第6回 「チョン」と「Nワード」、そしてラップ(後編) 〈MOMENT JOON 日本移民日記〉
Moment Joon『日本移民日記』から3年半──。金 範俊/Moment Joonの連載「外人放浪記」が来月から新たに始まります。
働いていても暮らしていても、「日本人」と「移民」は日々当たり前のように接しているでしょう。日本はますます外国出身者がいなければ回らない社会になっています。一方で差別や偏見を公然と煽る政治家が存在し、「移民」や「外国人」に向けられる憎悪もまたいっそう深まっています。
連載「外人放浪記」を新たに始めるにあたって、『日本移民日記』から差別語とされる言葉の「意味の取り戻し」を論じた「「チョン」と「Nワード」、そしてラップ」の章(前・後編)を公開します。
今回はやっと、日本のヒップホップで差別用語が使われた事例について論じます。本格的な議論に入る前に、二つの点だけはっきりさせておきたいです。
1.あるアーティストによる差別用語の使用を「正しい」「間違っている」と判断するのではなく、その言葉が示す社会的スティグマが聴き手にどのように伝わるかを論じたいこと。
2.Nワードと同じぐらい大きな存在感を持っている「Bitch/ビッチ」の分析が欠けているため、議論が不完全であること(私の能力不足で入れられませんでした……博士課程に合格しましたのでこれからの研究できちんとやります! 勘弁してください!)。
※以下、アーティストの敬称は省略します。
「ちびくろサンボ」「コーヒー豆」、そしてNワード
日本にも黒人に対する差別は存在します。「そんなものはない!」と反論したい人々には、文化人類学者ジョン・G・ラッセルの『日本人の黒人観 問題は「ちびくろサンボ」だけではない』(新評論、1991)を読んでほしいです。
ここで確かめておきたいのは「日本に黒人差別が存在するか」などといった当たり前すぎる話ではなく、日本での黒人差別と「言葉」の関係です。「黒人に対する差別的な日本の言葉とは何か」と聞かれた時に、あなたの頭に思い浮かぶ言葉は何ですか。その答えの中に、Nワードは入っているでしょうか。
様々な差別用語についての議論や論争などをまとめた高木正幸の『差別用語の基礎知識’99』(土曜美術社出版販売、1999)は、日本での黒人差別に関する事例として、イギリスの作家ヘレン・バンナーマンの絵本『ちびくろサンボ』に登場する黒人の描写をめぐる日本での批判の声や議論、そして絵本の絶版に至った経緯について紹介しています。「ちびくろサンボ」や「サンボ」といった言葉の使用に関する議論ではありませんでしたが、少なくとも1980年代において、これらの言葉が日本社会が「差別的」だと思うイメージを示していたことは確認できます。
先ほど紹介したジョン・G・ラッセルは『現代思想 総特集◎ブラック・ライヴズ・マター』(2020年10月臨時増刊号、青土社)への寄稿で、黒人を「猿」と描写する日本のポルノの例も挙げています。またYouTube の「ケバブチャンネル」の「日本で生まれ育った外国人が人種差別(いじめ)について話す。」という動画では、「コーヒー豆」という言葉で日本人から差別を受けたことも確認できます(現在非公開)。
以上の事例から、日本で黒人をキャラクター化したり、黒人の人間性を奪ったりする描写の時に「ちびくろサンボ」「コーヒー豆」「黒」「猿」などの言葉が使われてきたことが確認されます。しかしこれらの言葉のどれも、アメリカでのNワードが持っているような、「日本で黒人差別を表す言葉といえばこれ」と言える象徴的な地位は持っていないと思われます。日本のヒップホップでのNワードの使用の意味は、このように日本には黒人差別を象徴する言葉がないという認識の上で考えるべきだと思います。そして、そもそも日本での黒人差別とNワードの関連性は、アメリカでの黒人差別とNワードの関係とは違うことも常に意識すべきだと思います。
日本のヒップホップでのNワード
まずは日本の黒人アーティスト自らによる使用の例を見てみましょう。横浜出身で黒人の父と日本人の母を持つDyyPRIDE は、2011年の作品「Street Ni**a」で「Iʼm just a Ni**a 肌は黒いが」とNワードを使っています。しかし、アブストラクトで実験的な歌詞の内容の文脈上、この時のNワードが彼自身とどのような関係を持つかは、私には把握できませんでした。
アメリカ、ジョージア州出身で、日本でアーティスト活動をしているDuke of Harajukuの2020年の作品「GO!」では「Cut all these lame ni**as off (ダサいやつらは全員切る)」と、否定的な文脈で他人を指す時にNワードを使っています。アメリカ黒人の父と日本人の母を両親に持つBFN TOKYOTRILL は客演で参加した曲で「Real Ni**a Iʼm in my zone(自分のゾーンに入ってる本物のNワード)」(TYOSiN「MyZone」2018)と、肯定的な意味で自分を描写する時にNワードを使っています。これらの使い方はアメリカのヒップホップでも確認できる新肯定型や、不特定多数に対するIO新否定型の使用に似ていると言えるでしょう(第5回の表参照)。しかし、ここで使われるNワードからは、日本という社会空間でその言葉が持つ社会的スティグマの特徴が把握できません。
非黒人アーティストによるNワードの使用もあります。大阪のアーティスト、ウィリーウォンカは、客演した曲の中でパーティーの景色を描写しながら「Ni**a はノリノリ」という歌詞を使っています(Cz TIGER「RIDE WITH ME」2017)。しかし、このNワードが示すのが黒人の個人なのか、複数の黒人なのか、黒人ではない個人または集団なのか、彼自身なのか、与えられたテキストだけでは判断が難しいです。
大阪出身の在日韓国人アーティストであるJin Dogg は、2019年の作品「糞(FUCKYOU)」で「意味分からないBitch ni**a Fuck you」とNワードを使っていますが、この場合は否定的な意味で使われていることは把握できるものの、その対象の範囲はまた不明確です。
ポーランド人の母と日本人の父を両親に持つMARIA は、彼女が所属しているグループSIMI LAB 名義の2014年作「Street」の歌詞で、「4 ni**a 2 Jap 1 white trash」と、グループの黒人メンバーはNワードと、日本人メンバーは「ジャップ」と、そして彼女自身は「ホワイト・トラッシュ」と呼んでいます。この場合のNワードは親近感や仲間意識の表明として使われたことが把握できます。
近年で最も話題になったNワードの使用例は沖縄出身のアーティスト、Awich の事例だと思います。客演で参加した曲で「Boss ni**as wouldnʼt get a job among babylon(ボスなNワードたちなら不条理なシステムの中で仕事はしないはず)」(KOJOE「BoSS RuN DeM」feat.AKANE & Awich, 2017)と歌い、「Boss」という肯定的な意味と並んでNワードを使っています。
このような日本での非黒人アーティストによるNワードの使用は、アメリカで非黒人アーティストがNワードを使うことと共通しています。「不特定多数の嫌な奴ら」を描写する時にNワードを使ったJin Dogg の例も、親近感を表したり肯定的な属性を描写するためにNワードを使ったMARIA とAwich の例も、例えば前回紹介した$tupid Young のNワードの使用との類似性が見出せます。
しかし、アメリカの非黒人アーティストがNワードを使う時と同様に、日本の非黒人アーティストの場合も「この言葉使っていいの?」という疑問を呼び起こします。$tupid Young は、彼の育ちや環境からNワードを自然に身に着けたことや、黒人の仲間たちとの関係を証明することなどによって、自分のNワードの使用について説明していますが、有名なヒップホップDJのEbro を含めて、彼のNワードの使用に不快感を表している声も少なくありません。
