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國方栄二 古代ローマの出版事情[『図書』2023年5月号より]

古代ローマの出版事情

 

 古代ローマの「出版」の話をしよう。もちろん出版と言っても、今日みられる活字印刷のことではない。一五世紀半ばにグーテンベルク(Johannes Gutenberg)が活版印刷技術を発明し、聖書の印刷本を刊行し、その後の印刷技術の発達にともない、とりわけ今日ではコンピュータのおかげで出版刊行がさらに容易になり、そのために世の中に出版物があふれかえっている。けれども、西洋の古代世界にも書物の出版なるものは存在した。もちろん、出版の事情は近代以後とはまったく異なっていた。

 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(Il nome della rosa)を読んだことのある人がいるだろう。あるいは、ショーン・コネリー主演の映画で観た人もいるかもしれない。そこで描かれた修道院の文書館には、多くの写字生とともに、挿絵を担当する細密画家が働いている。一三〇〇年代であるから、時代は中世である。本稿で語るのはもっと古く、ローマ時代のことであるが、両者の決定的な違いは舞台が中世時代の修道院ではなく写字工房であることだろう。しかもそこで働いていたのは修道士ではなく、奴隷であった。挿絵は時に施されたが、中世写本にみられる挿絵ほど手がこんだものではない。けれども、両者には共通する営みがあった。すなわち、筆写である。

書籍商

 古代ローマのフォルム(広場)やキルクス・マクシムス(大競技場)の近くに、アルギレトゥムという通りがあった。現在のカヴール通りがこれとほぼ重なっているが、そのなかにサンダリアリウスと呼ばれた一角がある。文字通りには靴屋街のことであるが、当時多くの書籍商が集まっていることでも知られた。通行人の気を引こうと、店先や柱のあちこちに、入荷した書物の名前が張り出してある。もちろん、今日の書店でみかけるような大量の在庫があるわけではない。それでも、スクリーニウム(scrinium)と呼ばれる書巻筺には、比較的大きな書物が巻物(volumen)にして入れてあったし、それほど大きくない小型本は、エンキリディオン(enchiridion)──ハンドブックの意──と言って、これらは店先に並べてあった。なんと言っても、書店は当時の文化の中心であり、同時に文化人が集まる交流の場でもあった。

パピルスの入ったスクリーニウム(中央.ポンペイ出土フレスコ画にもとづく挿絵)パピルスの入ったスクリーニウム(中央.ポンペイ出土フレスコ画にもとづく挿絵)

 後二世紀の文人アウルス・ゲリウスが、イタリア南部のとある書店に立ち寄ったときのことを記している。ギリシアからローマに戻る途次、アドリア海を渡りブルンディシウム(現在のブリンディジ)に着く。下船後にこの有名な港町を散策していると、書店に束にして置かれた書物が並べられているのが目にはいった。ギリシア語で書かれ、珍しい物語などを含んだ古書であった。著者はプロコンネソスのアリステアス、ニカイアのイシゴノス、クテシアス、オネシクリトス、ピロステパノス、ヘゲシアス……。いずれも手頃な値段だったので購入し、二晩であらかた読んでしまったという(『アッティカの夜』IX 4)。こんなふうにローマ帝国の時代には、書籍商はイタリアの各地に広まっていた。

古代の書物

 これらの書物はどうやって作られたのか。まず、その素材として最もよく知られているのはパピルスである。それ以前には、金属の板に書きつけたものもあって、後二世紀の歴史家パウサニアスはボイオティア地方で、鉛の板に書かれたヘシオドスの『仕事と日』をみたと言っている(『ギリシア案内記』IX 31)。しかし、こうした金属の書写材料は高価であるため、日常的に用いられることはなかった。これに対して、パピルスはカヤツリグサ科のカミガヤツリ(一名パピルス草)の茎から作られるから、はるかに入手が容易であった。その製造法だが、茎から髄の部分を取り出し、まず繊維方向が縦になるようにして並べ、その上層に、今度は繊維方向が横になるように(すなわち下層と直交するように)並べる。髄から出た澱粉質のおかげで粘着しており、槌で叩いて圧縮し水分を出して、数日乾かせばできあがる。現存するパピルスは茶色に変色しているが、最初は明るいクリーム色をしていた。

