第5回 「チョン」と「Nワード」、そしてラップ(前編)〈MOMENT JOON 日本移民日記〉
Moment Joon『日本移民日記』から3年半──。金 範俊/Moment Joonの連載「外人放浪記」が来月から新たに始まります。
働いていても暮らしていても、「日本人」と「移民」は日々当たり前のように接しているでしょう。日本はますます外国出身者がいなければ回らない社会になっています。一方で差別や偏見を公然と煽る政治家が存在し、「移民」や「外国人」に向けられる憎悪もまたいっそう深まっています。
連載「外人放浪記」を新たに始めるにあたって、『日本移民日記』から差別語とされる言葉の「意味の取り戻し」を論じた「「チョン」と「Nワード」、そしてラップ」の章(前・後編)を公開します。
無間修論地獄
すみませんが、一回叫んでから始めてもいいですか? あ!!!!! すみません、すみません。頭が、頭が回らなくて……今回は、意義深くて、個人的で、ヒップホップのファンではない人にも楽しく読めるものにしたかったのですが……頭が、正常に回りません。
全て、修士論文のせいです。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は大阪大学の音楽学研究室に所属していて、ついこの前、五万字ほどの修士論文を提出しました。しかし提出後も口頭試問・博士試験・修論発表があり、どうしてもこの論文の世界から解放されないのです。その結果、頭が、頭が……(歌詞も書きたいのに作詞モードに脳がシフトしない……)。
どうしても、自分の研究以外のことがじっくり考えられない状態なので、それなら仕方ないと、今回の「移民日記」は、私の修士論文の研究の話にしちゃおうと思います。この考えから解放されたいのに、わざわざもう一度文章にするなんて、正に無間修論地獄……。
一応論文をそのままここで公開するのではなく、内容も編集して読みやすく書き直しますが、内容的にどうしても硬い部分があるかもしれませんので、心の準備をしてください。論文のタイトルは「アメリカと日本の大衆音楽における差別用語の使用(主にヒップホップを中心に)」です。
※第五章、第六章に出てくる差別用語は全てカギかっこを使って表記します。「Ni**er」「Ni**a」の場合は、歌詞の引用などを除いては「Nワード」と表記します。
歌詞に「チョン」を使う、歌詞にNワードを使う
初めて「チョン」という言葉を自分の音楽に使ったのは、2018年のSKY-HI さんの「Name Tag」という曲に客演で参加した時でした。私の「チョン」の使用に関してよく見かけるのが、アメリカのヒップホップでの「Nワード」との比較の話です。例えばニュースサイト、音楽ナタリーの「舐達麻、Moment Joon、KOHH……2019年もっともパンチラインだったリリックは何か?」という記事で音楽ライターの二木信さんは、私の「このクソチョンこそ日本のヒップホップの息子」という歌詞について「議論を展開するためにあえて英語圏の文脈に置き換えて思考すると、Nワードを含むようなラインと考えられるでしょうか」と述べています。「チョン」の使用とNワードの使用の比較は有効だろうか、という問いはちょっと置いといて、まずはNワードの方に注目してみましょうか。
「Nワード」とは、現代の英語圏で言う「Ni**er」や「Ni**a」という単語を、直接的に言わずに指す時に使う、代わりの言葉です。ある言葉を直接言及しないために代わりの言葉が存在することから、この言葉が持つ恐ろしさやタブー性が分かると思いますが、それは「Ni**er」がアメリカで、奴隷制の時代から現在に至るまでの根強い黒人差別を象徴する言葉であるからです。
「黒い」を意味するラテン語の「Niger」、そしてそれを語源とするポルトガル語・スペイン語の「Negro」から英語に入ってきた「Ni**er」は、アメリカの南北戦争以前の残酷な奴隷制の時代はもちろん、奴隷解放の後も「ジム・クロウ法」などに象徴される長く続く黒人差別の時代に、「武器」として使われてきました。
そう、武器なのです。誰かをバカにするとか嘲笑するといった程度の言葉ではありません。自分が生まれた国で二流国民扱いされ、殴られ、家が燃やされ、酷い場合は集団リンチによって殺されるなど、アメリカの黒人たちが経験してきた数えきれない苦難と痛みとともに、迫害者から浴びせられてきた言葉が「Ni**er」なのです。そのことを考えると、なぜ現代のアメリカでこの言葉が黒人に対する差別用語としてそんなに恐ろしいパワーを持っているのかが少し分かると思います。
こんなに恐ろしい言葉であるにもかかわらず、ヒップホップでは黒人のアーティストたちによるNワードの使用が本当に本当に多いのです。「自分を傷つける言葉をわざわざ自ら使うの?」と不思議に思われるかもしれません。差別用語を被差別者が自ら使うこと。その意味を「Reappropriation(意味の取り戻し)」という概念で考えてみましょう。
言葉の「意味の取り戻し(Reappropriation)」
『ウェブスター辞典』は「Reappropriate」を「何かを取り戻す、再占有する(to take back or reclaim〔something〕)」ことであると規定して、その例文として「誹謗中傷的な単語をReappropriateする(trying to reappropriate a disparaging term)」を紹介しています。ものではなく、言葉を取り戻す、しかも「差別用語」を取り戻すとは、どういうことなんでしょうか。
アメリカの社会心理学者、アダム・ガリンスキーらによる「THE REAPPROPRIATION OF STIGMATIZING LABELS: IMPLICATIONS FOR SOCIAL IDENTITY」(2003)という論文は、差別用語を「取り戻す」過程の三つの段階のモデルを提示しています。第一段階は、被差別者である「個人」が、自分や自分を含むグループを対象とする差別用語を「自ら」使うことです。ガリンスキーらは被差別者自らが「堂々とした態度」で自分自身を差別用語で指すことで、その言葉の否定的な意味を奪い、他人がその言葉を武器として使って傷つけてくることを阻止したり、また主体性を持って自分の自尊心を保護し、向上させたりすることが期待されると言っています。例えば、小学校で「〇〇ちゃん」といったあだ名でバカにされる子がいたとして、ある日「そう、僕は〇〇だ。だから何?」と堂々と言い返すことを想像してみると、分かりやすいでしょうか(日本の小学校に通ったことがないので、こんなことが起こりうるかは分かりませんが)。
第二段階は、被差別者の個人を超えた、被差別グループによる「集団的な使用」です。ガリンスキーらはこの段階で該当用語に肯定的な意味が付与されたり、その言葉をきっかけに被差別者たちが団結したり、誇りを感じたり、その言葉を使って他人に規定される危険性が低くなったりすることなどを述べています。そして第三段階は、被差別者たちが第一・第二段階で自ら差別用語を使った結果、社会全般(外集団)が被差別者たち(内集団)に対して持っている否定的な価値観(社会的スティグマ)などを疑い、自分たちの偏見や差別意識を「これって間違ってるんじゃないか」と振り返って、修正する段階です。
ガリンスキーらはこの三つの段階の成功は目に見えるものではないし、同じ言葉でも使用される地域・社会によっては成功の度合が全然違うかもしれないと慎重に記述しているのですが、それでもかなり興味深い考えであることは間違いありません。被差別者が自らを差別用語で呼んで、その言葉の否定的な意味を奪い、それを裏返したポジティブな意味を付与し、最終的には社会の偏見自体を変える。この「意味の取り戻し」の議論で必ず登場するのが、Nワードなのです。「ヒップホップと言えばNワード」と連想する人がいるぐらい、現代のヒップホップでのNワードの使用は本当に象徴的でよく知られているのですが、その使用は「意味の取り戻し」的な側面を持つのでしょうか。私の問題意識はここから始まります。
そして私はNワードに留まらず、日本のヒップホップでの差別用語の使われ方のことを考えてしまうのです。差別用語の意味の取り戻しに関しては、「例えば日本の場合……」と説明することが難しいぐらい、たしかに日本ではなかなか前例のない概念かもしれません。にもかかわらず、日本のヒップホップでも差別用語の使用は多く確認されます。そして何より、自分が「チョン」という言葉を使用しています。ヒップホップで差別用語を使うことの意味を理解するのは、アーティストの私にとっても極めて重要なのです。
問題設定と差別用語の分類のモデル
私の研究は、次の二つの問いに答えることを目標としています。
1.大衆音楽での差別用語の使用は、言葉の「意味の取り戻し」の側面を持つのか。
2.大衆音楽での差別用語の使用は、聴き手の「社会的スティグマ」の認識に、どのような影響を与えるのか。
この二つの問いに答えるために数えきれないぐらいの曲を分析したのですが(少なくとも100曲以上。マジ死ぬかと思った)、様々な差別用語の使用を分析するために、自分で分類のモデルを考案しました。
その分類の軸の一つは「誰が、何を指すために使うのか」です。ここでは「外集団(その差別用語の差別的な意味の対象とならない人)」、「内集団(その言葉による差別の対象となる人)」、そして「物・概念」の三つの要素があって、総合すると次の六つのパターンが想定できます。
外集団(Out-group, O)、内集団(In-group, I)、物体・概念(Thing, T)
1) 「外集団→外集団」の使用(OO)
2) 「外集団→内集団」の使用(OI)
3) 「内集団→内集団」の使用(II)
4) 「内集団→外集団」の使用(IO)
5) 「内集団→動物・事物・概念」の使用(IT)
6) 「外集団→動物・事物・概念」の使用(OT)
例えば非黒人が黒人をNワードで呼ぶことは「外集団→内集団」の使用と考えます。黒人が他の黒人、または自分自身を呼ぶ時にNワードを使うことは「内集団→内集団」の使用と言えますよね。そして、珍しいことではありますが、物や概念を呼ぶ時にNワードを使う場合もあります。コメディアン・俳優・ミュージシャンであるドナルド・グローバーによると、彼はたまに車のシートベルトをNワードと呼ぶらしいです……。
分類のもう一つの軸は、「どんな意味で使われたのか」です。「差別用語だから差別的な意味に決まってるでしょ」と思うのは早計です。例えば英語の「Bitch」は、本来メスの犬を示す言葉であって(あんまり使われないと思いますが)今でも犬を指す時に使うことが可能です。もちろん、私たちがよく思い浮かべる「差別表現」としての否定的な意味で使われる場合もあります。またそれの差別的な意味を裏返す、前に紹介した「意味の取り戻し」的な意味の使用もありますよね。そして、必ずしも既存の差別的な意味を連想させない、新しい意味の使用もあります。総合すると、四つのパターンが想定できます。
1) 差別用語としての否定的な意味とは無関係な、本来その言葉が持つ別の意味(別)
2) 既存の否定的な意味(否定)
3) 既存の否定的な意味を裏返した肯定的な意味(裏返し)
4) 肯定的・否定的・中立な新しい意味(新肯定・新否定・新中立)
この二つの軸から、次のような分類のモデルが考えられます。
本来その言葉が 持つ別の意味 (別) |
既存の否定的な 意味 (否定) |
既存の否定的な 意味を裏返す意味 (裏返し) |
新しい 意味 (新) |
|
外集団→外集団 (OO) |
OO別 | OO否定 | OO裏返し | OO新 |
外集団→内集団 (OI) |
OI別 | OI否定 | OI裏返し | OI新 |
内集団→内集団 (II) |
II別 | II否定 | II裏返し | II新 |
内集団→外集団 (IO) |
IO別 | IO否定 | IO裏返し | IO新 |
内集団→物・概念 (IT) |
IT別 | IT否定 | IT裏返し | IT新 |
外集団→物・概念 (OT) |
OT別 | OT否定 | OT裏返し | OT新 |
うわっ、なんかいきなりデカい表が出てきて驚いたでしょう。大丈夫です。実際この中で注目すべき分類は、そんなに多くないのです。例えば、私たちが普通に思う「差別表現」とは、外集団の人が被差別者(内集団)に向けて、既存の否定的な意味で使う場合なのでOI否定型と分類できます。そして「意味の取り戻し」は、被差別者(内集団)が自分自身や被差別グループの構成員(内集団)を対象に、既存の否定的な意味を裏返すからII裏返し型と分類できます。どうですか。そんなに難しくないですよね?
じゃ、問題の設定もオッケー、そしてそれに答えるためのツールの準備もオッケーです。実はここで「じゃ次は分析だっ!」と言うべきですが、実際の分析の例は多すぎるので、ここではその一部と考察だけを共有することに……どうしても論文が読みたい人は、口座振込お待ちしております。口座番号はゆうちょ銀行、24**691……。
アメリカのヒップホップでのNワードの使用の分析
本当に本当に珍しく、白人のアーティストが差別的な意味でNワードを使う場合もありましたが(アダム・カルフーン「Racism」)、まずはII否定型の使用に注目しましょう。N・W・Aの代表曲「Straight Outta Compton」の拡張バージョン(1988)で、アイス・キューブは「サウスセントラルで何か起きたとしたら、それは何も起こらなかったことと一緒だ。ただもう一人Nワードが死んだだけ(When somethinʼ happens in South Central,Los Angeles, Nothinʼ happens. Itʼs just another ni**a dead)」と言っています。聞くだけでつらくなるこの使用は、命を尊重してもらえない「くだらない存在」という、Nワードに含まれている黒人に対するアメリカ主流社会の差別意識をわざと口にすることで、差別の実態を描写する機能を果たしています。
II裏返し型の例ももちろん数えきれないぐらいあります。例えばアイス・Tの1991年作「Straight Up Ni**a」は、「怠慢」や「頭が悪い」といった、Nワードという言葉に含まれる黒人に対する悪いイメージをいちいち羅列した後に、「それでも俺は大成功して贅沢なライフスタイルを満喫する「Ni**a」だぜ」と自己宣言しちゃいます。またNワードという言葉の使用とともに繰り返されてきた、黒人に対するリンチなどの暴力に対しても「気をつけろ、俺は銃を撃ち返すNワードだから」と言っています。これらの表現は「貧乏」または「歴史的に暴力の対象となってきた」という黒人の社会的スティグマを表すNワードを、自分の財力・社会的成功・強い男性性と結びつけることで、社会的に弱い立場である自分(黒人)がむしろ「優位」であると宣言する、つまり「力の逆転」による「意味の取り戻し」であると見なすことができます。
Ice-T - Straight Up Ni**a
面白いのは、II裏返し型の使用の全てが「力の逆転」ではないことです。「i (Album version)」(2015)という曲でケンドリック・ラマーは、Nワードが持つ否定的な意味と歴史を認知した上で、同じ発音でエチオピア・セム諸語で「王族」を意味する「Negus」を意図して自分自身をNワードと呼んでいます。これは、奴隷制や奴隷のイメージと深い関係を持っている既存のNワードの意味を「王族」に裏返す使用ですよね。「お金持ち」「強い」「魅力的」など、他人との優劣の比較ができる価値で自分をポジティブに描写するのではなく、「自分の存在そのものが貴重で尊重されるべき」というケンドリックのNワードの使い方は、「全てのNワードはスターだ」と歌ったボリス・ガーディナの「Every Ni**er Is A Star」(1973)とも似ています。あら、そう思えばこの曲、ケンドリックがサンプリングしてなかったっけ……。
Kendrick Lamar - i
しかし、現代のヒップホップで最も多いNワードの使用パターンは、OI否定型でも、II裏返し型でもなく、「新しい意味としての使用」です。OI否定型とII裏返し型が何らかの形でNワードに含まれている黒人差別の意味を聴き手に認識させるのと違って、この「新しい意味としての使用」は、必ずしも既存の否定的な意味を聴き手に認識させません。例えばYGの「My Ni**a」(2013)という曲は、自分の信頼できる仲間たちの「怖がらない」「強い」「信頼できる」などのポジティブな属性を描写する時に「やつらは俺のNワードだ」と呼んでいます。この使用例からは、Nワードが社会的に持つ差別的な意味への言及は特に見つかりませんよね。したがってこれは新肯定型と分類できます。
またII新否定型の使用も見られます。ある人を「臆病」とか「男らしくない」などと言って攻撃する文脈で「ビッチなNワード」がどれぐらい使われているかは、もう想像もつかないほどです。「Bitch ni**a」「Fake ni**a」「Dumb ni**a」など、特に既存のNワードの差別的な意味とは関係なくても、否定的な属性と結びつけて使われるパターンは新否定型と分類できます。
