web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

宮崎治 結婚祝い[『図書』2026年6月号より]

結婚祝い

 

 私が妻と結婚したとき、伯母は私たち二人に結婚祝いとして一冊のアルバムをプレゼントしてくれた。実は2つ年上の兄が結婚したときも、同じように伯母からアルバムを貰っていたのだが、そこには自分の生誕から結婚までのスナップ写真が貼ってあり、その時々の様子や感想を伯母が簡潔に書き込んでいる。

 これは伯母の視点から見た甥の成長物語であり、そういう素敵な贈り物が用意されていたことを全く知らなかったので、このアルバムを貰ったときは感無量だった。

宮崎治 結婚祝い

 もっともそれを貰った当時は自身の結婚式、新婚旅行、世帯を持つという人生の一大事の真っ最中であり、また医師としての修行も始まったばかりであったため、アルバムをじっくり味わう余裕はなかった。その後、折に触れそのアルバムを開いては、そこに記された伯母の手書きのコメントをしみじみと眺めている。

 アルバムは藍染の手漉き和紙で装飾された化粧箱に入っているが、中身と微妙にサイズがあっておらず、多分この箱も伯母自身が和紙を貼って作った手製のケースなのだと思う。

 子供がいなかった伯母は弟の子である我々二人の甥っ子をかわいがってくれた。また自分たち兄弟にとって伯母は現代詩の長女と称される「詩人・茨木のり子」ではなく、遠く離れた都会に住んでいる優しい三浦のり子伯母さんであった。

 自分が生まれたのは1964(昭和39)年2月23日であり、その日からこのアルバムは始まる。

 1964年といえば戦後の混乱を乗り越え、東京オリンピックが開催された年である。また東海道新幹線が開通し、テレビが普及するなど敗戦国から先進国へと変換が始まった高度経済成長期の真っただ中で、ビートルズが『抱きしめたい』で世界を制覇した年でもある。Chat GPT に尋ねたら1964年は「日本が“先進国として世界デビューした年”」だと答えが返ってきた。

 アルバムの1ページ目には、おくるみに包まれ、父に抱かれた自分の白黒写真が貼られ、その下に伯母の手書きの記載がある。

 

 一九六四年(昭和三十九年)二月二十三日 誕生

 二十三日は日曜日でした。

 吉田のおばあちゃまから電話で、治君の誕生を知りました。

 ママも元気、治ちゃんも男の子と知って、大喜びしました。

 なんとなく「女の子ではないか?」と皆が思っていて

 パパなど「礼」という名前を用意していました。

 でも、のり子伯母さんは男の子のほうがいいと願っていました。

 東京にいたのですぐには會ってませんでしたが

 とてもうれしく思ったものです。

 おじいちゃまが亡くなってすぐ、ママのお腹に入ったので、

 皆がおじいちゃまの生まれ変わりかもしれないと言いました。

 おじいちゃまの生まれ変わりなら大したものです。

 名前はパパのとても愛していた作家「太宰 治」にちなんで、治とつけられました。

 宮崎 治、とてもいい名前です。

 のり子伯母さんも大変気に入りました。

 

 伯母は当時、こまめに日記も書いており、3年連用日記の自分の生まれた日付の日記を見ると、そちらには「マメチクワ 二ツナランデ コイノボリ」 と祝電を打ったと書き留めてあり可笑しかった。ふたり目の甥っ子の生誕をこいのぼりに見立てて“豆ちくわ 二つ並んで こいのぼり”と詠んだ伯母の感性は、なかなか素晴らしいと思う。

 こいのぼりといえば、自分の幼小時、愛知の実家には、庭に国旗掲揚塔というか、ポールがあり、5月にはこいのぼり、祝日には“旗日”といって国旗を揚げていた。

 アルバムの4ページ目を見ると、“一九六四年 十月十一日 オリンピック開会式”と書かれており、オリンピックスタジアムで日本選手団が紅白のスーツを着て行進しているカラー写真が掲載されている。きっとどこかのグラフ誌から切り取ったものであろう。その横にはこんな伯母のコメントが書かれていた。

 

 オリンピックの朝は

 すばらしい秋晴れ。

 東洋で初めての

 オリンピック。

 国中が沸き立ち

 ました。

 パパの発案で

 家族揃って

 国旗をあげたところ。

 

 というコメントと一緒に、実家の庭の高いポールに国旗を揚げ、家族揃って国旗の下で記念撮影をした写真が貼ってある。おそらく現在でも地方に行けば、まだ一般家庭の庭に国旗掲揚塔が残っているかもしれないが、お正月の門松や、庭での焚火などと同様、消えゆく昭和の住宅文化を象徴するスナップ写真である。

