きすぎるのです。

 そんな自然の中にある街自体も、大きいのです。17世紀にロシア帝国のコサック兵たちによって作られた小規模の要塞と村は 1 、しかしソ連時代になってやっと「都市」として成長しました。人口109万人あまりの、シベリアでは3・4番目ほどの大都市と言われるクラスノヤルスクは、人口密度の高い東アジア圏の人の感覚ではそんなに大きい都市と感じられないかもしれません。しかし私がクラスノヤルスクを「大きい」と感じた基準は、人口や面積ではなく「空間感」でした。

 日本の街は大都会であれ地方都市であれ、単一面積あたりの「情報量」が多い方だと思います。街の看板、マンションや一戸建て住宅の外観のデザイン、自販機、電柱、曲がっている道、そして何よりそれらの空間を行き来する人の数まで。街が大きくなればなるほど高いビルも増え、どこかを見た時にパッと入ってくる情報量も増えていきます。

 ソ連時代に西洋型の都市計画に沿って作られたクラスノヤルスクの都心部の建物は、高いものは少なく、むしろ横に長いです。日本だと駅周辺でよく見られる、人の目線を奪いあう看板に覆われた商店街のような場所も特になく、長くて広いスペースを占めるお店やオフィス、行政機関が並びます。道は広くてまっすぐで、視線をどこへ向けても遠くまで見渡せます。日本の、または韓国の都市空間の情報量の密度になれている私は、クラスノヤルスクの一番大きな繁華街のミール通りを歩きながら、何か「自分」が普段よりもっと大きい・広いスペースを占めているように感じました 2

 そんな自然空間と都市空間の中で生きている人たちの距離感覚と時間感覚は、東アジア圏の人たちの感覚とは確かにどこかが違うと思います。「車で3時間離れている所の親戚の家は近い」とか、「隣の街」と呼ぶ時の「隣」が列車でまる一日だとか、「歩いてすぐ」が歩いて20分だとか。そんな空間感覚と時間感覚で生きていく人生は、どんな人生なんでしょう。そういった感覚は日々の生活や仕事に、歴史や世界の理解に、どのように影響するのでしょう。「広くて大きい」に解放感を感じながらも、「近くにある」おじいちゃんの家までの1時間の列車を「正直そんな近くではない」と感じてしまう私には、計り知れない感覚です。

人が住む街、クラスノヤルスク

 しかし、自然や都市の居住環境が日本と違うからと言って、そこに住んでいる人たちが日本に住む人たちと劇的に違う訳ではありません。「ロシア人は笑わない」とか、「ロシア人はみんな寒さに強い 3」などという偏見。極端的な場合は「ロシア人は冷たくて怖い」とか、ウクライナ戦争から始まった「ロシア人は残虐」というイメージまで……。それらの偏見やイメージを押し付けたい人たちは、ロシアの人を愛して、一緒に暮らしてみたことがあるでしょうか。

 

 私は彼女と一緒に(日本で)暮らすだけではなく、彼女の家族とロシアで一緒に過ごしたことで、ロシアで「生きる」ことを短いあいだながらも感じさせてもらいました。朝起きたら、家族全員で台所の小さいテーブルを囲んで、お互いに紅茶やコーヒーを入れ、パンとサラミ、スメターナ(サワークリーム)を分け合います。狭い台所の小さいテーブルに家族全員が集まるその文化が、最初はちょっと狭くて不便とも感じましたけど、家族みんなと話していたら猫たちが寄ってきて、1時間も2時間も話してしまう、いつの間にか一日で一番幸せな時間になっていました。

 もちろん、食事用のテーブルがない訳ではありません。ソ連時代の家具とカーペットで飾られたリビングに大きなテーブルを出して、家族みんなで準備した料理を出します。キッチンでお父さんが生地を作ると、私と彼女は生地の中に肉を入れて水餃子の「ペリメニ」を作りました。数十個から100個まで大量に作って、冷凍保存して何か月もかけて食べます。ジャガイモと鶏肉を重ねてオーブンで焼いた「カピタン」、牛肉・豚肉・鶏肉まで色んな肉を長く煮込む「サリャンカ」。エニセイ川で釣った魚の塩漬けと、ジャガイモのパンケーキ(というよりは日本で食べるチヂミに近い)、ドラニキも欠かせません。香辛料とスパイスは少な目で炭水化物多めの食卓ですが、スメターナがあると、飽きずに美味しく食べられます。愛する人のために家族みんなで作った料理を一緒に食べることほど、家族の愛を感じられることがあるでしょうか。

