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瀬尾夏美 [表紙に寄せて]あわいの対話[『図書』2026年3月号より]

 腐海の森の入り口らしきところに人影がある。マスクをしなければ数分で人の肺が腐ってしまうというその汚れた場所は、桜色に染まっておりうつくしい。桜の花で思い出すのは、15年前の春に大津波が到達した地点へと桜を植えていくプロジェクトで、いま陸前高田のまちでは春になると、桜色の線がやわらかく浮かび上がる。それは、自然と人の住処とのあわいの領域を可視化し、自然そのものの持つ力の大きさを思い出させてくれる。あの日、巨大な波がコンクリートの堤防を破壊し、まちを攫い、多くの人が亡くなった。だからこの桜の花は弔いでもあり、死者と生者はそのうつくしい場所で、ひとときの交流を楽しむ。

 2019年秋、東日本の広範囲を豪雨が襲い、宮城県丸森町の川沿いの集落は土砂で埋まった。そこに暮らしていたHさんに会いに避難所(それはかつて彼が通っていた小学校だという)を訪ねると、開口一番、「これは人のおごりだねゎ」とつぶやいた。若い頃に山仕事をしていたHさんは、戦後の人の暮らしの変遷を訥々と語りながら、山の痛みに寄りそう。ひいおじいさんの代から住み続けた集落を破壊されてもなお、土や水や木々や獣たちの痛みを思い、自省的に自身の経験と村の歴史を語るそのスケールの大きさに、わたしはただ驚いていた。おれたちはまた小さな集落をつくって、暮らしていくから。そう宣言して再建した自宅で3年ほど暮らし、Hさんは亡くなった。その1週間前には、このまちに生まれて幸せだと言って笑っていた。

 自然環境とせめぎ合う、人の暮らしのままならなさをその身で知る古老たちにはまだまだ聞きたいことがあるけれど、別れが先を追い越していく。最近では、津波から逃れるために造られた嵩上げ地の際にも熊が出るという。あわいの領域が消えつつある現実を生き抜くために、誰に話を聞けばよいのだろう。心細さに身悶えながらも、深呼吸して、耳を澄ます。──風が吹いている。

(せお なつみ・アーティスト、作家)


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