【対談】「咬んだり刺したりするような」 石井洋二郎・國分功一郎[『図書』2026年6月号より]
本を読む、古典を読むとはどういう行為なのか。AIの時代にアナログな形での読書にはどんな意義があるのか。『書物の航海へ——いまを生きるための古典』(小社刊、2026)の著者・石井洋二郎さんと、『いつもそばには本があった。』(互盛央さんと共著、2019、講談社選書メチエ)という著書もある國分功一郎さんのお二人に語り合っていただきました。

知への恐れ
國分 『書物の航海へ』の本の帯を書いた時、ぼくはなぜか、坂本龍一の『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社、2023)という言葉を思い出しました。そして素直に、「ぼくはあと何冊、本を読むだろう」と思いました。「國分さんはいわばプロの学生だね」ってたまに言われるんですが、ぼくの中には子供のように、読めるならたくさん読みたい、いろんなことを知りたい、驚きたい、教えてもらいたいって気持ちがあるんです。
他方で、この本には恐れをなす人もいるだろうと思いました。石井先生はこんなに読んでいるのか……と。もちろん「いまを生きるための古典」として、こんな本がありますよ、よかったら読んでみてくださいと紹介している本なのですが、恐れをなす人もいるかもしれない。ただ、さらにもう一歩踏み込んで言うと、恐れをなすことも大事だと思うんです。世の中には自分の知らないことがこんなにあるんだ、タイトルは知っているけど読んでない本、タイトルすら知らなかった本を読んでいる人がいるんだと。その恐れをどう受けとめるか。知に対する恐れを全く抱かないのもおかしなことで、いまそれがなくなってきている。知識、知に対する恐れについて、石井先生はどのようにお感じになっていますか。
石井 知への恐れというのは大事なことで、本を読めば読むほど私も恐れが増してきます。國分さんと互盛央さんの『いつもそばには本があった。』は、世代的に同じで知的な雰囲気を共有している人たちがそれぞれに読んできたことを、それこそ自分が感じた恐れまでさらけ出して語り合っている。その様子は、本気で羨ましいと思いました。『書物の航海へ』はひたすら単独航海でしたからね。
國分 この本で取り上げられた本は何冊か、数えたんでしょうか?
石井 タイトルだけだと220ですけど、内容にちょっとでも触れたのは、87、8だったと思います。
AIと翻訳の問題
石井 昨今、大学生の本を読む時間が激減しているそうですが、メディア環境の変化の中で、生成AIが膨大なデータを整理し、情報を整理するツール以上の存在になっている。学生にはよく、自分の頭で考えろとか、自分の言葉で語れと言うけれど、いまは、AIが自分の頭で考え始めている。そうなると紙の本に触れる機会が少なくなるのは必然的な流れであって、読書という行為の持つ意味が根本的に変わりつつあるんじゃないか。國分さんはAIを使いますか?
國分 ぼくにとっては去年ぐらいが、AI元年的な年でした。論文を書く時、とくに外国語で書く時、AIを使うのが当たり前な若い研究者たちにたくさん遭遇した。それに関してはぼくはアンビヴァレントなんです。一方では、日本の学者は英語で書けなくて損していると言われたそのバリアが低くなって、論文の生産数が増える肯定面もある。でも他方、ぼく自身は外国語を勉強したり本を読んだりして、自分がちょっとでも立派になりたいという感じもあるんです。「立派」という言葉が一番いいかなと思いますけど、できるようになること、わかることがすごく嬉しいんですね。わかって、情報が入って、頭の中が整理されて、自分が主体として豊かになっていく。それが当たり前のことだったので、ツールによってその機会を逃すのはもったいないと思う気持ちもある。
ただ、その意味は全く通じない可能性があって、作物(さくぶつ)がきちんと出てきているならいいじゃないかと反論されるだろうし、本当にそうかもしれない。最終的には、作物を判断する側の能力が語学や読書で鍛えられなければ、作物自体のレベルも下がっていく、でも短期的に見た時には簡単に言い返せない。必ずしもAIを否定するつもりはないのですが……。