 食後には派手に飾られたサモワールから出るお湯で紅茶を入れ、お母さんがオーブンで焼いた「メドヴィク・ケーキ」を食べながら、何時間も話し合いました。日本について、韓国について、歴史と芸術について、記憶と未来について。通訳で大変なはずの彼女も、通訳だけでなく一緒に話しながら会話は盛り上がります。

 

 彼女のお母さんは長く科学研究所で働いていました。お父さんはエンジニアで、今も現役です。二人ともソ連時代から働いていて、お父さんは1991年のソ連の崩壊時点で30代半ばでした。彼女より3歳上のお姉さんは、しばらくシベリアから出て黒海付近で働いて暮らしていたのですが、数年前にクラスノヤルスクに戻ってきて、大手企業のSNSとコミュニケーション担当として働いています。ソ連崩壊後の1992年に生まれた私の彼女は、よく家族の中で自分一人だけ「ソ連人ではなくロシア人」と冗談で言います。日本での生活とコロナで4年近く家族に会えなかった彼女も、久しぶりに家族と幸せな時間を過ごして、その幸せの一部を私にも分かち合ってくれました。

 

 食食事以上に会話が盛り上がるのは散歩の時です。ロシアの人にとって散歩は生活。滞在中、一日に平均2回は散歩に出ていました。94歳で、彼女の両親に面倒を見てもらっているおじいさんも、散歩の時はとてもお元気です。夏から秋にかけての時期、シベリアの森には色んな動物が現れます。日本ではそこまで見かけないけど、韓国育ちの私にはとても馴染みのサロカ(カササギ、佐賀弁でカチガラス)や、ポケットからひまわりの種を出すと人の手から取っていくビェルカ(リス)、可愛すぎてポケットに入れて持ち帰りたいブルンドゥク(シマリス)、エニセイ川で泳ぐウトゥキ(鴨)。木から葉っぱが落ちる時、あえてカッコつけてドラマチックに「リスタパッ 4」と言ってみたら、家族みんなで笑います。

 家族みんなでオペラホールで市立楽団の公演を観たり、国立公園の山(ストルビ)に登ったり、ケンタッキー(はロシアから撤退したのでロシアの会社が引き継いで新しく起業したけど中身は一緒の)を買って食べたり、夜遅くまでボードゲームをやったりなど、彼女の家族と過ごした楽しい時間について書くには、スペースが足りません。

 

 楽しい時間だけではありませんでした。おじいさんの家の近くの墓地に、家族みんなでお墓参りにも行きました。ロシアの墓地は火葬ではなく土葬が基本で、石碑に故人の顔の写真やレリーフを入れる点が、日本と違います。ソ連時代の、特にアフガン戦争で亡くなった兵士たちのお墓や、ソ連崩壊後に作られて十字架が立てられているお墓、カラー写真が刻まれている比較的に新しい石碑まで、さまざまなお墓がありました。お墓参りの時には、水を入れたガラスのコップの上に黒パン一枚を載せてお墓の上に置くのがロシアの風習ですが、亡くなったおばあさん、彼女のお母さん側のおばあさんは生前チョコレートが好きだったそうで、私たちはチョコレートを用意していきました。お祈りや黙禱などのスピリチュアルな儀式やジェスチャーは特になく、ただ「お母さん、私来ましたよ」とあいさつの言葉を言います。おばあさんを亡くして、今は高齢のおじいさんの面倒を見ている彼女のお母さんは、その場で少し涙を見せました。彼女が日本に留学に来る少し前に亡くなったおばあさんは、孫娘が日本でこんなに立派に、たくましく生きている姿を、あの世から見届けているでしょうか。

 

 お墓参りの後には、車でエニセイ川の上流にあるクラスノヤルスク水力発電所、通称「ゲス」 5を観に行きました。1956年から1971年まで、15年の歳月をかけてソ連の人たちが作った、当時世界最大の水力発電所。遠くからはダムの幅の広さに、近くからは高さに圧倒されてしまうゲスは、シベリアの大自然に圧倒された時に感じた「畏れ」という感情を、再び私の中から呼び起こしました。人間に、人類にこんなものが作れるのか。水力発電所は、比較的小さい都市だったクラスノヤルスクが今のような大都市になったきっかけでした。ソ連の全国各地から送られた人びとが、血と汗を流して作り上げたダム。その労働者のために作られた新しい街は、そのままクラスノヤルスクの衛星都市となりました。

