第10回 壊れた心で壊れる世界を彷徨う宿命〈金 範俊/Moment Joon 外人放浪記〉
今まで知っていた世界が、少しずつ燃え始め、倒れていく最近。まるで山火事のようだ。
私はグローバリゼーションの赤子だ。自分が「移民」なのか「外人」なのかは置いておいて、「国境を越えて違う場所に移っても人生を作っていける」という考えが通用していた時代の末に、海を渡ってきた者。その世界は終わりかけている。その世界が持っていた偽善も問題も、その世界が抱いていた可能性も、共に燃えている。戦争と紛争、崩壊していく自由貿易、ナショナリズムと反グローバリズム、世界各地で広まる「自国ファースト」のムード。完全に消え去るのはまだ早いとしても、「物・人・考えが自由に行き来する世界」の歴史的な必然性は薄くなり、世界は各々のブロックに引き裂かれ、私はその合間に挟まれた異邦人なのだ。
オバマ時代のリベラルたち、民主党政権、SNS、中国共産党、安倍、自分。「誰のせいなのか」を探すのに執着しても時間の無駄だ。私は、俺は、結局主権者としてこの世の中を生きていないんだから。入管と役所など行政の書類の中のデータとして、生き残る方法を探るだけ。客体として、行政によって定義される俺は、根本的に「普通の人たち」とは違う。その「普通の人たち」から愛や同情をもらうことも、その課程で生じる相手や自分の偽善を暴くことでお金を稼ぐ機会も多くあった。けれど、これら全ては小さな井戸の中の出来事に過ぎない。井戸の水自体が枯れてきているのだ。
もし世界の激変で地面が激しく揺れていないとしたら、これまでのように目的地を持って歩けただろうか。「ラップ」と「音楽への夢」というコンパスを手に持って、今までは歩いてきた。コンパスは時々行きたくない方向を指すこともあったが、それでもそれに頼って何とかここまでは来れた。具体的な「場所」は分からないけど、大体の「方向」は分かっていたと思った。しかし、そのコンパスの磁気は日々弱くなっている。歳によって自分の感覚が変わったからなのか、ジャンルというものが崩壊したからなのか、配信プラットフォームによって「音楽」の定義自体が変わっているからなのか分からないけど、いくら磁石の針を眺めても、矢印はぐるぐる回るだけ。過去の記憶に頼って「こっちかも」と力弱くひとりつぶやくぐらいしかできない。
コンパスに頼るのが難しそうなら、自分の欲望を信じてみるのもありだろう。しかし、その欲望も大したものではない。楽しいこと、やりたいことなんて特に思い浮かばない。ポテチを食べるのは美味しいからではない。いっぱい食った後の不快感と、血圧の上昇による眠気を呼び起こすためなのだ。性欲も、物欲も、食欲も、今まで満たしていた以上のレベルのことをわざわざ経験してみる理由が見つからない。
あえて欲望するものがあるとしたら、死だ。誰かに会う時には人間らしい姿でちゃんと挨拶もして、仕事もして何かを任されたりもするのに、家に帰ってきては自分のほっぺをこぶしでよく殴る。自分の価値の無さを、痛みを通してあえて物理化する。しかし、死への欲望も大したものではないのだろう、まだ生きているんだから。持続可能な自傷による苦しみと、死の暗示ぐらいで、自分は満足できるのだろう。
これらの欲望とは別の次元で、エゴは元気に働いている。「アーティスト」と名乗っている以上、エゴは全てをやる原点であり武器だ。去年、欲望は旺盛なのにエゴはないアーティストに会った。ダサかった。ああなってはならないと思った。始まりでありながらゴールであるエゴのために、テイスト・スキル・感受性・主題意識を磨く。まだアーティストだと名乗れる。
しかし、エゴは全ての悪の種。お釈迦さまだけではない。「傲慢」はキリスト教であげられる七つの大罪の中で最も大きな罪。イエスは「自分」を捨てて涅槃に至ろうとまでは言っていないものの、「自身の声」より「神様の声」を先に聞いて生きろと言っている。エゴの虚しさに耐えきれなくて、日曜日には教会の長椅子に座って神様に祈るが、まだ俺の祈りは「私のエゴではなく主の声に従って生きられるよう導いてください」にはなり切れず、「それでも私が選んだこの道が私のエゴだけではなく、他人や神様のためにも使われる方法を見せてください」と妥協、折衷に終わっている。
だってこれを捨ててしまったら、俺は何を食って生きろと言うのだ。去年、初めて音楽で100万円の案件が取れた。博士号も取れず満期退学した俺が、京都精華大学で講義を担当できたのも、自分のしょぼい研究よりもエゴで築いてきたアーティストとしてのキャリアがあったから可能だったのだ。エゴの実現を目標に築いてきた人生は、同時にエゴなしでは維持できないウロボロスになっている。
捨てない。捨てられない。入管からの帰り道の電車の中で、新しい在留カードに俺は囁いた。他人が成し遂げて手に入れているものに比べれば、限りなく小さくて軽い埃みたいな自分の持ち物。「それでもこれが自分の人生なんだから、肯定して誇りを持ちましょう」という欺瞞。「いや、きっと人の役にも立っているよ」という論点のすり替え。「食っていくためだ。人に害を与えてる訳でもないだろう」という経済論理。
壊れていく世界、道を示すことができないコンパス、中途半端な欲望、ウロボロスのエゴ、経済論理。これら全てがうまく機能していた頃に、隠すことができていたのは、俺という人間の本質、「人が嫌い」。嫌いでしょうがない。男女老幼。たとえ相手が生まれたばかりの可愛らしい赤ちゃんだとしても、十分な時間さえ与えられれば、いずれその人を嫌う理由が俺のまぶたの裏に浮かんでくる。神の愛ではない、我ら人間が手にできる「愛」とは、所詮「人を利用するための貨幣」であると、心のどこかで感じている。「人を手段として使ってはいけない」という命題を理解してその通りに生きようとしても、他人をもっと長く、うまく利用するためにそうしているのか、本当に心から人を愛しているのか、分からない。
彼女は愛している。しかし、それが愛情であれ愛着であれ、現実的な支援であれ心理的な支えであれ、自分の愛は彼女から何かを求めずには成立しない所で、自分の愛の真正性を見出すことができない。「だから人って子供を産むんだろうな」と、取り返しのつかない絆を作る人たちの気持ちも理解できるが、そんなことをしちまうぐらいなら、俺は先に自分のちんこを切り落とす。
それすら信じられないとしたら、残るのは利害関係と、猫のような憐れみやすい生き物への愛情ぐらいだ。欲望とも呼べない、ドーパミン供給装置に過ぎない、猫やワンちゃんのショート動画視聴。それが終わったら、エゴを使って/エゴのために築いてきた自分の仕事に向かうルーティン。日曜日には教会に行って、そのルーティンに何かの意味を見出そうとする、そこまでがルーティン。何のために? ここで生きるためだ。地元だと、自分のフッド(Hood)だと宣伝しまくった井口堂に住み続けるためだ。自分は「外人」ではなく「移民」だと名乗って「誰かのためになりたい」と言い続けるためだ。そしてそれはポテチを買うためのお金になる。循環論理とルーティン。彷徨いと気づき。異邦人と地元。
疲れた。「意味」に疲れた。「理解」に疲れた。「愛」に疲れた。「不安」に疲れた。「存在」に疲れた。疲れたからって、特に何かできることがある訳でもない。できるとしたら、自分の態度を変えて、歩幅を変えるくらいだろう。俺は大義ではなく、エゴによって動くということを人に素直に打ち明けること。俺と人を繋ぐのは「愛」ではなく、利害関係なのだということを、より明らかにすること。俺にこの土地が理解できるという希望を捨てて、また人に分かってもらえるという期待を捨てること。もし誰かが俺のことを理解していると思っているなら、それは「消費」に過ぎないことを分からせ、正当な値段を払わせること。エゴを捨てずに神の前に進んで、偽りの祈りを続けていることを世に告げ知らせること。自分の欲望の弱さを嘲笑うこと。虚しさを指摘して皮肉った所で、その虚しさがなくなるわけでもないから、たまにはただ黙ること。
歩幅が少し変わっただけで、俺はまた彷徨っていく。何でここに居るのか、何を望んでいるのか、どこへ向かうべきなのか、何一つ分からない。いくら叫んだ所で俺には与えられないニュアンスを、道ですれ違う人たちに与えるつもりは、もはやない。革命と正義、被害者意識を投影する対象を探して俺に寄ってくる人たち。まるで「我々現代の日本人が失った真なる人間性」が我らには残っているかのような、「高貴な野蛮人」を期待して接してくる人たち。5年前までは「そもそも日本に移民は存在しない」と言っていたのに、いつの間にか「いまの日本で最も重大な問題は移民」と言う人たち。そして俺と同じく、他人と目が合うのを怖がって、ただうつむきながらすれ違っていく大半の人たち。
家族と野良猫、ラップと自分、エゴと神の間で彷徨う。気づきと悟りは、次の放浪のスタートラインに過ぎない。仕事から帰ってきた彼女と食卓を囲んで、異邦人同士の愛を寄せ合いながら、それでもある程度は根を下ろした彼女と比べて、いつまで経っても浮遊するだけの自分は一体どうやって夫婦になれるのか、悩む。
名前を変えることにした。捨てられるものは捨てた方が、歩きやすくなるかも。軽々しく歩けるようになった所で、何の意味があるかは分からないが。