 もう少し時代が下がると、動物の皮が用いられるようになる。羊皮紙(英語のパーチメントparchment)を意味するラテン語のペルガメーナ(pergamena)は小アジアの都市国家ペルガモンに由来するが、これはペルガモンの王エウメネス二世(在位前一九七─一五九)が設立したペルガモン図書館が、エジプトのアレクサンドレイア図書館と蔵書数を競い、エジプト側がパピルスの輸出をしぶったため、代替品としてやむなく考案されたとされる。

 これはプリニウス(『博物誌』XIII 21)がローマの学者ウァロの報告として伝えているものであるが、実際には羊皮紙はそれ以前から使われていたので、信憑性は低い。すでに前五世紀の歴史家ヘロドトスが、小アジアのイオニア地方ではパピルス紙が不足していたために、彼らがディプテラー(diphthera)と呼んでいた山羊や羊などの動物の皮がパピルスの代わりに使われていた、と述べている(『歴史』V 58)。動物の皮で作られる紙には、英語ではヴェラム(vellum)という名前が当てられることもある。これは仔牛を意味するラテン語のウィトゥルス(vitulus)の縮小辞ウィテッルス(vitellus)から、中世英語を介して作られた語であるが、仔牛の皮を使うことから、わが国ではとく紙と呼ばれることが多い。いずれにせよ、動物の皮は書き物の素材として、中世の時代になっても長く用いられていく。

書物の形

 書物の形は、パピルスをつなぎ合わせて巻物状にした「かん本」が最も古く、前四九〇年頃の壺絵には巻子本を持って読むところが描かれている。一行の字数は決まっていて、最終行まで行くと、次のコラムに移る。これは冊子本の頁に相当する。通常はパピルスの繊維が横に走っている表側(recto)に文字が書かれたが、節約して使うために、繊維が縦に走っている裏側(verso)もしばしば用いられた。

 巻物の最後の欄の右側には細い棒が付けられ、これを中心に巻かれた。この棒をギリシア語でオンパロス(omphalos)、ラテン語でウンビリークス(umbilicus)という。いずれもへそのことで、転じて中心、さらに軸棒の意になる。巻物は最初の部分はカバー用で、広い空白部分になっていたが、最後にも同様の余白が残されていた。キュニコス派の哲人ディオゲネスが、退屈な書物が朗読されるのを聴きながら、余白の部分をみて「さあ皆さん、元気を出して。陸地がみえてきたぞ」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』VI 38)とひやかしている。

 巻子本は一通り読み終わると、巻き戻す必要があったので、これに替わるものとして登場したのが「冊子本」である。これはコーデックス(codex)と呼ばれた。コーデックスの初期のものは、ろうを引いた書板を紐や蝶番でつないだものだったが、やがてたくさんのパピルスの紙葉を二つ折り、あるいは四つ折りにして束ねて、背の部分を綴じ合わせたものが用いられるようになった。全紙四枚だと、一六頁あるいは三二頁の本になる。なんといっても冊子本が便利なのは、巻子本のように巻き戻す手間が省け、また所定の個所を容易に開けることにある。後には、パピルスよりも丈夫な羊皮紙が用いられるようになる。プリニウス(後二三─七九)の『博物誌』はこの書物の形態に言及していないが、詩人のマルクス・ウァレリウス・マルティアリス(後四〇頃─一〇四頃)の『寸鉄詩集エピグランマタ(XIV 184)には、この冊子本への言及がある。

書物の製作

 書物を作る唯一の手段は書写であったから、生産量は限られている。たいてい著者である作家が口述し、それを書き留める書記(写字生)がいる。この書記のことをラテン語でスクリープトル(scriptor)もしくはリブラーリウス(librarius)と言った。書記には奴隷が使われたが、ギリシア語にもラテン語にも精通する学識が必要になったから、こうした奴隷の価格は小さな個人文庫を所有するよりも高かったという。シーザー(カエサル)は七人の書記を所有していたとされるが、書記で今日に名前をとどめているのは、キケロの解放奴隷のティロである。