 彼女のおじいさんも発電所の建設現場で働きにシベリアに来て定着し、おばあさんに出会って、彼女のお母さんが生まれたのです。最初は家どころか道路すらなくて、人びとは森を伐採して道を作ることから始め、労働者と彼らの家族のための住宅が出来るまでに、最初はテント、のちにはパネルで仮の建物を立てて、毛布が凍るほどのシベリアの過酷な冬を耐え抜いたという話。みんな苦しかったけど、みんな笑顔で助け合って、村と街、そしてダムを作ったという話。発電所の展望台の案内板から、また彼女の通訳を通して彼女の両親からその話を聞くと、共産主義者でも何でもない私でさえ、心のどこかから、当時の人たちが感じたはずの人類愛と、未来への希望を感じたのです。人が住む街。夢見て、恋して、家族を作って、料理して散歩して一緒に笑える場所を、このシベリアの大森林の最中に作った、ソ連の人たちのことを思いながら。

幽霊のようにつきまとう国、ソ連

 しかし、水力発電所の偉容を眺めながら私が感じたソ連の人たちへの敬意、または彼らを通して想像する人類愛は、クラスノヤルスクの都心に戻って街を歩くと、複雑になっていきます。クラスノヤルスク都心の中央の広場には、未だにレーニンの銅像があります。それだけではありません。市立図書館、郵便局などの公共施設やそれに準じる建物の外壁や内装から、ソ連時代の紋章やシンボルの彫刻を見つけるのは全く珍しくありません。そもそもクラスノヤルスク都心の第二・第三の繁華街の名前が「レーニン通り」「マルクス通り」と、レーニンとマルクスに由来する名前をつけたままです。共産圏の崩壊以降に行われた脱共産化で、他の国では過去の共産主義・社会主義体制の痕跡を消したのですが、ロシアの場合は未だに「ソ連」が、しかも「ロシア連邦共和国」としてのアイデンティティをしっかり示すべき所にさえ、残っているのです。

 

 「ソ連時代を懐かしむ人がそれほど多いから」は、間違っているか物足りない説明です。ソ連時代、特に崩壊前の数年を覚えている人で、ソ連が間違っていたと思わない人はごく少ないでしょう。官僚主義と共産党エリート主義、監視社会、アフガン戦争、チェルノブイリ原発事故、ペレストロイカとその後の混乱、構成国の民衆たちの独立運動とモスクワによる武力鎮圧、食糧難、クーデター……クラスノヤルスク水力発電所やユーリイ・ガガーリンが象徴する「技術と人類愛で未来を打ち開く」という社会主義ヒューマニズムは、激動の80年代のソ連を生きた人たちにとっては、理想すぎる話だったかもしれません。

 ただし、当時のソ連の人たちが「ソ連」という理想自体をはっきりと「嘘」と見なしていたわけではありません。80年代、ソ連を代表するロックバンドだった「キノー」の代表曲『ペレメン!(変化を!)』(1989年)は、当時も今もソ連政府や共産主義体制への批判的な目線からの「変化」を歌っているとよく紹介されますが、キノーの中核であり、作詞とボーカルを担当した高麗人(コリョサラム、韓国・朝鮮系ロシア・ソ連人)ヴィクトル・ツォイは、あるインタビューで「その曲はプロテストの歌ではない」と説明しています。またバンドのドラマーは『ペレメン!』は「創造的変化や自由の感覚といった内面的でより深いものについての歌」と発言しています 6。もちろんヴィクトル・ツォイとキノーは他の所でソ連政府や社会に対する批判的な声も実際に表現していますが、同時にソ連社会やその文化に固有の力に誇りも感じていました 7 8。彼女のお母さんも言いました。人びとは、本当に信じていたと。ソ連の腐った「現状」を批判的に見なして変化を渇望することと、「祖国」や「理想」としてのソ連を愛して信じ続けることは、当時を生きた人たちからすればそこまで矛盾していなかったのかもしれません。

 

