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思想の言葉:パーソンとアクションの区別と広がり 一ノ瀬正樹【『思想』2026年6月号】

◇目次◇

思想の言葉 一ノ瀬正樹

見えない声
渡邊二郎

ニヒリズムをいかに耐え抜くか
──渡邊二郎「見えない声」解題
森 一郎

〈肉の倫理〉について
雑賀恵子

ドゥルーズとキルケゴール
──第1回 反復,情熱,永遠
檜垣立哉

アフリカ文学が紡ぐ「いま」
──第4回 夢見るアフリカ:アフリカ文学のSF的展開
粟飯原文子

概念史,認識論的歴史,日本の近代化
──世界の近代化と前近代世界の概念体系(6):近代日本における(見えない)「宗教」概念(上) 「心」の創出と「恋愛」
彌永信美

20世紀の女性と思想史
──第2部:活動家,研究者,そして未来(前編)
ソフィー・スミス/宇都宮 有+上村 剛訳

 
◇思想の言葉◇

パーソンとアクションの区別と広がり

一ノ瀬正樹

同質性と特定化

 「デカンショ」という言葉を大学入学後に聞いた。たぶん、もともとはお囃しの掛け声だと思われるが、大学では「デカルト、カント、ショーペンハウアー」の三人の哲学者を組み合わせた言葉として使われることがあり、大学生たる者、まして哲学を志す者、この三人の哲学書ぐらいきちんと読んでおかなければならない、というややスノビッシュに響く意味の表現として流通していた。二十歳前後の頃の私も、お恥ずかしながら、「デカンショ」を真に受けて、三人の哲学者に触れてみようとした。三人とも歴史上の著名な哲学者だが、いまの感覚だと、ショーペンハウアーはややマニアックな感じがする。けれども、私には彼が一番取っつきやすく、(目一杯背伸びして)ドイツ語原書を片手に、日本語訳でショーペンハウアーの処女作『根拠律の四つの根について』という本を読もうとしたものである。もちろん、途中で挫折した。けれども、まったくその試みが無駄になったわけではない。とくに冒頭の方法論の提示がいまでも鮮明に思い出される。哲学の議論には「同質性」(Homogeneität)と「特定化」(Specifikation)という両方の方向からの考察が必要で、片方だけでは不十分だ、というのである(Schopenhauer 1977, S. 13)。

 ショーペンハウアー自身は、とくに「特定化」、つまりは「分析」の方法に焦点を合わせて「根拠」の概念を区分けしていく。たしかに、「分析」というのは学問の手法そのものと言ってもよく、自然科学の研究はまさしくそうした分析を行っている。かつて「原子」(atom、「分けられない」の意)が物質の最小単位と考えられていたが、いまではその内部の「クォーク」や「レプトン」まで分析が進み、それらが素粒子とされる。また、言語哲学的な領域でも、対象言語/メタ言語、構文論/意味論/語用論、de re/de dicto、などなどの特定化・細分化によって大いに議論は深化した。むろん、他方で、「同質性」の手法も、たとえば生物に関する分類学などでは学問的手法として機能している。

 では、私たち人間についてはどうだろうか。現在私たちはそれぞれが「個人」(individual、「区分できない」の意)とされ、それが尊厳を有する人権の主体という究極の単位と見なされる。個人とは、現生人類とか何々民族などといった把握に特定化・分析を適用していった最小の単位であろう。実際、私たちの身体を二つに切ったとしても、二人の個人にはならない。ただ、私は、こうした個人概念と微妙に交差しつつも、あえて翻って、人類とか民族といったまとめ方とは異なる方向から、同質性の手法を適用することができると考えている。いや、むしろそうした方向性が有意義な視点をもたらしてくれると考えている。

声主としてのパーソン

 それは、私たちを「パーソン」(person)と捉える見方である。パーソンとは何か。人格、人物などと訳され、なんとなしに個人概念とかぶるように捉えられることが多い言葉だが、もとをたどると個人概念とはまったく別口の概念であることが分かる。“person”がラテン語の「ペルソナ」(persona)に由来することはよく知られている。しかし、あるラテン語辞典によると(Lewis and Short 1879, p. 1355)、「ペルソナ」は「ペルソノー」(persono)という動詞(原形はpersonare)に由来すると記されている。「ペルソノー」とは「音(声)を出す、反響させる、呼びかける」といった意味である。「ソヌス」(sonus)が「音」を意味し、それに前置詞の「ペル」(何々を通じて)が付いた語なのでそうなる。では、もし「ペルソナ」が「ペルソノー」に由来するという説を受け入れ、そして「パーソン」という語が「ペルソナ」の意義を継承しているとするならば、「パーソン」をどのように捉え返すべきなのだろうか。つとに私が展開してきた議論、それは「パーソン」を「声を出す主体」すなわち「声主」と解する捉え方である。

 実は後になって驚くべきことに気づいたのだが、「パーソン」を「声主」とする捉え方は、「パーソン」という語の近代的・現代的用法に見事に合致してしまうのである。まず、「パーソン」はカントに見られるように、(たぶん「個人」概念とのなんとなしの重ね合わせのもと)「自由な責任主体」として捉えられてきた(カント2002、三九頁)。そして、「自由」とは言うまでもなく人権概念の核である。では、人権はどのように確立されてくるのか。今日的な遺伝情報についての「知らないでいる権利」を顧みれば分かるように、人権は私たちが訴えることによって確立され、私たちの不断の努力によって維持される。「権利は要求を前提にしてはじめて権利として観念されうる」(高柳1968、一一頁。『日本国憲法』第一二条も参照)。そして言うまでもなく、訴えや要求は声を出して行われるしかない。また、「責任」(responsibility)は字義通り応答当為性であり、「応答しなければならない」の意である。応答が声を出すことに直結するのは自明であろう。かくしてつまり、「パーソン」は実態的にも「声主」でなければならないのである。その上、今日の西洋語圏では「パーソン」はしばしば人間以外の動物にも適用されることがある。だとすればなおさら、「人格」といった限定的な理解ではなく、より広い含意を有する「声主」の方が妥当であろう。