日本のヒップホップの場合、非黒人アーティストのNワードの使用が大きな議論になることはあまり確認されませんが、本当に珍しく、Awich が自分のNワードの使用について述べています。河出書房新社の『ケンドリック・ラマー 世界が熱狂する、ヒップホップの到達点(文藝別冊)』(2020)内のインタビューで、Awich はNワードが持つ歴史や意味の取り戻しの概念まで、Nワードに関する詳しい理解を見せています。そして亡くなった黒人の夫と、黒人とのハーフである娘の存在から、彼女自身が黒人たちの苦難から「他人ではない」ことを示しています。Nワードの意味の取り戻しの文脈を理解し、また黒人たちの苦難と自分を一体化する彼女の立場から彼女のNワードの使用の意味を考えると、肯定的な属性を描写するためにNワードを使った「BoSS RuN DeM」の例はII裏返し型と見なすことができるかもしれません。
YouTube チャンネル「Japan 4 Black Lives」の議論において、Awich の背景や立場はより詳しく現れています。彼女は前述のNワードについての詳しい理解や家族の話はもちろん、日本の中の沖縄という更なる差別の構造を理解している黒人たちとの間で、お互いをNワードで呼び合う環境で育ったことを説明しています。この動画の最初から最後まで、Awich からは黒人文化とヒップホップ音楽への愛情と敬意が感じられるのですが、それにもかかわらず他の黒人のパネリストたちは彼女のNワードの使用に否定的な意見を述べています。あるパネリストが、非黒人によるNワードの使用を、次のことにたとえて説明したのがとても印象深かったです。
「片腕を怪我して違う腕でその腕を押さえているとしましょう。それを見た友達が「大丈夫? 見せてみて」と言って触ろうとします。それは痛いから止めてと私は答えます。それでもその友達は「いや、心配だからちょっと見せてみて。だってお前、そこ自分の手で触ってるでしょ? なんで俺が触っちゃだめなの?」と言いながら触ろうとします。でも私からすると、自分の手は自分の一部で、だから触っても痛くないけど、君が触ると確実に痛いから。君が触ると「痛い」と言っていることを、そのまま素直に受け入れて止めてほしい」
いくら黒人の痛みを理解して、黒人文化への愛情と敬意に溢れていても、非黒人の人は「黒人内集団」ではなく、したがって非黒人によるNワードの使用は「傷つく」ことであると述べています。
Awich を除く他の日本の非黒人アーティストたちからは、Nワードを使う意図や、その言葉とアーティスト本人がどんな関係を持っているか、確認できる資料はなかなか見つかりません。単純に私の調査不足かもしれませんが、日本の黒人アーティストが自らNワードを使う事例に関しても、その使用から「日本」という社会での黒人差別の現状が見えてくるとは、正直言いにくいと思います。
その中で、なみちえの「おまえをにがす」(2019)は、とても特殊な事例です。ガーナ人の父と日本人の母を両親に持って、日本で生まれ育った日本語話者のなみちえは、日本語の「逃がす」を使って、Nワードを直接使用せずにその言葉の存在感を意識させます。高次元過ぎる曲なので私の解釈は間違っているかもしれませんが、YouTube チャンネル「ニートtokyo」のインタビューで彼女が「言葉の二面性」を強調していることから、差別それ自体を聴き手に意識させるよりも、社会的スティグマとそれを表す「言葉」自体の関係について考えさせる意図でこの曲を作ったのではないかなと思っています。
日本のヒップホップでの「ジャップ(Jap)」
英語圏、特に第二次世界大戦の時に日系アメリカ人を強制収容した歴史のあるアメリカで、「Jap」は明らかに日本人・日系人に対する差別用語です。そんな「ジャップ」を、現代の日本に住んでいるアーティストが使うことは、とても興味深い現象だと思います。
「ジャップ」に近い形の用語の使用は、日本のヒップホップの黎明期から確認されます。いとうせいこう&タイニー・パンクスの「東京ブロンクス」(1986)は「俺はラッパーJAPPA RAPPA MOUSE」という歌詞で始まります。「JAPPA」が日本人もしくは日本との関係性がある言葉であることは把握できますが、英語圏の差別用語としての「ジャップ」との関係性はここでは明らかではありません。
日本のヒップホップで最も有名な「ジャップ」の使用はジブラの「Neva Enuff」(2001)でしょう。ジブラはこの曲で直接「ジャップ」を使用してはいませんが、曲の冒頭に北野武の映画『BROTHER』のセリフの「ファッキンジャップぐらい分かるよ、バカヤロー」をサンプリングしています。ジブラの「日本人ナメたのが間違い」「確かに負けたぜ戦争じゃ」、客演アーティストのAKTION による「人種差別にカンカンだ」「俺らお前の英語解んだぜ」など、「ジャップ」という言葉が表す社会的スティグマを連想させる内容や、それに対抗して「日本人男性としての男性性」を確認させるような歌詞が含まれています。しかし、ジブラもAKTION も、日本に居住していて日本で活動しているため、「ジャップ」が意味する社会的スティグマが機能する社会の文脈で使用されているとは思いにくいです。「北野武の映画の世界観を表している」と言えば終わりかもしれませんが、それでも「仮想の抑圧者」としてアメリカ社会を設定して「それと闘う日本人」が歌詞から連想されるのは、どうしても否定できません。
より直接的に自らを「ジャップ」と呼ぶケースもあります。LIL JAP、怨念JAP、SIMON JAP などのアーティストは「JAP」が含まれた名前で活動しています。TAKABOの「SUIYORU」(2019)には「ジャップ」が数回使用されていて、「アメ公もジャップも変わらん」「レップファッキンジャップ」「ジャップのツレ達はわかっとる」など、アメリカの黒人アーティストによるII新肯定型と似た用法で「ジャップ」が使われています。
Raq、押韻おじさん、ハシシ、ちのりによる「automation(迫真)」(2012)の「こんなにクールにラップするジャップは俺が初めて」の「ジャップ」の使用も、アメリカのヒップホップにおけるII新肯定型のNワードの使用に似ています。
BAD HOPの「Chain Gang」(2015)には「鎖国的なAsian Jap/Korean Chinese 南米/繫がれてる川崎のWe Are Chain Gang」という歌詞で「Jap」が使われていますが、この場合の「ジャップ」は閉鎖的な他の日本人を日本のアーティストから批判するために使われたことから、NワードのII否定型、またはII新否定型の使用に似ていると思われます。
日本のヒップホップにおける「外人」の使用
『広辞苑』によると「外人」とは「①仲間以外の人。疎遠な人。②敵視すべき人。③外国人。異人」だそうです。しかし辞書的な意味とは別に、外国人や外国出身の個人に対する差別用語、または見た目によって個人を差別する用語として「外人」を認識する見解もあり、岡本佐智子は「「不適切な」日本語表現考」(2009)で「外人」を「差別か区別か、判断が難しい」ものであると論じています。
しかしいくら「差別じゃなく区別だ」と言われても、日本のヒップホップには「外人」という言葉が日本での差別と社会的スティグマを描写する用法で使われる事例があります。
ブラジルで生まれ日本に移民として来た愛知県のアーティストPlaysson の「Gaijin」(2020)は「真っ金金の外人/あの坊ちゃんには理解できん/意味分からないなんでこの外人/付けてるものが全部真っ金」と歌い、「外人」の社会的スティグマを見せると同時に、金銭的成功を「外人」に結びつけて肯定的な意味に裏返しています。彼のもう一つの曲「Real Trap」(2020)では、犯罪や暴力を描写しながら自分の男らしさを自慢する歌詞の流れで、「隣にコカインの売人/そうだ俺らはクソ外人」と歌い、「外人」が示す否定的なイメージを自ら宣言することで意味の裏返しを見せています。
なみちえの「Y◯Uは何しに日本へ?」(2020)でも、「外人」が示す日本での社会的スティグマをより直接的に確認できます。日本を訪問した外国人を素材とする同名のテレビ番組をタイトルで思い起こさせるこの曲で、なみちえは「見た目ガイジンの物語」と自分を指して、日本の「単一性」に直接言及し、意図的に英語の歌詞を配置して「外人」を大げさに演じる表現を入れるなど、「外人」に押しつけられている日本の社会的スティグマを強く意識させています。
長崎出身のPower DNA の「外人」(2020)は、「外人」に対する社会的スティグマをより露骨に表現しています。イギリス人の母と日本人の父を持つ彼は、「ガイジン/ママ泣きながら歌う/ガイジン/30年住み税払っても/ガイジン」と歌っています。また見た目がいわゆる日本人ではない彼自身のことも「ガイジン」と呼び、「戦争なったらきっと殺される/(じゃあ帰れば?)/帰るもクソもねえ、ここが家」と述べています。これらの使用はII否定型と分類できるでしょう。
Moment Joon の「チョン」
『差別用語の基礎知識’99』は「チョン」の起源を「バカチョン」であるとして、それ自体には朝鮮人と関係する意味はなかったが、朝鮮人に向けた否定的な文脈での使用を通して差別的な意味合いが与えられたと推理しています。
朴君愛の論文「在日コリアン女性への差別とエンパワメント│ミドル・エイジの当事者の語りを通して見えたもの」(『女性学研究』21巻、2014)では、破損のあるカバンを「チョンカバン」と呼ぶ使い方が数十年前に存在したことや、またその呼び方が、朝鮮・韓国系の人と結びつけて否定的に使用するものだと理解している、ある在日朝鮮人の証言を匿名で紹介しています。
また『差別用語の基礎知識’99』は1991年に信州大学経済学部の客員教授が女性のパートタイム労働を「バカチョン」と呼んだ事例を紹介しています。この事例や先ほど挙げた証言、「バカチョンカメラ」という俗称などを総合して考えると、「チョン」には朝鮮・韓国系の人に対する差別的な意味と、対象を朝鮮・韓国系の人に限らない否定的な意味が混在していたことが類推できます。
しかし、少なくとも2010年代以降の日本で「チョン」が朝鮮・韓国系に対する差別用語として機能しているのは確かな事実です。高史明は「日本語Twitter ユーザーのコリアンについての言説の計量的分析」(『人文研究』183号、2014)という研究で、2012年11月5日から2013年2月16日の間で、日本語のツイッター使用者による朝鮮・韓国に関する11万3189件のツイートの中から、「在日」「韓国人」「朝鮮人」「チョン」のいずれかを含むものを収集して分析しています。集められたツイートの頻出語を検討した結果、「韓国人」「在日」「朝鮮人」「日本」「韓国」「日本人」の次に頻度の高い単語は「チョン」でした。このような資料は、朝鮮・韓国や朝鮮人・韓国人を否定的に描写する時に「チョン」が頻繁に使われているという認識を裏付けています。
その起源に関しては様々な説があるにもかかわらず、インターネット時代に再び差別用語としての力と地位を得ている「チョン」。このような状況を背景に、私の「チョン」の使用について考えていきたいです。私が「チョン」を使ったのは全部で11曲ですが(未発表曲まで数えると23曲)、その中から以下にいくつかを紹介します。
OI否定型の使用
・「KIX/Limo」(2020)の場合、「「あのクソチョン」と言われちゃった前のFucking バイト」と、他人の使用した「チョン」を「引用」することで、他人(外集団)によって「チョン」と呼ばれる場面を描写しています。
・「IGUCHIDOU」(2020)の場合、曲の終盤に客演アーティストを登場させて、「チョン公が日本のことについて何をごちゃごちゃ言うとんねん」というセリフを、他人の声で挿入しています。ラッパーのウシ君の名演技でできたこのスキット(寸劇)は、より明確なOI否定型の用法として分類することができるでしょう。
II否定型の使用
・「KIMUCHI DE BINTA」(2020)は、タイトルでも分かるように日本社会の朝鮮・韓国系に対する偏見が前面に現れている曲です。曲の前半、私は作り上げた低い声で韓国人に向けられた悪いステレオタイプを演じて(「部屋には食用の犬」「部屋の匂いはにんにく」)、また在日朝鮮人・韓国人に関する陰謀論の内容もそのまま事実であるように歌っています(「俺の社長は在日/パチンコで儲けて日本を滅ぼすため頑張ってる金持ち」「土曜日みんな梅田で会って日本を滅ぼす陰謀を立てた後はパーティー」)。
後半は曲調をメロウなものに変えて、悲しげな声で「説明しても無理/チョンである罪/違うと言っても俺のことは見えないふり」と歌っています。ここで私は「チョン」のステレオタイプが事実ではないことを説明していますが、それでも自らを「チョン」と呼ぶのは、少数者の声は無視され否定されるという社会的スティグマを見せるためであります。
これは、前に紹介したPower DNA の「外人」の使用や、NワードのII否定型とも共通する用法で、該当用語が意味する否定的なイメージをその個人に投影せずとも、彼らが社会的に置かれている状況を見せることで、社会的スティグマを見せています。つまり、「チョン」ではないにもかかわらず自らを「チョン」と自嘲的に呼ぶことで、私が置かれた状況を見せたかったのです。したがってこの場合の「チョン」の使用はII否定型と分類できるでしょう。
・「Home/CHON」(2020)のサビの歌詞は「My Home 仕事終わったあと帰る唯一のHome/俺はチョン 家に帰った後も「帰れ」と言われるチョン」です。この場合の「チョン」を使った自己定義も、「チョン」の否定的なイメージが自分に当てはまることを認めるのではなく、むしろその言葉が表す社会的スティグマを描く自嘲的な使い方で、II否定型と分類できるでしょう。
II裏返し型の使用
・「KEN THE 390 - Nobody Else」(2019)に客演で参加した際の歌詞では、「海を渡ってきたチョンの麒麟児」という表現を使っています。韓国・朝鮮系に対する蔑視的な意味以外にも、本来「愚かな」という意味を持つ「チョン」に、「天才」を意味する言葉を結びつけることで、既存の否定的な意味を裏返すことを意図していて、これはII裏返し型と分類できるでしょう。
・#AOTY2020 Freestyleには「日本語ラップのベストアルバムを作ったのはチョン」という歌詞があって、これは私自身を指しています。「チョン」である自分が注目すべき成果を手に入れたと自慢する内容であって、これもII裏返し型と分類できるでしょう。
・TENO HIRA (2020)には、「感じてる 俺の中の彼のルーツを/だからこのクソチョンこそ日本のヒップホップの息子」という歌詞があります。「彼」とは2018年に亡くなったECDさんで、私は彼とのつながりを根拠に自分が日本のヒップホップの継承者であると主張しています。「クソチョン」という表現で「チョン」の否定的意味を強調しながらも、自分は部外者ではなく当事者であると宣言することは、私が思う日本のヒップホップの閉鎖性を逆転させることであって、II裏返し型と分類できるでしょう。
IO否定型・IO裏返し型の使用
・Home/CHON には「今日は俺、昨日は彼女、明日は君がチョン/今日は俺、昨日は彼女、君も明日はチョン」というブリッジ(つなぎ)があり、曲の最後には「ただ考えがちゃう(違う)と「洗脳されたチョン」?/じゃそのロジックならばお前さんの親、社長、首相、いや、〇〇さえも」という歌詞があります。これは私自身に向けられる否定的な意味の「チョン」をその使用者たちにも使うことであって、IO否定型と分類できるでしょう。
しかし、「チョン」と呼ばれる誰かではなく、誰がチョンと呼ぶのかという「主体」に焦点を当てると違う分類ができます。私はここで「考えが違う人なら誰でもチョンと呼ぶ人々」について歌っています。これは言い換えると、ある特定の人々(もちろん韓国・朝鮮系はその構成員になれない)が、「誰がチョンなのか」を決める力を持っているということです。私がその「特定の人々」の母や社長、首相、そして〇〇さえも「チョン」だと宣言するのは、「誰がチョンなのか」決める権利を彼らから奪いたかったのです。このような立場の逆転は、自分と意見が違う人を攻撃するための「チョン」を武器として使う人々を批判するためであって、これはIO裏返し型と分類することもできるのではないかと思っています。
結論、そして「在日」
以上の日本のヒップホップにおける差別用語の使用事例の分析を基に、最初の二つの問い「大衆音楽での差別用語の使用は、聴き手の「社会的スティグマ」の認識に、どのような影響を与えるのか」と、「大衆音楽での差別用語の使用は、言葉の「意味の取り戻し」の側面を持つのか」に答えてみましょう。
「大衆音楽での差別用語の使用は、聴き手の「社会的スティグマ」の認識に、どのような影響を与えるのか」
「外人」また「チョン」に関しては、その言葉を使って日本での差別の経験を聴き手に伝える試みが日本でも(数は少ないですが)確認できます。また、なみちえの「おまえをにがす」や私の「Home/CHON」のように、差別用語が示す社会的スティグマ自体に対する批判だけではなく、そのスティグマと「言葉」の関係自体を問う事例も確認されました。
しかし、日本でのNワードや「ジャップ」の使用は、「外人」「チョン」の使用とはまた違う用法を見せています。例えばPower DNA が使う「外人」からは、彼と彼の母が「外人」と呼ばれながら経験してきたことが伝わりますが、ウィリーウォンカのNワードの使用やTAKABO の「ジャップ」の使用からは、その言葉によってアーティスト本人がどんな経験をしてきたか見えづらいです。歌詞の中の文脈の提示が不十分であるだけではなく、またAwich のように曲以外で自分の立場や背景を述べる場合も極めて少ないです。
アーティスト本人と社会的スティグマとの関係性がよく見えないにもかかわらず、Nワードと「ジャップ」が使われるこれらの事例は、日本のヒップホップで差別用語を使うこと自体が「社会的文脈」よりも「ヒップホップの文脈」で行われている可能性を示しているのではないでしょうか。アーティスト本人たちから反発されるかもしれませんが、できればその反発からもう一歩踏み出してもらって、その差別用語と社会的スティグマと彼ら自身の関係を、より詳しく聞きたいのです。単純に「それがヒップホップだから」使ったのでなければ、その言葉とどのような関係を結んでいるかを述べてほしいです。聴き手はそこから日本での差別について考えることになるでしょう。
「大衆音楽での差別用語の使用は、言葉の「意味の取り戻し」の側面を持つのか」
残念ながら日本のヒップホップの場合、答えは否です。「外人」も「チョン」も、ある特定のアーティストによる使用はたしかに確認されますが、ガリンスキーらが提示した意味の取り戻しの第二段階である「集団的使用」は、確認されていません。今回の議論では扱えなかった「Bitch/ビッチ」まで範囲を広げると有意義な規模の集団的使用が見えてくるかもしれませんが、内集団の構成員同士で「外人」「チョン」「ビッチ」とお互いを呼ぶようなことは、今回の研究では見つかりませんでした。
音楽以前に、そもそも日本で「言葉の意味の取り戻し」の事例がないのは、なぜでしょうか。怖いから、かもしれません。差別を受ける人が堂々と自分のアイデンティティを誇ることすら難しい中で、自分を苦しめる言葉を人前で自ら使うということは、もしかしたら今の日本の環境の中では不可能に近いのかもしれません。ガリンスキーらも指摘したように、意味の取り戻しには「堂々たる態度での自らの使用」が必要ですが、その結果笑われたり、もっといじめられるかもしれないのに「勇気を出せ」と言うのは、無責任かもしれません。
「ならMoment がやればいいやん」と言われるかもしれません。まあ、ここまで「チョン」を歌詞に使っていますしね。たしかに、私は人前で「チョン」を使うことは怖くありません。むしろその言葉を発することによる「力の逆転」を意図することで、また議論が始まることを愛しているのです。しかし、「「チョン」って、いわばNワードみたいなもんなんですよね」などと聞かれた時は、私は決して他の韓国・朝鮮系の人を「チョン」とは呼ばないと答えて線を引いてきました。
なぜ私は他人にはその言葉を使わないのか。集団的使用、つまり内集団の構成員同士の使用が成立するためには、私がその内集団の一部であることから始めなければなりません。ここで、私の日本での11年間、ずっと答えられなかった質問が浮かび上がってきます。同じように「チョン」という言葉が向けられる、「在日」と私の間の距離感・罪悪感・優越感・劣等感……私は、「在日」なんでしょうか。