 しかし、一部の人がソ連の「理想」をどう覚えていようが、多くの人にとってソ連は疑いの余地なく「悪の帝国」でした。第2次世界大戦とその直後に満州国や朝鮮、東ヨーロッパでソ連軍が犯した数々の非人道的犯罪や、東ベルリン・ハンガリー・チェコスロバキアなど他国の主権と現地の民主化の動きを武力で踏みにじるなど、ソ連はアメリカに次ぐ帝国主義的な覇権国家でした。ソ連の一部となった多くの構成国、特にバルト三国とウクライナ、コーカサスの多くの人たちにとって、ソ連は彼らが数世紀に亘って目撃してきた、ロシア帝国主義の赤いバージョンに過ぎず、自国の独立を奪った帝国だったでしょう。グラーグ(強制収容所)に収容された反体制知識人・外国人・ユダヤ人・性的少数者・富農はもちろん、迫害されたキリスト教・イスラム教や他の宗教の聖職者と信者たち、ソ連軍に徴兵され命を亡くした数百万人の人と、モスクワの政策失敗による物資・食糧難や大量餓死、環境汚染、言論と思想の自由の統制、故郷から追い出され見知らぬ土地へと強制移住されられた諸民族まで 9。ソ連国内と国外、数百万、いや数千万人の死と苦しみを生み出したソ連の負の遺産を、クラスノヤルスク広場のレーニン銅像はあえて無視しているように見えます。

 

 ソ連の負の遺産の清算は 10、ソ連崩壊後の混乱、悪名高い「ロシアの90年代」のトラウマが大きすぎるせいで、何十年以上先送りになっています。ソ連時代末期、一連の改革で計画経済から部分的自由化・市場主義化に移行しようとした動きは、ソ連が崩壊してから光の速さで加速し、極端な自由放任主義に至ります。国家資産と国営機関の民営化 11、ハイパーインフレ、賄賂、そして暴力。90年代に小さい子供だった彼女ですら、鶏肉を食べられるのは、本当に特別な日だけだったと、その時期のことを覚えています。彼女のお父さんからはもっと過酷な話も聞きました。ある日突然やってきたソ連崩壊後に、資本主義経済についての知識がない人たちがいきなり「普通」の生活を失った話や、マフィア化していく警察から事業を守るために賄賂を渡したビジネスパートナーの話など。いきなり氾濫する欧米や他国のポップカルチャーと、祖国を失ったという亡国の悲しみ、生活難、アル中の大統領と新しい民主主義への失望。ショック、ショック、そしてショックが相次いだ90年代がロシア人に残したトラウマは、もしかしたらソ連時代のトラウマより強烈なものかもしれません。

 

 そのショックも過ぎ去って、今や配達アプリと電子マネー(日本より進んでいます)、ファストファッションと電気自動車(道を走る新車はほとんど中国製)など、便利で快適な現代消費社会を生きる今のロシアの人たちが、不便と苦しみいっぱいの計画経済のソ連時代に戻りたいとは、どうしても思えません。それでもロシアの街中、また大衆文化や人たちの意識の中には、「ソ連」が根強く残っています。ソ連時代の映画やアニメのセリフは、毎日の会話で熟語のように使われていて、ソ連時代に建てられた古いマンションの団地には未だに多くの人が住んでいて、クラスノヤルスク繁華街にはソ連スタイルの大衆食堂もあります(美味しかった)。しかし、あれほど多くの人が亡くなったというのに、ロシア国内に史跡として残っているグラーグは、たった1か所のみ 12 13。ソ連を記憶する際に現代のロシアの人たちは、その血の歴史はあえて思い出そうとせず、とはいえソ連の理想を再び生きようとしている訳でもありません。情緒的・感傷的な故郷としてのソ連が、または覇権国家としての色あせた栄光としてのソ連のみが、幽霊のように彼らにつきまとうだけです。

戦争中の国、プーチンのロシア

 2022年に始まったウクライナ戦争の原因の一つも、ソ連時代の覇権と栄光を忘れない人たちがいるからでしょう 14。渡露する前に一番心配だったのも、もちろん戦争のことでした。2025年現在はウクライナ軍によるロシア国内へのドローン攻撃やサボタージュも頻繁になりましたが、戦線から遠く離れているシベリアで、しかも2023年の時点では直接的に危険にさらされるとは思っていませんでした。クラスノヤルスクに着いてからもしばらく、戦争の気配や物騒な雰囲気を感じることはまずありませんでした。コロナ以前から、クラスノヤルスクはロシアでも外食業が盛んな街となっていて、街には新しいレストランとビジネスがいっぱい、そして笑顔で夏の終わりを楽しむ人でいっぱいでした。

 