 アルバムには幼少期の白黒写真が多く貼られているが、自分が好きな写真は、ビールの空箱の中に入り、ちょこんとあどけない顔を出しているものである。父が撮影したものらしいが、これがまた何とも昭和な感じを醸し出している。伯母の字で“パパの傑作!”と感想が記されている。

 

 自分が初めて上京し、東京見物をした時の様子も記録に残っている。

 

 治ちゃんの初上京。

 一九六九年三月

 仁・小学校二年生

 治・幼稚園 きな組

 おばあちゃんに連れられて。

 疲れもみせず 歩きまわり

 大よろこびでした。

 

 初上京で訪れたのは東京タワー、羽田空港、霞が関ビルディング。それらのスナップ写真と一緒に、入場券も貼られている。

 少年時代、我が家の家族旅行には伯母が同行する機会が多かった。父は開業医のため医院を長期間閉じるわけにはいかず、家族旅行には自分と祖母、母、兄、伯母の五名で出かけることが多かった。志摩、京都、箱根、横浜、鎌倉、神戸など様々なところへ旅をした。また1970年の大阪万国博覧会にもみんなで出かけたが、残念ながらその時の写真はこのアルバムには残っていない。

 中学、高校時代も春休みなど部活動の少ないタイミングで伯母の家を訪ねたが、アルバムの後半のハイライトは浪人生時代の終盤である。私は1年浪人した後、東京の大学を受験するため、受験生として伯母宅に宿泊した。もちろん本命の大学の受験前夜は遅刻しないように新宿のホテルに宿泊したが、その後、記念受験や合格発表を見るためにしばらく伯母宅に逗留させてもらった。あの頃は電子メールやインターネットどころか、携帯電話すらなかったので大学の校舎の掲示板まで見に行かなければ合否はわからなかった。

 この時の四枚の写真がストーリー仕立てになっていて微笑ましい。

 1983年2月3日、入学試験の前日に上京したスナップから始まり、2枚目の写真は入学試験の終わったその夜、伯母の家で晩ごはんをご馳走になっているスナップで“受験終了後、不安げ”とコメントあり。そして3枚目は“二月十九日 大学合格の知らせ 一世一代の破顔大笑”、最後は“友人に電話をかけまくるの図”とコメントが書かれ、伯母宅の黒電話を笑顔で握りしめている。大学受験が終わった解放感が伝わってくる。

 アルバムの最後のページは教会で行われた我々の婚約式の写真と、妻がフィアンセとして初めて実家を訪れた夏のスナップで終わる。伯母は双方の両親と一緒に婚約式に出席してくれた。以下の最後のコメントで、このアルバムは締めくくられている。

 

 ついに結ばれたひと 薫さん

 一路平安!

 

 このアルバムのことをいつかどこかで文章にしたいと思っていたが、これだけの文字数とスペースを提供されたことはこれまでなかった。

 ビールの段ボール箱にちょこんと入り、おそるおそる外の様子を窺っていた幼子は、いまや還暦を過ぎ、62歳になってしまった。

宮崎治 結婚祝い 02

 1964年から60年以上が過ぎ、白黒写真はカラー写真に、カメラはアナログからデジタルに変わり、携帯電話に高性能のカメラが装備されると、もうデジタルカメラさえも持たない時代となった。写真屋さんにフィルムを持っていき現像することもなくなって久しい。

 以前はどの家庭にもファミリーアルバムがあったし、我が家の平成生まれの子供たちのアルバムもある。もちろん今でも写真をプリントしてアルバムも作れるのだが、みんなどうしているのだろう? 私事ながら今年我が家には初孫が生まれるのだが、もうファミリーアルバムという概念も淘汰されるのだろう。それはそれで寂しいものである。自分や家族の歴史を、手に持った時の重さで感じるリアリティは暖かく心地よいものだ。

 自分の幼少期のニックネームは“ちゃむ”であった。それは幼いがゆえに“おさむ”と正確に発音できず、自分の名前を舌足らずにおちゃむと発音していたことに起因するのだが、幼少期は家族、親戚、診療所の看護婦さん、家事手伝いのおばさんなど、みんなから、ちゃむ、ちゃむちゃんと呼ばれていた。自分が大学生になり、20歳を過ぎた後も、伯母から時々“ちゃむちゃん”と呼ばれ、なんだか、くすぐったく、照れ臭かったのを覚えている。伯母にしてみれば小さな甥っ子は何歳になっても、ちゃむちゃんだったのだろう。

 この結婚祝いを開くと、伯母が自分ことを“ちゃむちゃん”と呼びかける声が、遠い記憶の彼方からぼんやりと聞こえてくる。

(みやざき おさむ・医師)


『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)
  2. 岩波書店 ポッドキャスト ほんのタネ

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

新村 出 編

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる