第2回 皇国住まいの共和主義者(下)〈金 範俊/Moment Joon 外人放浪記〉
共和国育ちの阪大生
2024年、母校の大阪大学の総長選がありました。「選」とはいえ学生はもちろん教員たちにも選挙権はないので委員会による「選考」に過ぎませんが。二人の候補のうちの一人が、外国人留学生の授業料だけを10%上げるという構想を、非公開の所信表明の時に明かしたことが分かりました。「何のために上げるのか」についての説明はなく、本人からではなくその候補を擁護するある教授から「留学生の支援に使うために」という不確実な答えを個人的に聞いただけで、何の支援なのか、その支援の必要性はちゃんと調査したのか、留学生たちや教員たちはその支援を必要とするのか、理解を得て納得させようとしたのか、何一つ聞いておりません。しかもそもそも留学生の学費値上げは、財源確保の構想を発表する際に他の政策と一緒に挙げられていたらしく、どう見ても円安を理由に留学生だけをターゲットにした、差別的な政策だったのです。
「同じ数の単位を取って同じ教育を受けているから、同じ授業料を払うべき」と、一物一価の法則から、私は反対運動を展開しました。他の留学生たちと日本人学生たちと連帯して、学内で少しでもこの事情を知らせて、選挙権はないけど「意向表明権」はある教職員たちに、意向調査で代わりに反対の声を届けてくれることを、チラシを配って訴えました。「日本国民の税金によって運営される国立大学だから日本国民をもっと優遇すべきだ」という意見もありましたが、1.留学生を更に差別することが日本国籍の学生を優遇することではなく、2.国立の理念として日本国民を優遇することは妥当だが、それは「同じ教育に同じ授業料」の原則を壊してではなく、授業料免除などの措置を日本国籍学生により優しく、留学生に更に厳しくすることで実現すべきだと反論しました(まぁ、噂によれば留学生学費値上げの建前は留学生支援ですから、留学生本人が嫌ならそれで終わりだと思いますが)。教職員たちによる意向表明(何度も書きますが選挙ではありません。書いている今でも笑ってしまいます)と、委員会の選考結果が発表された11月29日、当候補は落選しました。そもそも我々の活動がどれほど影響を与えたのか確かめるすべもなく、将来にまた学生の意志や権利に反する決定が下されても制度的に我々に出来ることはない、という苦い後味の勝利でした。
「自分とは関係ないから」「こういうのに関わりたくない」「間違っているかもしれないけど知りたくない」など、キャンパス内でチラシを配りながら見せてもらった阪大生たちの顔が浮かびます。覚悟して心の準備もしていたはずなのに、実際に百数十回も繰り返して見せられると、相当苦しいものでした。それでもやりました。自分はもう卒業するし授業料を払う貯金もあるけど、未来の後輩たちが差別のない大学で勉強してほしかったからです。学校は学生たちのもので(も)あると思ったからです。
高校の時の記憶が大きな力になりました。ソウルにある母校の大一外国語高等学校で2008年、予定されていた修学旅行が妥当な説明もなくキャンセルされ、学生会長(生徒会長)が校長室に抗議しに行ったこと。韓国で小学校から行われる「班長選挙(学級長選挙)」の記憶や、大学で非常勤講師の組合に参加している友達の経験談、人権侵害を犯した教員を告発した韓国の高校生たちのニュースまで……問題だらけではありますが、韓国という共和国で育った私は民主主義についてこう学んだのです。「民主主義とは、所属している共同体の『主』が、他の誰でもなく自分自身であることを自覚することだ」と。阪大生たちの無関心と嘲笑はつらかったですけど、阪大という共同体の「主」の一人として、私は動こうとしました。
「民意」主義でなく、「民主」主義のはずなのに
私が思う民主主義における「主」とは、あるものを私有化して所有する人を指すのではありません。あるものを他の多くの「主」と一緒に共有しながら、またそれをよくするために行動し守っていくのが「主」だと思います。一緒に考えて一緒に行動する「主体」である「主」です。
「主」の観点から民主主義を理解する共和主義者すぎる私にとって、日本国憲法に「民主」という言葉が一度も登場しないことは、自分が死ぬその日まで不可解として残ると思います。憲法前文にある「ここに主権が国民に存することを宣言し」にも、疑問を感じます。主権が「在する」ということは、必ずしもその主権が国民から「生ずる」ことを示すのではなく、あくまでそれが今誰の手元にあるのかを表しているのではないか、という…1 はい、また私に読解力がないだけで、「民主」という言葉が書かれていないだけで、日本国憲法は民主主義をしっかりサポートしているのでしょうけど。