 しかし、少しだけ耳を傾け、少しだけ注意深く眺めると、見えてくるものがあります。ケンタッキーのお店の前に、美術館の前に、橋の隣に、街中のあちらこちらに、比較的高い報酬を約束する契約兵の募集の広告がかけられています。何年かぶりに家から市街地へ向かうバスに乗った際に、彼女はある案内放送に仰天して通訳してくれました。またも契約兵募集の広告。おじいちゃんの家に行くためにクラスノヤルスク駅で列車を待っていると、待ち合わせ室に置かれているテレビはチャンネル1に固定されていて、ウクライナで撮影された戦場の動画がひたすら流され、パネリストが憎しみと愛国心に満ちた声で熱く解説していました。

 そしてある日曜日、ミール通りのはてにあるシンフォニーホールとその前の広場でバザーが開かれ、隣には仮の舞台が設置されて、小学校低学年の子供たちの学芸会が行われていました。安っぽいユーロビートの上で踊る子供たちは、軍服に似た制服を着て「祖国」「守る」「戦う」などの言葉が入った歌詞を歌っていました。「私が住んでいたロシアじゃない」と、歌詞を通訳してくれた後の彼女は言いました。笑顔と消費社会に隠されていても、やはりここは戦時中の国だったのです。

 

 彼女は、日々の生活で大した行動をとっていた訳ではないですが、戦争の前にロシア憲法改正の在外投票に行くなど、政治的な意識をしっかり持っていました。そんな彼女にウクライナへの侵攻が始まった2022年2月からの数か月は、なかなか言葉では説明しにくい日々でした。怒り、絶望、申し訳なさ、希望、妄想、不安、恥、全てが混ざり合うその心を、どう説明すればいいでしょう。ユニセフの緊急募金に支援金を送ると同時に、ロシアが国際送金システムから外され経済制裁が始まると聞いて、家族のことが心配になって急いで送金をしたり。世界中で一気に高まったロシア人に対する嫌悪と、同時にウクライナの苗字を持った彼女自身のアイデンティティの問題。開戦後にロシア国内で起こった反戦デモがどう鎮圧されたかを目撃しながら、勇気を出した人たちを応援するより「ロシア人は臆病」などという嘲りを楽しむ世の中の人たち。「戦争が始まる前はロシアの現状なんか何も知らずプーチンをミームみたいに楽しんでたくせに」と、彼女の言葉を一緒に言ってみたって、その人らに届く訳がありません。

 そんな心配に満ちた1年半後、やっと勇気を出した訪ねたロシアが、依然として「日常」を続けていることに驚きながらも、社会の隅々に密かに浸透している戦争の気配は、やはりどうしても怖いものでした。いや、戦争の気配よりも、その気配をあえて意識せず日常を生きようとする、そのシュールさが、怖かったのです。

シュールでシニカルな国、ロシア

 厳密にいえば、ロシアは「一応」戦時中ではありません。誰が見ても明らかに戦争なのに、ロシア政府があえてそれを戦争と呼ばず「特別軍事作戦」と呼び、それを「戦争」と呼ぶ人に対して処罰か制裁を行っているためです。「それならトルストイの『戦争と平和』も『特別軍事作戦と平和』なのか」と、ロシア語インターネットでは笑いものになりましたが、(別の反戦の脈絡じゃなくても)実際に「戦争」という言葉を使ったことで処罰を受けた人からすれば、そのシュールさを笑うことはできないでしょう。

 戦争中なのに戦争はやっていない。ロシアなのにソ連が残っている。選挙が行われる民主主義国家だけど誰も民主主義国家だと思っていない。政治家たちが地下鉄を作ると20年前から言っているけど、結局だらだらして永遠に作らないままで終わることぐらいみんな知っている。世の中は腐っているけど、同時にそれを直す・変えると言っている人たちも腐っている。

 

 よく「日本人は政治に無関心」と言う時に使われるレンズでは、ロシアの人たちの「政治への無関心」は正しく説明できません。大規模な反プーチン運動や反戦運動が見えないから 15ロシアの人は政治に無関心、と言うのは早すぎます。いいえ、彼らは無関心ではなく、シニカルなのです。

 時事問題や世界情勢、歴史や政治に対する一人一人の知識や関心は、日本で「政治に無関心」と言われる人たちよりはるかに高いと、私は感じます。英語の次に2番目に大きい、ロシア語のインターネット環境に氾濫する政治ネタのミームやジョークを見ると、その差がはっきり見えてきます。しかし、その割と高い意識の根底には「どうせ変わらない」「変えようとする人らも偽善者」「誰にも騙されたくない」などのシニカルさがあるのです。

