木村草太 ピッピの時間[『図書』2025年12月号より]
ピッピの時間
はじめに ピッピは時間なんてないことに気づきました
久しぶりに『長くつ下のピッピ』を読んだ。娘が小学校低学年の時に、一緒に読んで以来だから、十数年ぶりだろうか。そして、マクタガートの『時間の非実在性』を感じた。こんなシーンを想像してみてほしい。
ピッピは言いました。
「ねえ、時間って本当にあるの?」
「何、言っているの? 昨日は昨日だったし、今日は今日で明日は明日でしょ。時間がないと、いつまでも昨日は昨日にならないし、今日は明日にならない。」アニカは、ピッピがまた面白いことを言い出したと思いながら言いました。
「でも、あなたたちは昨日のことを今日って言っていたこともあるし、明日って言っていたこともあるわ。今日だって、昨日でもあり、今日でもあり、明日でもあるんでしょ。同じ一日なのに、昨日でも今日でも明日でもあるなんて、おかしいわ。だから、時間なんてないのよ!」
マクタガートの有名な「時間は実在しない」という議論だ。ピッピのセリフにしてみても、不思議と違和感がない。
1 ピッピは自由に考えます
なぜ、哲学書の言葉をピッピに重ねても自然に感じられるのか。それは、ピッピのセリフが論理的だからではないか。
子どもの頃、『長くつ下のピッピ』を読んであこがれたのは、そのハチャメチャさだった。元気で強い。サルのニルソン氏と同居しながら、馬を飼う。床でクッキーを焼いて、馬で学校に通い、サーカスでは団員よりも上手く綱渡りをしてしまう。
とかく大人たちは、「○○しなさい」「そんなんじゃ大人になれません」と口うるさい。つまらないルールにはうんざりだ。理不尽な支配を逃れて、自分の思うままに過ごせたら、どんなに素晴らしいだろう。だから、ピッピのアナーキーな行動を、「いいぞ! もっとやれ!」と応援する。
ところが、大人になって読み返してみて驚いた。ピッピの発言は、無茶苦茶ではあるものの、いたって論理的なのだ。「思考的アナーキズム」のようなものが見えてくる。
一例を挙げてみよう。ピッピは馬をベランダに置いている。トミーに、「ねえ、どうしてベランダに馬がいるの?」と聞かれて、ピッピはこう答える。
「台所だとじゃまになるし、この馬、居間はきらいだし」(リンドグレーン・コレクション『長くつ下のピッピ』岩波書店、2018年、菱木晃子訳)
ピッピは、しっかり問いに答えている。馬を置く場所には、台所、居間、ベランダの三つの選択肢があり、その中でベランダが最善なのだ。トミーは、「うまやが無ければ馬は飼えない」と思っていたのかもしれないが、風雨をしのげて、柔らかい寝場所があれば、うまやでなくたって、馬は快適に過ごせることだろう。
「質問に答えるのなんて当たり前。感心するほどのことはない」と思う人もいるかもしれない。しかし、ファンタジーの世界ではそうではない。『不思議の国のアリス』のチェシャ猫は、笑いだけを残していなくなったではないか。さらに言えば、ファンタジーの登場人物たちだって、ありえないことを考えている。ドラゴンの火の避け方とか、サウロンの指輪の滅ぼし方、時間泥棒のやっつけ方等々だ。
これに対して、ピッピは私たちと同じ町に生きている。ドラゴンも魔法も出てこない。学校があり、お隣さんがいて、子どもが一人で生活していたらお巡りさんがやってくる。だったら、私たちも、ピッピと同じように考えられるのではないか。
例えば、
・ピッピは、足を枕に乗せて、顔に布団をかぶって寝る。眠りながら、足の指を動かせるからだ。
・お巡りさんが〈子どもの家〉に入れるために、ピッピを捕まえに来ると、もう子どもの家にいるという。「あたしは〈子ども〉で、ここはあたしの〈家〉」だから。
・学校で先生に「7+5は?」と聞かれると、「あんたが知らないことを、あたしにいわせようってのね?」と言いきる。
……。
私には、無理だ。私は、どこまで「常識」に支配されているのだろう。なぜ、ピッピは自由でいながら、論理的でいられるのだろう。
そのヒントは、作者のリンドグレーンさんの中にあると思う。彼女は、社会民主党系の夕刊紙に「ポンペリポッサ物語」という寓話を掲載し、当時の所得税の課税方式のおかしさを明快な論理で訴えた。この寓話は、スウェーデン社会に衝撃を与え、国会審議を動かしたという(三瓶恵子『ピッピの生みの親アストリッド・リンドグレーン』岩波書店、1999年、52頁以下)。論理を操るのは、お手の物だったのだ。
時間や存在、意識や言語など、身の回りにありふれた事柄を対象に、誰も思いつかないようなことを論理的に語るのは、優れた哲学者の特徴だ。マクタガートの言葉をピッピのセリフだと想像しても違和感がないのは、そのためだ。
ピッピを読んでいると、哲学をする楽しさも体験できる。
2 ピッピは後先考えず、全力で遊びます
また、ピッピの物語は、物語全体を通じて、大事な思想を示している。
冒頭に紹介したマクタガートの理論を再確認しよう。マクタガートは、「時間」は単なる前後関係(A系列)のことではなく、過去・現在・未来の3要素(B系列)からなる概念だとした。