政治学を勉強する友達から、その日本の民主主義の未来についての本を2冊紹介してもらいました。東浩紀『一般意志 2.0』(2011)と、成田悠輔『22世紀の民主主義』(2022)です。この二つの書籍は、SNSやネットのデータベースから、人々の無意識的な一般意志的なものを抽出することを民主主義の代案として提示している所で共通していますが、私はこの2冊から民主主義の「主」という字を使う意味について考えます。
人びとの意志・意向はアルゴリズムが把握してくれ、そこに集まった意志・意向のデータをもとに、「一般意志 2.0」の場合は専門家による委員会が、「22世紀の民主主義」の場合は政治家は、SNSで人気の猫に置き換えられて、功利主義的な政策が樹立されて実施される。人前に出る、つまり「公の場(public)」で個人が政治的な主体として存在する必要は薄くなり、私たちは皆それぞれのパーソナル・スペースで存在しつづけていくだけで十分、政治的活動など一切しなくても、希望に近い政策が実現してゆくことになるのだから。
データ収集の過程と解釈の問題、データ自体の偏向、責任の所在など、細部的な問題以前に、「パブリック」が薄くなり、行動する政治的な主体としての個人が弱くなるその想像力自体に、私は正直驚愕します。「公の場に出て行動する」ことの価値を、日本社会は信じていないのでしょうか。その「公の場」で政治的な行動をすることは、全て「偽善」なんでしょうか。自分が「行動」をすることで「結果」が出ることを経験していく人生と、何もしなくても誰かが私の心を「察してくれる」人生、どちらの方が共同体に対する責任感を強めやすいでしょうか。「今回の地震でも朝鮮人たちが井戸に毒を入れた」という意見に基づいた一般意志が抽出された時、何を原則としてその一般意志を止められますか2。誰かがシステムを乗っ取って私欲のために使ったり迫害・弾圧に使う時、またはシステム自体が崩壊した時に、人びとが「自ら」何かを起こして再建・再生する力量は、どこで養えますか。
民主主義に対する幻滅や嫌悪が盛んな国や社会は他にもいっぱいありますが、その中でも「民主」の「主」の存在をここまで弱くする主張は、すくなくとも私は見たことがありません。人間を非理性的な存在として見なす前提は理解できますが、だからといって政治的な主体としての個人や、政治的な空間としてのパブリックの可能性を閉ざすことで、我々は自分を修正して成長していけるのでしょうか。国家以前の地域、学校、職場、家庭内の民主主義の可能性については特に言及しないこれらの議論。制度としての選挙や投票、政党に飽きているのは分かりますが、制度以前の我々の生活の中の民主主義と主体性、民主主義の文化までも、AIに取り替えてもらった方がいいのでしょうか。
「民意主義」と書いて「民主主義」と読むかのような民主主義議論。「Aと書いてBと読む」、ごく日本らしいこの議論の破格さも、「皇国」だからこそ出来るのではないかと、私は感じています。皇国「日本」は「彼方のもの」で、太陽や重力みたいに人工物を超えた超越的な概念であって、「我々一人一人が集まってこそ成り立つもの」ではないのでしょう。「民」が「主」であるとは憲法に書いていない日本で、民主主義とは人びとの主体性を守って保証する土台ではなく、豊かさをもたらして混乱を統制するシステムにつけられた、現代風のあだ名だったのではないでしょうか3 4。『一般意志 2.0』と『22世紀の民主主義』が日本で登場したのは、それらが問題と見なして正そうとする「民主主義」が、そもそも「民」を「主」とする性格が薄いから、かもしれません5。
民主主義は危ないけど、ここは皇国だから
もちろん、政治的な「主体」として覚醒した人びとが作っていく民主主義が、人びとの安全と繁栄を自動的に保証してくれる訳ではありません。端的な例として、ファシズムがあります。大衆の憎悪・嫌悪・被害者意識が暴力的な形で表れるファシズムは、普通「臣民」ではなく、近代的な政治的主体としての「有権者」によるポピュリズムから生まれると見なすのが一般的です。多数決の原理によって多数の憎悪と嫌悪は「正しいもの」と認められ、その嫌悪を晴らしてくれる「ストロング・マン」を求めるファシズム6。しかし逆説的に、ファシズムはそれを生み出した民主主義と政治主体としての市民を殺し、全体主義と国に従属する奴隷を生みだすことを、我らは歴史を通して学びました。