 幽霊のようなソ連の負の遺産はここでも現れます。問題だらけであっても、ソ連時代にソ連という「理想」を本気で信じた人は、決して少なくありませんでした。しかし彼らの理想は、ソ連時代末期の混乱、そして崩壊という最悪な形で裏切られ、その後に開かれたのは弱肉強食の90年代。その相次ぐトラウマから自分を守るために、ロシアの人たちは防衛機制としてシニカルさに頼ってきたのでしょう。

 

 そのシニカルさを、私は彼女のお姉さんから少し感じました。もちろん滞在中ではなく(楽しいことをやるのに精一杯だったので)、戦争勃発直後のことです。ビデオ通話で戦争についての話になった時、お姉さんは「アメリカもロシアもウクライナもヨーロッパもみんなクソ」みたいな意見を言ったそうです。ロシア語ネットの反応を見渡すと、お姉さんの意見は、決して彼女一人の考えではありません。シュールな世界を生きるためのシニカルさ、そしてそのシニカルさは「積極的な無行動」「能動的な無知」に繋がっていきます。

 

 帰国の二日前に、レーニン通り所在の古い歴史を誇るパペット劇場で、私は彼女と人形劇を観ました。題目は『ハルムス』。ソ連のシュルレアリスト、不条理詩の作家ダニイル・ハルムスの作品と生涯に影響されて作られた作品です。ロシア語がほぼ分からないため、作中のセリフは彼女が囁いてまとめてくれる情報に頼るしかなかったのですが、それでもものすごく濃い経験でした。

театр кукол красноярск официальный сайт
https://teatrkukol24.ru/plays/Harms--18/

 従来の典型的な、または分かりやすい造形をあえて避けて粗く作られた人形と美術、人形と人間の役者の共演と入れ替え、演劇の第四の壁を超える演出まで……。プーシキンとゴーゴリなど19世紀のロシア文学の巨匠たちのイメージと彼らの支持者たち、そしてハルムスが活動していた1920年代と1930年代のソ連を象徴するスターリンの似顔絵。何かを熱っぽく批判したり戦うというより、その批判して戦う様子自体を遠くから眺めながら、少しずつ疲れて枯れていくような気持ちを、私は経験しました。途中で、劇場から出ていきたくなるほどに。子供の時に見た、訳が分からない芸術的なアニメーションから感じたような、シュールさと怖さ。「ここから逃げられない」という感情は、幕が下がった後も長く長く私の中に残っていました。彼女の家族を通して経験した、直接的で率直な喜びと悲しみ、愛とは対照的な、疲労にまみれた、際限なくひねくれる紛らわしいシュールさ。

 

 ロシアは北朝鮮やナチスドイツのように、全てを政府が監視統制しようとする国ではないし、そもそもそうなれません(広すぎるという物理的な条件が大きいでしょう)。政権は、政府や戦争への批判や、今起きていることに直接触れない発言や表現に関しては、ある程度容認してきました(もちろんその許容範囲は年々狭くなってきています)。しかし、その残されたスペースで、人たちは変化や自由の可能性を夢見る代わりに、解消できないトラウマをシュールな形で皮肉っているのではないでしょうか。何かが間違っている、みんなもそれを知っている、そもそもどこから間違っているの、何も出来ない、変わるとも思えない……映画『インフル病みのペトロフ家』を思い出します。

家族の国、シベリア

 韓国政府は、親NATO的なスタンスでNATO加盟国に大量の武器を供給しているので、ロシアからすれば韓国籍の私は準適性国民と見られてもおかしくないでしょうが、何故か奇跡的にも2014年から始まった韓露ビザ免除は2025年の現在も(!)続いていて、私はトラブルなくスムーズに入国できました。入国してからは「一定期間以上滞在する外国人は役所に登録が必要」ということでオンライン申請をしましたが、申告期限日の直前まで登録許可が出なくて、焦りながら役所に直接行って問い合わせると、オンラインとの連携がうまく出来ていないとか、担当部局はこっちじゃないから違う所へみたいな、カフカ的な官僚主義のトラブルは実際ありましたけどね。結果的には滞在中、国籍から生じるトラブルはありませんでした。

 