B系列は、耐えがたい矛盾を含む。B系列を前提にすると、ある一時点は、過去でもあり、現在でもあり、未来でもある。しかし、過去・現在・未来は相互に矛盾する。同じ一時点が全ての性質を持つのは矛盾だ。つまり、時間という概念は、筋の通ったものではありえない。だから、時間は実在しない。これが有名なマクタガートの時間の非実在説だ。大澤真幸によれば、この議論の意義は「時間とはわけのわからないものだ、謎なのだ、ということを論証した」ところにあるという(大澤真幸『逆説の古典』朝日新書、2025年、35頁)。
マクタガートは、明らかな矛盾を含む時間という概念を、筋の通った実在だと思わせる原因を論証した。それは、「現在」の特権化だ。過去・現在・未来の三要素中、現在の重要性は突出している。過去も未来も「線」だが、現在だけは「点」だ。時間とは、一直線の前後関係の中に、「現在」という特異点が生成し、それに伴い前後関係が過去と未来に分割されてできた概念だ。
実は、ピッピの物語は、この「現在」の特権性を扱う物語でもある。
全3巻からなるピッピの物語には、時間の流れがある。ピッピがごたごた荘にやってきて、アニカとトミーのきょうだいと友人になる。最初はピッピを迷惑な子どもだと思っていた二人の母親までもが、だんだんとピッピを信頼していく、という流れだ。
ただ、ピッピの物語はどこから読んでも面白い。順番を入れ替えても、ほとんど違和感はないだろう。ピッピが、後先考えるなどという手抜きはせず、いつも全力で遊んでいるからだ。例えば、馬で学校に行く章と、屋根まで追いかけてきたお巡りさんの梯子を外す章は、どちらを先に読んでも面白く、筋が通らなくなることはない。
しかし、最終章(『ピッピ南の島へ』「12 ピッピは、おとなになりたくありません」)だけは例外だ。この章だけは、他の章を読み終えてからでないと、意味が通らない。それに、元気いっぱい、力もいっぱいだったピッピが、この章だけは寂しそうだ。
ピッピは、子ども時代があまりに楽しくて、「大人になりたくない」と言い出し、大人にならなくて済む薬を飲む。それに続くラストシーンは、人の心を強く揺さぶる。まだ読んでいない人は、是非、自分で本を手に取って読んでほしい。もう読んだという人も、もう一度、読んでほしい。こう書くと、「じゃあ、ラストシーンだけ読んでみよう」と思う人もいるかもしれないが、このラストシーンは、物語を全て読んだときに、最も豊かな読書体験がもたらされるように作り上げられている。ラストシーンだけを読むのでは、もったいなさすぎる。
3 ピッピは薬を飲む前に階段を上りました
ラストシーンの感動を伝えたくて、少々、脇道に逸れてしまった。私が今、注目するのは、その直前の、大人にならなくて済む薬を飲むシーンだ。
薬は、効いたのだろうか。効いたかもしれないし、「飲めば大人にならない」というのはいつもと同じ大ボラだったのかもしれない。リンドグレーンさんは、『ピッピは永遠に元気な子ども』とか、あるいは、『ピッピ婆さんの大冒険』といった続編は書いていないので、答えは謎のままだ。
ただ、私が思うに、薬に効力がないことは明らかだ。これは、こういうことだ。
ピッピが薬を飲もうとしたきっかけは、「子どもの時間」が特権的だと意識したことだった。ピッピといえども、子どもの時間は限られている。大人になれば、義務や責任、仕事といったあれこれに囲まれて、生きていかねばならない。実際、ピッピのお父さんは、王様としての責任・仕事がいっぱいで、時間に追われて生きている。
ピッピは、それを認識した。この結果、現在(子どもの時間)は、この上なく貴重な瞬間として特権化され、自由に過ごした過去はかけがえなく、大人としての未来がこれからやってくるのが見える。ピッピは、時間の概念を受け入れた。
この段階で、ピッピは、もはや子どもとは言えないのではないか。確かに、この翌日も、ピッピはトミーやアニカと雪の中で元気に遊びまわるかもしれない。しかし、ピッピは、もはや無邪気に遊ぶことはない。この上なく貴重な、今、この子どもの時、として遊ぶ。それは、大人……とまでは言えないが、それまでのピッピではない。
だから、薬に効力があろうがなかろうが、あるいはそれを飲もうが飲むまいが、「大人になりたくない」と思った時点で、ピッピは引き返せない階段を一つ上ったのだ。
おわりに 私は薬をすっかり飲み干しました
40代も半ばを超えた私は、ピッピを読みながら、こんなことをあれこれ考えている。そして、「締め切りに間に合うだろうか」とやきもきしながら文字をつなぐ。ついでに、やらねばならない事務処理の山のことも、頭の隅から離れない。どんなに忙しくても、朝5時20分には、娘と息子のお弁当を作り始めなければならない。
やれやれ。共感の対象は、すっかりお父さんだ。
肩をぐるぐる動かしながら、意識的に息をゆっくりはく。そんな時、ピッピとの楽しい遊びに没頭し、ラストシーンを「いらないな」と読み飛ばしていた、小学生の自分を羨ましく思ったりする。そして、たくさんの子どもたちが、そんな幸福な時間を過ごしてくれることを祈っている。
(きむら そうた・法学者)