 ティロは解放後、主人の名(マルクス・トゥリウス・キケロ)をもらい受けて、マルクス・トゥリウス・ティロを名乗っている。ティロは主人の死後に『キケロ伝』を遺していて、この書は現存しないが、後代の歴史家によって用いられたことが分かっている。ティロは自身が書記であるだけでなく、そうした奴隷をたばねる仕事もしていたようである(キケロ『縁者・友人宛書簡』16,21)。彼は「ティロの速記術」(notae Tironianae)でもその名を歴史にとどめている。キケロは当時の公開演説を正確に筆記させるために、短く小さな記号で多くの文字を表す方式を奴隷たちに教えたとされるが(プルタルコス『小カトー伝』23)、ティロはそれを約四〇〇〇の符号にまとめた。例えば、「そして」にあたるラテン語のetは数字の7のような記号で表している。この速記術はその後もさらに工夫を加えて、中世時代まで長く用いられた。

 著者の言葉を書き写した原本は、その複製が作られることで書物として流通する。デモステネスは歴史家トゥキュディデスの『歴史』を八回書写したと言われている。わが国でよく似た例に、若き日の勝海舟が知り合いの蘭方医から借りたオランダ語辞書『ズーフ・ハルマ』を二回書写して、ひとつは売り払い、もうひとつは自分用に留めたという話がある。西洋の古代においては、書物を著すことによって得られる印税はなかったし著作権もなかった。最初は内輪で出回っていたものが、徐々に本格的な出版物となり、流通していったが、読者にあまり人気のないものはそれ以上複製されることはなく、逆に人気が出ると次々と書写され、広く出回ることになる。

 書籍取引商で最も有名なのが、キケロの友人のティトゥス・ポンポニウス・アッティクス(前一一〇―三二)である。アッティクスについては、歴史家コルネリウス・ネポスの『アッティクス伝』やキケロの『アッティクス宛書簡』によって知られる。ローマの騎士階級の出身で、富裕でしかも学識豊かな人物であった。

 アッティクスはキケロの版元にあたる仕事をした人物でもある。彼の邸宅はローマ七丘のひとつクィリナリス丘の近くにあったが、たくさんの奴隷がそこで働いていたと言われる。アッティクスは出版の仕事を請け負っていたが、個人文庫には当時のあらゆる書物の写本が所蔵されていて、キケロはこの宝庫から恩恵を受けていたことが分かっている。

 キケロはまず自分の書記に口述筆記させたものをアッティクスに委ね、アッティクスのほうはそれを奴隷に書写させて、複製が流通していく。複写の精度が低いと当然粗悪品になるが、アッティクスの工房はその点でも評判が高かった。キケロの手紙を読むと、両者の間で校正に関するやりとりがあったことが分かる。『弁論家』の一節で、キケロがうっかり喜劇詩人の名前を間違えたので、「エウポリス」(Eupoli)を「アリストパネス」(Aristophanae)に修正するように、アッティクスに依頼している(『アッティクス宛書簡』12,6a)。現行のテキストでは、これは正しく修正されている。一方、『アカデミカ』で懐疑派の判断中止(エポケー)という概念をラテン語で表記するときに、キケロが「中断する」の意味でsustinereを用いたところ、アッティクスはむしろinhibereが適切ではないかと提案した。しかし、キケロは後者を航海用語だからという理由で不適として斥けている(『アッティクス宛書簡』13,21)。おそらく、二人の間にはこうした校正に関するやりとりが何度もあったのだろう。

自著礼賛

 キケロとアッティクスによる「共同出版」と同様な例は、詩人ホラティウスとソシウス、歴史家リウィウスとドルス、修辞学者クインティリアヌスとトリュフォンなどの関係にもみられる。特に、トリュフォンが出版した書物の量は相当なものであったらしく、ほかにマルティアリスの詩作品などの刊行も引き受けている。そのために、彼は詩人からビブリオポーラ(bibliopora)すなわち書籍販売人の名で呼ばれている(『寸鉄詩集』IV 72)

 もちろん出版業者がいても、その書物が売れなければ何にもならない。書籍商の店棚に置かれたマルティアリスの詩集は、その冒頭でこう言って読者を誘っている。

いずこにありとてもわが書物が共にあることを願い、
長い人生の旅路の伴侶として持ちゆかんとねがう君よ、
わずかな紙数の羊皮紙で綴じたこの私の本を買いたまえ

(『寸鉄詩集』I 2)。 

(くにかた えいじ・哲学)


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