 問題は、帰国時に起きました。中露国境を越える前の乗り継ぎで、イルクーツク空港で出国審査を受けると、審査官の人が手で「あそこに行け」と私に指示しました。簡単なロシア語で「どうしたんですか? 英語で説明してもらえないですか?」と聞いても「No English」と一言だけ。後ろに立って次に出国審査を受けた彼女が事情を聞いても、とりあえず待てとのことでした。それから15分間、同じ飛行機に乗る他の人たちが(9割は中国人観光客でした)次々と出国審査を終えるのを二人で不安なまま見つめていたら、軍服、いや、軍服にそっくりの制服の空港の職員が私たちを連れにきて、職員室を通って空港の反対側まで進み、上官のオフィスに案内しました。私たちは部屋に入る前に十字架を切って、無事に済むことを祈りました。

 そこからは、いきなりの取り調べ。本当に幸いなことに、彼女のおかげでスムーズにいきましたが。特に高圧的ではない態度の上官の担当者は、パソコンの後ろに座ったまま、私が入国してからどこへ行ったのかを、時系列で教えてくれと求めました。スマホで撮った写真を見ながら、彼女が冗談とユーモア混じりで彼らに20分ほどかけて滞在の日程を全部説明した後、出て良いと言われて私たちは退室。飛行機に乗るまで40分も残っていませんでした。もし私一人だったら、向こうは英語が喋れないしこっちはロシア語が喋れないわけですから、飛行機に絶対間に合わず、それどころか最悪の場合は拘留されたはず。

 飛行機を待ちながらも、さっきあったことが信じられなくて、二人ともまだ心臓がばくばくするばかりでした。他の中国人観光客は誰一人止められなかったのに、なぜだ。その時、日本から出発する前日にあった、北朝鮮から弾薬とミサイル提供を約束したプーチンと金正恩の会談のことを思い出しました。それから2年、北朝鮮はもはやロシアに兵までを送って、ウクライナ軍と戦っています。そんな国際情勢に合わせて、韓国籍の私の動向を、彼らは怪しいと思って止めたのでしょう。私と彼女の愛とは関係ない所で、力と利益と理念の論理で動いている世界の政府たち。恋人の愛、家族の愛を無視するパスポートという縛りが、我々にかかっていることを確認する瞬間でした。

 

 そうやって後にして去ってきたシベリアにも、私の帰国後からウクライナ側によるサボタージュがありました。クラスノヤルスク地方でも反戦運動をした人たちが逮捕され、言論と表現の自由は日々厳しくなっています。私が滞在した時にはVPNを使えばちょっと不便ではあるけどネットも自由に使えたのですが、ロシア政府は全てのオンライン環境を外部から断たれた閉鎖的な空間にしようと独自のアプリやプログラムの使用を強いる一方 16、安保を理由にモバイルインターネットの機能自体をまるで計画停電のように定期的に止めることも増えています。

 私がクラスノヤルスクで感じられなかったからといって、戦争による死と破壊が続いていない訳ではありません。クラスノヤルスクのような白人中心の大都市ではなく、地方都市や田舎出身の、非白人系の少数民族や貧困層の人びとは、もう既に数万人が命を落としています。戦争がどんな形で終息するのであれ、戦争という最も極端な暴力を経験して、トラウマを抱えたまま家に帰ってくる人たちが、以前より幸せに生きていけそうな社会を、今のロシアは持っていません。モスクワによる地方、特にシベリアに対する統制や構造的搾取も、戦争が終わったとしても大統領が変わったとしても、すぐに変わりそうな問題ではなさそうに見えます。

 

 彼女も日本に住んで12年。日本に根をおろせばおろすほど、以前のロシアでの人生は過去のこととして徐々に遠くなっていきます。生まれ育った場所から違う所に移って暮らす人なら誰でも経験する「情緒的な無国籍者化」以外にも、彼女はロシアが国際社会から孤立して、家族との往来が更に難しくなるかもしれないという不安を常に抱えています。

 そんな彼女と一緒に暮らして、私は気づきました。何で民衆は蜂起しないのか、なぜ独裁者を容認しているのか、なぜ二重思考(ダブルシンク)みたいなシュールな世界に生きつづけるのか、なぜ皮肉る他に何もしないのかなど、運よく民主主義を成し遂げた韓国の経験に照らしていくら問い続けても、無意味であることです。私には、彼らの傷やトラウマが一生分かりませんから。

 