特に肯定的なイメージや否定的なイメージと連携して使われず、ただ誰かを指す「呼び名」としての使用も見えます。例えばドレイクは「0 to 100/ The Catch Up」(2014)で彼の親友のプロデューサー、ノア・40・シェビブを「my ni**a」と呼んでいます。ここで注目すべきなのは、黒人ではない人に対してもNワードで呼ぶ例がかなり多いことです(ノア・40・シェビブは白人)。これは新肯定型・新否定型とも共通することで、II新肯定・新否定・新中立型だけではなく、黒人ではない人を対象とするIO新肯定・新否定・新中立型も確認されます。
前に少し触れたように、実は、黒人ではない人をNワードで呼ぶだけではなく、黒人ではないアーティストがNワードを使う事例も見られるのです。メキシコ・プエルトリコ系(6ix9ine)、プエルトリコ・キューバ系(ファット・ジョー)、アラブ系(フレンチ・モンタナ、DJキャレド)、中国系(チャイナ・マック)、カンボジア系($tupid Young)など……例えば$tupid Young は2020年の作品「Stay Down」で、仕事で忙しい自分の日常を描写しながら「a ni**a lifeʼs a mess」と表現したり(新中立型)、立派な自分を「standup ni**a」と呼んだり(新肯定型)、そして他の臆病な男性を「pussy ni**a」と呼んでいます(新否定型)。そしてまた、$tupid Young と対立している他のカンボジア系のラッパーは曲中で彼をNワードを使って攻撃したり(OO新中立・新肯定・新否定型)……。
非黒人アーティストによるNワードの使用には、いつも「Nワードを使う資格は誰にあるか」の議論が付きものです。例えばプエルトリコ・キューバ系のアーティスト、ファット・ジョーは、他の黒人によって自分がNワードと呼ばれてきたことや、ヒスパニックと黒人のコミュニティが一緒に生活してきたことを述べながら、彼自身がNワードを使うことの正当性を説明しました。このように、自分と黒人コミュニティとの関係性や、差別の当事者性などを理由にNワードを使うアーティストもいますが、それでも「何で黒人じゃないのにNワードを使うの」という議論がこれらのアーティストにいつも付いて回ることは、これがただ「俺の地元の黒人の友達たちはオッケーと言ってるぜ」ぐらいで決着が付くような議論ではないことを示しています。
$tupid Young - Stay Down
Nワードを使うことを考える
では、議論の最初に提示した二つの問いに答えてみましょうか。「Nワードの使用が、言葉の意味の取り戻し的側面を持つか」に関しては、もちろんそのような例が多く確認されました(II裏返し型)。しかし二つ目の問い、「Nワードの使用が聴き手の社会的スティグマの認識にどう影響するか」の答えは、そんなに簡単ではないのです。
まずは、この話が「音楽」だからこそ生じる特殊性について考えなければなりません。例えば、楽曲内で使用される差別用語は、「作品の一部」として認識される可能性があります。ケンドリック・ラマーが2018年のライブで、あるファンをステージに立たせて彼の曲の一節を歌わせたことがありましたが、白人であるそのファンが歌詞の中のNワードをそのまま歌うと、ケンドリックはそのファンを止めて「その言葉はなしでもう一回やってみて」と頼んだのでした。この出来事には、アメリカ社会でタブー中のタブーであるNワードでも「作品の一部」だと認識して歌ったそのファンの見方、そして「作品の一部」だとしても白人によるNワードの使用には不快感を覚えるケンドリックの見方が現れていて、普通の会話と違って「音楽で」差別用語を使うことの特殊性が見えると思います。
「音楽」だからこその特殊性はそれだけではありません。例えば、普通の会話で誰かが差別用語(あるいは差別用語と思われる言葉)を使ったとしたら、使用者は相手や周りからの直接・間接的な反応を感じて、その言葉のニュアンスや文脈上生じる意味などをより詳しくキャッチできますよね。あなたが私の前で「チョン」という言葉を使った瞬間、私の表情が変わるとか、もしくは私から直接その言葉についての意見を聞くなどの追加情報を得ることで、あなたが「チョン」に対して持つ印象や考えは変えることができます。しかし、「音楽」に使われた差別用語を理解する時には、そのような追加情報は得られず、その「音楽」のみが理解の材料の全てなのです。
「音楽」のみが差別用語の意味を理解する材料の全てであることは、前に紹介したOI否定型の使用、またはII裏返し型の使用の場合は、特に問題になりません。どちらも、Nワードが持つ本来の否定的で差別的な意味に触れていますから。しかし、新肯定・新中立・新否定型の使用になると、話が変わります。例えば、ある黒人のラッパーが自分の財力を自慢しながら「俺はリッチなNワードだぜ」という歌詞を書いたとしましょう。その時に特に「貧しかった過去」についての描写がなくても、その歌詞を書いた本人、または彼と似たような経験を共有する「内集団」の人には、今のNワードを使った財力の自慢が「意味の裏返し」として機能するかもしれません。しかし人によっては、特に聴き手が被差別の経験がなく、関連知識の少ない「外集団」である場合は、そのような「目に見えない意味の裏返し」の意図がキャッチできない可能性があるのです。差別の現状をよく知らない人にはキャッチできない「意味の裏返し」の使用。意味の取り戻しの第三段階、つまり、ある差別用語の既存の悪い意味を裏返す様子を見た外集団の人々が「そもそもあの言葉が表す偏見って間違ってたやん」と、自分の考えを修正すべき段階において、「意味の裏返し」の意図を誤って受け取ってしまうことは、決してよいことではありませんよね。
実は、十分な文脈の提示がなくて「裏返し」としての使用の意図がキャッチできないことよりも、もっと悪い可能性も考えられます。それは、Nワードにまつわる「新しいスティグマ」が現れる可能性です。Nワード、またその言葉が含む黒人に対する社会的スティグマについての知識に乏しい聴き手は、Nワードの歴史的な文脈についての言及がない新肯定・新中立・新否定型の使用例を聞いて、そこでNワードと結びつけられる属性を「黒人自体の属性」と勘違いしてしまうかもしれないという可能性です。
例えば、前述の白人ラッパー、アダム・カルフーンの「Racism」(2018)という曲があります。彼はこの曲で、ヒップホップの楽曲によく登場する車・女・マリファナなどのモチーフをNワードと結びつけて、「お前らNワードたちは、こんなもんばっか好きなんだろう」という新しい偏見を表明しています。私はこのような事例から、Nワードと関わる「新しいスティグマ」が現れる危険性が存在するのではないかと思っています。
このような勘違いの危険性は、現代のヒップホップにおいて、Nワードの対象範囲が曖昧なこととも関係しています。例えば、ジェイ・Zの2013年の曲「Crown」には「Nワードたちはいつも他のNワード(文脈上、彼自身を示す)を倒そうとする(Ni**as always try to knock a ni**a down)」という歌詞がありますが、この場合ジェイ・Zが「Ni**as」で指す不特定多数の「彼ら」や「やつら」の範囲が「黒人」だけに限られているのか、黒人を超えた人々までも一緒に意味しているのか、はっきり言えないのです(非黒人をもNワードで呼ぶ例が多すぎるので)。そして「黒人」のみを対象としているとしても、「特定の黒人の個人や集団」を対象にするのか、「黒人全体」を示すのかも不明確なのです。こんな状況では、聴き手にとっては「いつも誰かを倒そうとする悪い属性」を「黒人全体」と結びつけて理解する人が出てくる危険性がありますよね。「だってジェイ・Zが黒人はみんなそうだと言ったもん」と思うでしょうから。ジェイ・Zは「黒人全体」ではなく「ある特定のグループ」、しかも黒人だけの集団を意味したわけではないかもしれないのに、です。
結……論?
ふー、長かった。ここまで、アメリカのヒップホップでNワードが使われた事例の分析、そしてそこから派生する論点について述べました。実は論文ではヒップホップ以前の他のジャンルのNワードの使用についても語ったり(パティ・スミスとか、ジョン・レノンとか)、事例の分析もこの三倍はあるのですが……。
被差別者が自ら差別用語を音楽で使うこと、いや、少なくともアメリカのヒップホップで黒人アーティストによるNワードの使用は、様々な側面を持つのです。それは、その人が置かれている社会の差別の実態を描写するためにも、またはその差別用語のネガティブな意味をポジティブな意味に裏返すためにも使われます。それだけではなく、下手したら新しい社会的スティグマを生み出すかもしれない危険性についても論じました。
しかし、ここで止まってしまうと意味がありません。ブラック・ライブズ・マター運動が話題になった時に、「はいはい、それはアメリカの話ね。日本は該当事項なし」などと、日本の現状を見ようとしない人々にはショッキングかもしれませんが、日本にも、差別があるのです(何だと⁈)。そしてヒップホップは、その日本の現状を辛辣かつ素直に反映しています。次回は、日本のヒップホップでの差別用語の使用、主にNワード、「ジャップ」、「外人」、そして「チョン」に関する話をしたいと思います。無間修論地獄は今日も終わらず……。
(続く)