それでも、現在のこの憎悪・嫌悪・不安が強すぎて、それ以外に何も見えないのが、21世紀の民主主義社会に生きている多くの人びとの現実でしょう。アメリカ、ヨーロッパ、そして韓国。2017年の韓国の元大統領は、過去の軍事独裁・権威主義の感覚で憲法を無視して権力を私物化しようとして弾劾されたのですが、2024年の大統領は反中・反北朝鮮のパラノイアと、男女や世代間の対立から生まれた社会的嫌悪を根拠に戒厳令を発令しました。どう転んでも明らかに憲法違反をした大統領を擁護する多くの人びとは、皆、何かを死ぬほど憎んでいました。いや、「殺したいほど憎んでいた」がもっと正しいでしょう。弾劾が否決されたら、彼に勇気づけられたその憎悪と嫌悪は、どんな形で拡散していくのか。幸い罷免宣告と共に一番の危機は何とかまぬがれましたが、多くの人びとのその「殺したいほどの憎しみ」は、民主主義の多数決の原則で正当性を得て、今も韓国の未来を暗くしています。
ドイツの民主主義を破壊したヒトラーは、クーデターではなく、正当な選挙によって選ばれました。しかしそれを怖れて、(民主主義を破壊する可能性の高い)ファシズムを信奉する人びとを政治の場から完全に追放すれば、それこそが民主主義の原理に反することになります。主体として覚醒した人びとが、他者との葛藤を民主的に調整せず、迫害・排斥・排除を選んでいく2020年代。その現実の前で民主主義というシステムは、限りなく脆弱に見えます。「常に自滅の可能性と共に生きていく」点で、民主主義は「人間」にすごく似ています。本当に恐ろしい仮定ですが、自分の意志で自らを傷つけて死ぬことが禁じられている自由は、真の自由とは呼べないのではないでしょうか。「悪」や「害」を選べる自由がそもそも許されていないのに、「善」や「命」を選ぶことの価値なんて、あると言えるでしょうか。
皇国の場合はどうでしょう。アポカリプスと呼んでもおかしくないほどの破壊と死を、日本は戦争でもう既に経験しています。しかし、戦争で受けたその壊滅的な被害は、軍の一部の、政治家たちの、財閥の、開戦を強いたアメリカの、(陰謀論によれば)黒幕のユダヤ人の、(私がそう言っているのではなく一部の人によれば)天皇の責任であって、日本国民(でもなく当時は臣民でしたが)の責任ではなかったという認識。「そもそも主体ではないから自害したくても原則無理」がもたらす安堵を、皮肉ではなく、私は本当に感じています。左翼・右翼を問わず、大衆運動としての政治の場に人びとを巻き込もうといくら頑張っても、それに応じずに自分の「ソファーキングダム7」で浮遊する人びと。私も一緒に浮遊します。テレビは特に見ませんが、ネトフリはかなり熱心に視聴しています。オリジナル作品と言えば最近はアップルTVですよね。それより、4年前からすごいハマっている趣味があって、カードゲームなんですけど「アーカムホラー」といって、それが……
皇国住まいの私は、共和主義者
2025年の大統領弾劾デモが以前の韓国民主化運動と違ったのは、Kポップの有名曲がデモで歌われただけではありませんでした。市民たちは先祖たちや先輩たちと同じく「民主主義万歳」を唱えたのですが、それに加えて「民主共和国万歳」という言葉が唱えられたのは、2025年の特徴と言えるでしょう。もちろん以前も使ってはいたけれど、韓国の人からすると映画やドラマで北朝鮮の登場人物がよく使う印象があって少し遠く感じていた「共和国」という言葉が、今回は「共和国を守ろう」と歌う市民たちによって「守るべき対象」として議論の前面に出てきました。民主主義の原則を悪用したファシズムが嫌悪と暴力を広めることに対して、異なる意見を持った市民たちが一緒に生きていく共同体としての共和国を、不完全ながら韓国の市民たちは守り抜きました。
「民主主義の危機」に対する答えは、もしかしたらその「共和主義」かもしれません。多数決の原則という民主主義の法則だけではなく、各種機関と儀式、文化で「公共財としての共同体」を広めること。人びとの統合のシンボルとなる「天皇」や「神国」といった、尊くて必然的・超越的な(ものだと思われる)概念は、人工国家である共和国にはありませんが、それでも共和主義者たちは言葉で、涙で、血で、芸術でその象徴を作り続けて、民主主義の輪の中に人びとを招いています。香港の民主化運動家たちが、1987年の韓国民主化運動で亡くなった李韓烈氏の写真を広め、台湾の同性婚合法化を一緒に喜び、ロシアやミャンマーで民主化運動をする人びとのために声をあげて一緒に泣く時に、私は共和国的な想像力を感じます。この世の中は我々一人一人で出来上がっていて、その価値を共有する人びとと喜びと悲しみを分かち合いながら生きていける、という想像力です。その構成員の我々が変わる時に、世界も一緒に能動的に変えていけるという想像力。一国の民主主義の勝利が、世界の民主主義全ての勝利であることを見出せる想像力です。
共和国で19年間育った私は、今年で皇国居住歴13年となりますが、残念ながら未だに共和主義者です。「皇国」と共和主義が必ず相互排斥的とも思わないですが、二者択一しろと言われたら、共和主義的な価値が「皇国」に勝ると言える根拠は、特に出せません。ただ自分の生きてきた環境と歴史によって共和主義的な価値観と良心が形成されたことを意識して、それを他人に押し付けるのではなくて、自分の行動を通してその価値を証明し、広めながら生きていくだけです。
最近、井口堂はごみ袋を狙ったカラスによる被害がひどいです。収集日の朝、置き場にゴミを持っていくともう既に酷い状態になっています。カラスによって荒らされているゴミが誰のものかなんて分からないし、マンションには常駐の管理人さんもいないので、自分で彼女と一緒に掃除をしています。誰も手伝わなくても、自分のゴミではなくても、手袋とゴミ袋を持って、月曜日と木曜日に一緒に片づけています。
それが日本の常識だから、ではありません(だってほかに誰もやってませんもん)。日本では純粋に「市に居住する住民」を表す語感が強い「市民」ですが、民主主義は本来、都市に集まった様々な背景の「市民」たちによって始まったし、民主主義は「国民」より先に「市民」から始まりました。池田市民の私は、自分が池田市の「主」であることを感じています。参政権は与えられていないけど、その主として自分がやっていくべきこと。法律を守る以上に、税金を納める以上にやるべきこと。学校で、職場で、商店街で、教会で、他の人達と一緒に「主」として一緒に生きていくこと。皇国住まいの私は、共和主義者です。
1. 日本国憲法前文の前に付けられた「上諭」には「朕は~公布せしめる」と書かれていて、憲法を公布する主体もそもそも国会ではないこととか…
2. これら予想できる批判と危険性に関して、東は一応、高度に民主化されていて人権意識と多様性が既に保たれている社会が一般意志2.0の条件であると、韓国語版の翻訳者とのインタビューで述べています。
3. 民主主義とGDPの関係について論じるなど、功利主義的な側面で民主主義の必要性または不必要性について論じる観点は『22世紀の民主主義』で特に可視的です。
4. 一方『一般意志 2.0』は民主主義を「欧米のもの」ではなく、普遍的な価値を持ったものとして認識し、ルソーの「一般意志」論に基づいて考察を展開するなど、民主主義自体を目指すべき価値と認識する傾向が強いです。しかし東は日本人は「熟議が下手」で、その代わりに「「空気を読む」ことに長けている」と見なし、その「空気を読むこと」と「一般意志」の類似性から日本が「民主主義後進国から民主主義先進国への一発逆転」が出来ると期待します。私からすると「空気を読む」ことは根本的に受動的で消極的であり、公共性のために自発的で能動的に動くことには繋がりにくいと思いますが。
5. 東は「(この国では民主主義は)明治維新以降、いちどもまともに機能したことなどなかったのではないか」という疑問を記していますが、日本の民主主義(またはその不在)に対する疑問において「天皇制」の言及がないことは、示唆的ではないでしょうか。
6. 日本の戦前のファシズムに対する研究は、戦後に丸山眞男が「天皇制ファシズム」という概念を使ったことから今に至りますが、主権者としての市民の不在やポピュリズム的な運動の不在という観点から、戦前の日本をファシズムではなく違う形の全体主義と見なす見解も少なくありません。
7. ラッパーのPUNPEEのアルバムのタイトル。作品中の意味とは大きく違いますが、断片化して孤立し、消費によって規定される現代日本社会を表すにはぴったりの言葉だと思って、勝手ながら借りて使っています。