 そして、このように声主としてパーソンを捉えると、パーソンは個人概念を超えていく。反響させる、呼びかける、という意義を内包する限り、それは他者を含意する。呼びかける対象がなければ、そもそも声主として成立しない。少し拡大解釈すれば、パーソンすなわち声主は、それとしての個別性を持つと同時に他者の存在性をも混合させた、そういう主体概念なのである。実際私たちは遺伝子を介して先祖と混じり合っているし、呼吸を介して他者と物質的に混じり合っているとさえ言える(コロナ時代に話題となった呼気の飛沫を想起してほしい)。呼吸や食事を通じて人間以外の他者(物質)とも混じり合っている。あえて比喩的に言えば、パーソン=声主とは、温泉が湧いて泡がぶくぶく出来ているときの、その泡のようなもので、「この」泡、というゆるい個体化は不可能ではないけれど、実際は周りの泡や温水と混じり合っている、あるいは連続している。つまり、パーソン=声主は、個体性という区分をゆるく含みつつも、全体へと広がってゆく、そういう主体概念なのである。

アクションの因果的広がり

 こうしたパーソン=声主概念は、声を出すという動的事態を本質としている以上、論理的に、いわば行為すなわちアクション(action)の主体でもあることになる。注記したいのは、ここで私は、声を出すとか呼びかけるという事態を字義通りの現象に限定せず、身体動作に伴う音現象をも含む、シンボリックな表象として解したいという点である。たとえば、何も語らず、空を見上げて深呼吸する(実際なんらかの音を発生させている)、というのも声主のありようとして把握したいのである。その上で言えば、パーソン=声主のありようは、反響させるとか呼びかけるという内実を包含する限り、アクションの結果の予期をも内包していると捉えられる。反響させたり、呼びかけたりというのは、声を出しただけで完遂されるものではなく、相手に届くことに至らなければそれとして真には完結しないはずだからである。ちなみに言えば、アクションの語源をなす「アクチオ」(actio)には「訴える、訴訟する」という意味が、そしてその変異形である「アクトゥス」(actus)には「口頭発表」(oral delivery)の意義が含まれている(Lewis and Short, 1879, p. 25)。訴訟も口頭発表も、声を出すことを絶対の必要条件とする。そういう意味では、もともとからしてパーソンとアクションは親近的な概念なのではなかろうか。

 ともあれ、こうした確認によって、パーソン=声主のもう一つの様態があぶり出されてくる。すでに述べたように、パーソン=声主とは、他者とゆるやかに区別される(特定化)ものでありつつ同時に他者と連続的に結びついていく(同質性)あり方なのだが、それだけでなく、いま確認したように、アクション主体として時間経過の中での因果的系列をなす現象としても把捉されることになる。声を出したり呼びかけたりする一つのアクションとしておおまかに特定化されつつも、それの結果をも内包させることで時間的に広がっていき、そうした広がりとの同質性を取り込んでいく。これはしかし、実は日常的にも実感されることなのではなかろうか。

 たとえば、個人的なことになるが、私の恩師黒田亘先生の「知識はひとに宿る」という宣言(黒田1983、三頁)は、私の議論をいまでも駆動してくれているアクションであり、今後の多様な展開可能性をも導いてくれるであろう道標である。黒田先生のこのアクションは、そういう意味で未だ完結しておらず、広がり続けている。また、パーソン=声主の捉え方は、もう一人の恩師坂部恵先生の議論に大きなヒントを得ている。坂部先生は、「仮面」(つまりペルソナ)には「他人にのろいをあびせる」という意義があるとする説に言及し、「のろう」とは「邪霊やもののけをはらい、カオスを追放して、あらたな「のり」(法)を宣り、告げ知らせ、コスモスをあらたに建て直すという意味をもっていた」と記し、その上でまさしくペルソナとラテン語の「ペルソナーレ」との関わりに言及している(坂部2009、八一頁)。この坂部先生のアクションが私の議論に重大な影響を結果としてもたらしていることは明白である。おそれながら、私のパーソン=声主はお二人の先生方のパーソン=声主となにがしか混ざり合い、(ほんの一部分的ではあるが)同質性を持つに至っていると、私は願望を込めてそう述べてみたい。

 以上、パーソンとアクションをめぐって、そしてショーペンハウアーの方法論に即して、特定化(区別)の向こうに開かれた同質性(広がり)について多少の検討をしてみた。論ずべきことは尽きない。さらに考えていきたい。

 

参考文献

カント、イマヌエル2002.「人倫の形而上学」『カント全集』第一一巻、樽井正義・池尾恭一訳、岩波書店。

黒田亘1983.『知識と行為』東京大学出版会。

Lewis and Short. 1879. A Latin Dictionary: Lewis and Short. Oxford at The Clarendon Press.

坂部恵2009.『仮面の解釈学 新装版』東京大学出版会。

Schopenhauer, A. 1977. Über die vierfache Wurzel des Satzes vom zureichenden Grunde. Diogenes Verlag.(邦訳:ショーペンハウアー、アルトゥール1972.「根拠律の四つの根について」『ショーペンハウアー全集』第一巻、生松敬三訳、白水社。)

高柳信一1968.「近代国家における基本的人権」『基本的人権1 総論』東京大学出版会。

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