最近そういうことを考えながら、フランス語のすごく難しい本を読んでいました。その時、もしかしたらいまの人は、これをPDFにしてAIに読ませて要約させるのかもしれないと思ったんです。ぼくが1冊読んでいる間に100冊分の情報を集めることができる。量の変化が質の変化に転化するってヘーゲルの言葉もありますけど、圧倒的な量をAIを通じて「ドーピング」するようになると、自分がいままで何のために頑張ってきたのかと思わされることもあるかもしれない。その「ドーピング」を確たる視点から批判することもできないですし。
石井 難しいですね。私はAIを使いこなせないのですが、AIがあったらよかったなとつくづく思うのは翻訳ですね。30代の時に、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオンⅠ・Ⅱ』(藤原書店、1990)という本を訳しましたが、その頃は、AIどころかコンピュータもないワープロの時代でした。わからないことを調べようにも百科事典しかなくて、でもたいていのことは載ってない。いまだったらネットで検索すると簡単にわかることも、なかなかわからない。いまならAIに下訳をしてもらったら楽なんだろうなとも思うけど、当時はゼロからの作業だったので悪戦苦闘しました。だから色々な不備も残っていると思いますが、まあ仕方がない。
翻訳って、ツルハシを持って岩山を切り拓いていくような仕事で、最初にできた道はたいていでこぼこ道ですよ。後から来る人はそこを通って、ここが削れてないとか、あそこに雑草が残っているとか、いくらでも言える。『書物の航海へ』でも岩波文庫に入っている古典をたくさん使っていて、中にはわかりにくい訳文もありますが、私はそんなに軽々に批判できません。ツールがろくになかった時代にここまでよくやったなという敬意を忘れてはいけないと思っています。
國分 ぼくは、岩波文庫でスピノザの『エチカ』を訳している畠中尚志さんにすごく敬意を持っていますけれど、作物中心主義で、正確な作物が出ればいいじゃないかとなっていくと、敬意や恐れもなくなりますよね。人類がいままで知識を積み上げてきたことはいろんな比喩で語られてきたけど、その敬意の根底には、いまのお話のような具体的経験、翻訳って大変なんだよという実感があった。その実感がなくなりつつある時、敬意というものを改めて再定義しなければならないんじゃないか。いったいわれわれは何に敬意を払ってきたのか、これから何に敬意を払うべきかを考え直さなきゃいけない。AIの挑戦を受け、改めて何を大事にしてきたかと考える、いい時代に入っているとは思います。
間違える/傷つく
石井 AIはいい加減なことを結構してしまうけれども、基本的には間違いを極力排除することに向かって進歩し続けていますよね。でも私は、翻訳書で誤訳を見つけると、ちょっとホッとするんですよね、この人ですら間違えていると。そこに人間の人間たる所以がある。人間の翻訳というのは思考のプロセスを反映しているので、誤訳にもそれなりに意味があり、貴重であるとさえ言える。もちろん、商品としては間違いが少ないほうがいいけれど。
國分 AIを使うのか、人間がやるのかという時、仕事を通じてどれだけ楽しみや満足感を得て、自分が変わっていけるかという点が結局重要になるんじゃないでしょうか。人工生命を研究している池上高志先生がおっしゃっていましたが、AIが実験もやり、論文も書き、査読も行っているらしい。そういう「ゲーム」が始まったいま、主体としての経験はどうなるのか。
石井 AIにできないこと、人間でないとできないことは何かという問いはあちこちで提起されていて、最後は身体性だということになりますよね。私がいつも言うのは、AIは死ねない。死について語れるけど死ねない。愛について語れるけど愛せない。痛みについて語れても痛みは感じない。身体がある人間だからこそできるのは、病むことや傷つくことであり、その究極が死です。つまり死すべき存在としての傷つきやすさ、ヴァルネラビリティこそが、AIにはない人間固有の権利であって、その価値をマイナスからプラスに逆転させてみる必要があるんじゃないかと考えたりします。
一人で読む/誰かと読む
石井 ところで國分さんの博士論文は『スピノザの方法』(みすず書房、2011)という本になっていますよね。そのあとがきに、主査の森山工さんから「國分さんはスピノザを一人で読んでいる」と指摘されて──私は現場にいたのでよく覚えていますが──、一人で読むとはどういうことか、誰かと一緒に読むとはどういうことか、答えはまだ見つかってない、と書いておられました。それから15年、何冊も本を書いて広範な読者を得ておられますが、あの問いに対する答えは見つかったんでしょうか。