 しかし、私はその傷やトラウマだけではなく、命や愛も見てきました。ある日娘が日本から連れてきた、半分金髪でラップかなんかをやっている変な韓国人の彼氏のことを、彼女の家族は本当に「家族」として受け入れてくれました。結婚式はクラスノヤルスクで挙げようと、口癖みたいに彼女と話し合うのですが、国際情勢や前回の帰国時の経験から、そもそも行けるのか、行って安全なのか、はっきり答えられません。それでも、そこは私の新たな家族が住んでいる街。私の愛する人たちが、安全で幸せに生きられる、そんなクラスノヤルスクを、私は夢見ます。シベリアの緑のタイガの隅々まで平和が宿って、止まらず流れるエニセイ川のように、自由が人たちの心へ流れることを。シベリアへ、愛をこめて。

 

1. 半遊牧、または狩猟採集社会だった諸民族を征服し、隷属させることで始まったのは言うまでもなくです。

2. 面白いことに、現地の人たちの体形や身長で驚くことは特にありませんでした。「白人は背が高い」とよく言われますけど、160㎝の私でも街を歩いていて人びとの身長に圧倒されるとか、何か不便があるとは感じませんでした。

3. 私の彼女の前でこんなこと言ったらあなたの命は保証できません。

4. 葉っぱが落ちる様、またそれから生まれる哀愁やノスタルジアを表す言葉。

5.「水力発電所」を意味する一般名詞ですが、クラスノヤルスクではもはやこの水力発電所を指す固有名詞のように使われています。

6. https://meduza.io/en/feature/2017/06/21/how-viktor-tsoi-s-most-famous-song-became-the-post-soviet-world-s-protest-anthem-against-the-rock-legend-s-own-wishes

7. ツォイはインタビューで、海外でライブする機会はあったが、西側が求める「マトリョーシカ人形」を演じたくないから断った、などと、西洋のロックとは違うソ連シーンの独自性について何度か話しています。

8. https://tsoitranslated.site/2024/07/26/victor-tsoi-in-young-leninist-volgograd-1989/

9. 大日本帝国の満州侵略以降、ロシア極東に居住していた朝鮮人たちが日本に協力する可能性を恐れたスターリンが、彼らを中央アジアへ強制移住させ、今の高麗人・コリョサラムになりました。朝鮮系・韓国系だけではなく、ソ連の少数民族がこういった強制的な民族移動に遭うケースは多数ありました。

10. 韓国は民主化を成し遂げた後、植民地支配、米軍と韓国警察・軍による済州島民の虐殺、光州事件などの歴史に対して、政府主導の調査委員会を設けて真相を把握し謝罪したり(または求めたり)、ポップカルチャーでそれらについて語ってきました。第2次世界大戦後のニュルンベルク裁判・東京裁判も、不十分で問題が多かったにせよ、過去を清算する方法の一つであったでしょう。現代ロシアの場合、ソ連時代の歴史や出来事に対するこのような動きは、驚くほど少ないです。

11. 民営化の情報を知っていた元共産党幹部や企業経営者などが企業の株を爆買いし、現代ロシア社会の支配階級であるオリガルヒになっていきます。

12. ペルミ36グラーグ博物館。しかしここも政治的な理由で2014年に閉まったようです。国際社会の支援でオンラインにバーチャル博物館としては残っています。

13. https://www.gulag-perm36.org/en/

14. ウクライナだけではないですけどね。チェチェン紛争、ジョージア侵攻(南オセチア紛争)、ベラルーシの従属化など、ソ連崩壊以降もロシアは帝国主義的な行動を繰り返してきました。

15. 同時に、政府と与党が主導する参戦派の動きも、本当の意味での支持者を集めるのに苦労しています。プーチン自身が参加した与党の全党大会に、参加者が足りなくて全国の公立学校の先生たちや公務員たちを無理やり動員して集めた話は有名です。

16.「マックス」というアプリ。テレグラムのようにメッセージと電話機能、チャンネル機能があると広告されていますが、政府による個人の監視やデータ収集の意図があることは自明です。

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著者略歴

  1. Moment Joon

    本名「金 範俊」。韓国ソウル出身、大阪在住の外国人・移民。2010年に大阪大学文学部に入学、渡日。「Moment Joon」名義で日本語でラップ音楽を作って2019年からEPやアルバムなどを発表、2021年に渋谷でワンマンライブを開催するなど。ヒップホップにおける差別用語の研究で大阪大学文学研究科の博士後期課程に在籍中。日本語で執筆活動も行い、2021年には岩波書店からエッセイ集『日本移民日記』を刊行。「移民」の目線で日本や自身の生き方を眺めた前作から一歩離れ、自身の真実を生きてみるために本名のままあえて「外人」という言葉を浴びて書いていく放浪記。

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