國分 端的にお答えすると、わかってないです。依然として、一人で読むってどういうことか、誰かと一緒に読むってどういうことかは。例えば『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店、2013。のち講談社学術文庫、2025)などでは、先ほど名前のあがった互さんと話しながら考えが出てきている。最初から他者への“開け”がありました。
でも、スピノザの時は、ただスピノザのテクストがぼくの前にあって、なぜかぼくはそれに関心を持っていて、納得できる解釈を作りたくて、いろんな参考文献を読んだわけですけど、それで精一杯だったんですよね。生きている人と一緒に考え始めた時と、スピノザの参考文献を読んでいた時とで、何が違うのかは難しい論点です。ただ、読書をして、考えて、論文を書いて、ある程度いくと、ぱあっと他の人に開けていくような時がある。博士論文を書いていた時はそこまでは行ってなかったのかなと。
その後、本を書いている時も、自分の中だけで整合性を取る以上の“開け”が感じられたことはあって、特定の誰かではないけれど、誰かと一緒に考えている、そういう時があったかもしれません。その“開け”がいかなるものであるのかはよくわからなくて、あくまでも主観的な感触に過ぎないのですが。
石井 よくわかります。國分さんの本を拝読していると、自分がわかりたいという情熱がまず基本にあると思うんです。自分がわかりたいから考える、そしてそれを言語化する、するとそれがある時に他者に向けて開けてくる。國分さんの本がなぜ広く読まれるのかというと、その開ける瞬間が読者に訴えてくるからでしょうね。初めから読者に向けて書いているわけじゃない。何かを教えてやろうとか、わかってほしいというところから出発してなくて、とにかく自分がわかりたいから書いているんだけれども、それが最後には他者に開けていく。それが國分さんの本の最大の特徴であり魅力だと、私は前から思っています。
國分 ありがとうございます。ジーンときます。ある意味では、ぼくは無邪気に、これが知りたいというところは大事にしてきたので……。
「コモン・リーダー」
國分 石井先生は、誰かと一緒に読むということをされてきたんですか?
石井 それが、なかなか思い当たらないんですよね……。私はフランス文学をやっていますが、文学研究者というのはたいてい研究対象の固有名詞で自分を紹介するんです。「私はバルザックです」「私はゾラです」と。だからバルザックの専門家の前では軽々にバルザックを語れないという変な縄張り意識があって、下手に口を出そうものなら、これは違う、あれは違うと言われる。まあ、セクショナリズムに毒されているわけですね。だからある問題を共有し、互いに切磋琢磨しながら読むという経験は、残念ながらしてきたという実感がありません。
それでも何とかして読書経験を他者と共有したいという気持ちはあって、この本の「あとがき」にも書いた日本アスペン研究所というところでは、企業の人たちと古典を読んでいます。ビジネスの第一線で活躍している40代から50代前半くらいの人たちと、プラトンやアリストテレスなどを読む。そういう人たち、一般の読者が、何を考えるのかに興味がある。一般読者という言い方はおこがましいですが、ヴァージニア・ウルフが「コモン・リーダー」という言い方をしていて、専門家じゃない、普通の読者の重要性を言っています。
國分 「コモン・リーダー」に関してはドゥルーズも同じようなことを言っています、専門家の読みと非専門家の読みがあると。ベートーヴェンの専門家でなくとも彼の音楽を楽しむ、 本も同じだと。
石井 『書物の航海へ』ではそうした読者を想定しながら、単なる読書案内ではなく、明確な問題意識をもって、人間の普遍的な営みをつないで考えてみたいと思ったのです。
國分 この本は全体が、「驚く/知る/関わる/戦う/愛する/生きる」といったテーマで貫かれています。「驚く」ってテーマから始まるのに驚きますが(笑)、「驚く」だけでこんなにいろんな本を読めるのかとも思います。
ぼくが受けたデリダの授業も似ています。その時は死刑がテーマでしたが、それだけでは死刑論しか論じることができない。そこでデリダは、死刑判決の判決文を読み解いて、ここで問題になっているのは何かと問う。まず年齢。例えば一定の年齢以上でなければ死刑にならない。次は欲望。例えば殺意がなければ殺人は成立しない。そもそも行為とは何かという問題もある。そこから、「年齢とは何か?」(Qu’est-ce qu’un âge?)「欲望とは何か?」(Qu’est-ce qu’un désire?)「行為とは何か?」(Qu’est-ce qu’un acte?)といった問いが導き出され、これらの概念に関わる様々な文献に言及していく。石井先生の本も、6つのテーマからコモン・リーダーの関心にアクセスする導きになっていると思います。
読書会という経験
石井 國分さんは学生時代からかなり読書会を経験してこられましたよね。読書会では1冊の本を共有して、他者と語り合うわけだから、文字通り「誰かと一緒に読む」ことを早い時期から実践してこられた。
國分 読書会は、ぼくにとっては読書そのものと切り離せません。たとえばいきなり一人でプラトンを読むのは難しいと思います。思ったことを素直に語り合える仲間がいて一緒に読む経験というのは、わかりやすくいうと、批判される経験なんです。「國分君のその読みはおかしい」と堂々と言ってもらえる。大人になると他人から生産的な仕方で批判されることはだんだん少なくなっていくので、若い時に批判される経験があったことは、自分の読みを深める経験だったし、自分の読み方をどうしたら伝えられるかも学んだかもしれません。
横につながる「テクスト」
石井 ロラン・バルトは「作品からテクストへ」の中で、テクストが図書館の書架にとどまっていることはありえない、それは複数の作品を貫く横断である、運動であると言っています。詩人の管啓次郎さんも『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2009)の中で、本に「冊」という単位はない、あらゆる本はページからページへとつながっていて、連結されては離れることを繰り返している、という意味のことを言っています。われわれは、何冊読んだ、すごい、と量を競いがちだけど、それは本当の読書ではなくて、いろんな書物を貫いているテーマや、言葉の切れ端がつながっていく、横断していく運動を感じることが、読書の意味なんじゃないか。
國分 私は最初に石井先生にこの本が言及しているのは何冊ですかって聞いてしまいましたね(笑)。大人になるとそういうことを気にしちゃうんですが、横につながっていくのを感じ取れるようになったら、本当に読書できている証拠ではないでしょうか。本を読んであることを知ると、人間は連想するのが普通です。すごくラフに言うと、連想というのはフロイトが『夢判断』で言った一次過程に似ていて、それは「フトンがフットンだ」みたいな話ですね。大人になるというのは、ある意味でそういう馬鹿馬鹿しい連想を封じ込められるようになることかもしれません。しかし、連想には創造的な側面もあるのであって、テクストがつながっていくという現象の根幹にはそんな連想があるようにも思います。
石井 テクストは河の流れみたいなもので、その流れに乗ってどこまでいけるかが重要ですよね。完結した本を1冊読むのも大事だけれど、そこから他の本へと読みの糸を縫い合わせていくことのほうがもっと大事だと思う。まあ、読んだことはたいていすぐに忘れてしまうんですけれど。これも管啓次郎さんが書かれていますが、渡辺一夫先生がある本を読み始めたら、途中でラテン語の引用があって、自分の筆跡でフランス語に訳してある、そこで前に読んだことがあると初めて気がついた、博覧強記の渡辺一夫先生でさえそうだと。だから本を1冊、最後まで読んで理解したとか、書いてあることを覚えているとか、そういう読み方はあんまり意味がないと思います。
わからないことはいけないことか
國分 本を読んでいる時、わからないところがあるといけないという誤解もあるみたいですよね。ぼくがドゥルーズを読んでいる時にわからないところがないと思うんですか、わからなかったら飛ばせばいいでしょうと思うんですけれど、実はこれが、読書から人を遠ざける強い強迫観念になっているみたいです。
石井 それはセミナーでも感じます。古典だから大事なことが書いてあるに違いないと思って、つい身構えてしまうんですね。それを理解しなきゃいけない、でもアリストテレスなんか読んでもわからない、いったい何が書いてあるんでしょうかと。わからないことはいけないことだと思い込んでいる人が多いけれど、わからないのは当たり前ですよ。一度でわかるくらいだったら本なんか読まなくてもいい。わからないからこそまた読むこともできるのであって、再読の意味はそこにある。読書とは1冊の書物を読んで完全に理解することだという思い込みからは解き放たれなければいけない。
國分 最近聞いた話で、本屋さんに行くと本がずらっと並んでいて怖いと感じる人もいるらしいです。根幹にあるのは、全部、最後まで読んでわからなければいけないというプレッシャーではないでしょうか。
石井 いまはAIが要約してくれるので、だいたいの内容がつかめればいい、という人も増えつつあるのではないでしょうか。確かにあまり細部にこだわらずに読み飛ばすことも必要だと思うけれど、その反面、一語一語にこだわって、最後までは読めなくても、とにかくじっくり読み込むのもまた大事。両方ですよね。
國分 要約できるような本だったら、はじめから要約を出せばいいので。
石井 なぜ、それだけのページを使ってあるのかが大事で、プルーストなんか要約してあらすじだけにしてしまったら、なんということはない。
國分 全体は全体として必要で、それを経験しないでいいのか、ですね。
ネガティヴ・ケイパビリティ
國分 本とテクストと情報があって、本もテクストも情報に還元できるという考え方がありますが、情報だけで何かを経験したと言えるのか。昔、東浩紀さんが言っていたんですけど、情報では人は変わらない。情報は、その時々に快不快は与えるけれど、人の欲望を変えることはできない。本を読むことが主体の経験、欲望そのものと関わるのだとしたら、本はやはり情報に還元できないということではないでしょうか。その意味で、傷つきやすさの次元──私ならスピノザ的に身体って言いますけれども──は読書の経験においてもあるんじゃないか。本を読んで、こんなこと考えてこなかった、知らなかったと思うのは、傷を受けているともいえるのではないでしょうか。
石井 そう、だからAIは本当の意味では本を読めないと私は思うんです。書物を読むという行為は、傷つきやすい人間だからできる。
國分 でも、それはいまなかなかわかってもらえなくなってきていて、情報やデータをたくさん持っていることと、プルーストを読んだあなたの状態とは何が違うんですかと聞かれた時に、うまく答えられるかどうか。説得的に答えなきゃと頑張っていますが……。
石井 最近よく耳にするネガティヴ・ケイパビリティという言葉につなげて言えば、書いてあることを情報として理解するのはポジティヴ・ケイパビリティで、これもわかった、あれもわかった、じゃあ次にこれを読んでわかろう、となる。そうじゃなくて、「わからなさ」の中にとどまる、ネガティヴな状態にとどまる。私の本ではそれをデジタル思考とアナログ思考に喩えています。デジタルは原則として二進法の世界だから、0か1かで「あいだ」がない。その「あいだ」にとどまりながら時間をかけて埋めていくアナログ的な作業が思考の本質だということですね。これはまさにネガティヴ・ケイパビリティそのものです。本を読むという経験もまさにそうで、わからない、読めない、そういう曖昧さの中に粘り強くとどまる時間が大事で、何かをつかみ出して要約して、効率的に処理していくのは情報の世界の話、読書とは無縁の行為だと思います。
私の本の最後に引いたバルトが言っているのも、自分がこれまで学んだことを全部忘れて、白紙に戻る、それこそが叡智だということです。情報で埋まっている頭をいったん空にして、新たな生の経験に直面する。バルトといえば、國分さんは『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011。のち新潮文庫、2021)について、彼の著作が最初のきっかけだったと語っておられますよね。
國分 私は実はロラン・バルトが大好きで、『暇と退屈の倫理学』の最初の発想もバルトからもらったと思っています。『彼自身によるロラン・バルト』でも、「アンニュイ、円卓会議」というキャプションがついた、バルトが実に退屈そうな顔をしている写真がありますね(笑)。バルトにとって暇や退屈は重要な論点だったんだろうと思うんです。
石井 バルトって徹底的にネガティヴ・ケイパビリティの人ですよね。「あいだ」にとどまりながら、「中間」でたゆたいながら、どこにも定着しないで、結論を出さずに、その持続する時間の中で、思考をひたすら深めていく。
疼きと傷
石井 読書というといつも思い出す言葉があります。カフカがまだ学生だった20歳の時、高校時代の友人に宛てた手紙の中の言葉です。
「ぼくは、およそぼく自身を咬んだり刺したりするような本だけを読むべきではないかと思っている。ぼくたちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えてぼくたちを目覚めさせることができないとしたら、それではなんのためにぼくたちは本を読むのか?〔……〕ぼくたちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。〔……〕本は、ぼくたちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない」(オスカー・ポラック宛書簡、1904年1月27日、『夢・アフォリズム・詩』吉田仙太郎編訳、平凡社ライブラリー、1996)。
國分 『暇と退屈の倫理学』増補版の「あとがき」で書いたことなんですけれど、人間は本性を持っているにも拘わらずそれだけで人間の行動を説明できないのは、人間が生まれると必ず様々な傷を受けるからではないか。なぜ、ルソーの「自然人」のように気ままに、共同体も作らずにぶらぶらと生きられないのか。もし何の傷も受けていないツルツルの人間がいたら、ルソーの自然人みたいに生きるかもしれないけど、現実的にはありえない。ヒューマンネイチャー(人間の本性)ではなくヒューマンフェイト(人間の運命)として、必ず傷を受ける。私は人が何らかのショックや刺激を求めてしまうことの根幹には、生まれ出た人間が必ず受ける傷、しかもその人なりの仕方で受ける無数の傷があると思っているんです。その傷が痛むと、もっと強い傷を求めるのかもしれない。同じような傷をもつ人を求めるかもしれない。そうとは知らずに傷への説明を求めてしまうかもしれない。カフカの言う頭蓋の上から殴られるような強い衝撃をなぜ人が求めるのかと言えば、それがなければ生きていけない人間がいるからであり、その人なりの傷があるからではないか。これは『暇と退屈の倫理学』の冒頭で言及したパスカルの話、「人間は部屋でじっとしていられたら幸せなのに、わざわざ戦争に行ったりする」という話や、現代の科学でしばしば論じられる「ダークルーム・プロブレム」(刺激がない状態が最も望ましいのならば、なぜ人は暗い部屋に閉じこもっていないのか)への説明にもなるのではと思っています。とはいえ、自分の抱える傷と一緒に生きていくための術が、戦争じゃなくて、本から得られたらいいなと思いますね。
石井 自分の読書経験を振り返ると、どこかに疼きのように残っている本があって、トゲのように刺さっている。今回扱った本にもそういうものがあり、何十年ぶりかに読み返してみると、その疼きの因って来るところが少しわかったような気がしました。傷や疼きを与えてくれるから本を読むのであって、本を読んで、人格高潔に、丸く仕上がっていくことが目的なのではない。
國分 最初にちょっとでも立派になりたいなどと言ってしまったんですが、それにしても、ぼくの傷が学びによって埋められ、癒やされることを願っているんだと思います。
石井 立派になりたいというのはそれ自体立派なことで、丸く仕上がりたいとはまったく別のことだと思いますよ。
國分 人間が自らの傷に基づいていろんなものを欲求するその先に、知識もあるのではないでしょうか。ドゥルーズが言っているんですが、或るアイデアにこの人は反応するのに、あの人は反応しないというのは実に不思議なことです。でも、知識への欲求は、もしかしたら、その人の負っている無数の傷と切り離せないのかもしれない。
なぜ自分が或るアイデアや或る作家に反応するのかは自分でもわからないと思うんですが、それでも敢えてお伺いすると、石井先生はロートレアモンの研究から出発されているわけですが、それはどういう経緯だったのでしょうか。フランス文学の作家は山ほどいるわけですが、その中でなぜああいう作家に……。
石井 私は法学部なんか出ているので、「なぜロートレアモン?」という質問は何度も受けましたが、たぶん、たまたま出会った彼の作品に、それこそ咬まれちゃった、刺されちゃったんでしょうね。自分の内部の凍結した海を砕く斧に、頭をガツンと殴られたのかな。
國分 やはりそのようにしか説明できませんよね。読書というのはなぜこの作家やアイデアに自分はガツンと殴られてしまうのかを探っていく営みでもあるかもしれませんね。
(2026年4月10日、岩波書店にて)
(いしい ようじろう・フランス文学、思想)
(こくぶん こういちろう・哲学)




