『科学』2025年9月号 特集「量子は不思議か?」|巻頭エッセイ「人間性を失わなかった物理学者リーゼ・マイトナー」中井川玲子
◇目次◇
【特集】量子は不思議か?
量子は不思議か?……橋本幸士
もつれる量子と観測者──なぜ私は「量子は不思議」と思うのか……日高義将
量子を不思議にするもの──ちぎり絵の様なこの世界……森田紘平
電子の常識・非常識……谷村省吾
猫よりも友人が問題?……伊勢田哲治
量子と素粒子の不思議……北野龍一郎
量子を捨てよ,そして量子へ……広野雄士
量子力学の世界を拡げる……羽田野直道
量子物理学のいったい何が不思議なのか?……シュテファン・ホイスラー
不可知なものを美的にするとはどういうことか?……久保田晃弘
オームの法則から量子の世界へ……山本貴博
量子力学は人間の特殊性・非普遍性を炙りだす……佐藤文隆
量子力学の驚異──弦から一般相対性理論!……米谷民明
量子とともに……今田正俊
量子の自然観:日本での事始め……筒井 泉
[巻頭エッセイ]
人間性を失わなかった物理学者リーゼ・マイトナー……中井川玲子
脳は数をどう捉えるか──相対的な数の大きさの脳内表現……林 正道
一見無駄に見えて本当に無駄かもしれない現象の進化──原生生物アセトスポラのRNA編集……矢吹彬憲
植物感染性微生物の二面性──善と悪を分ける分子メカニズム……氏松 蓮・晝間 敬
ドラゴンは夢を見るか──睡眠とクラウストラムと科学と……乘本裕明
[連載]
17~18世紀英国の数学愛好家たち4 教科書から数学を学ぶ……三浦伸夫
3.11以後の科学リテラシー152……牧野淳一郎
ウイルス学130年の歩み3 根絶間近のウイルス:ポリオウイルス……山内一也
[科学通信]
奇跡の出会い! 新種の蝶の化石……相場博明
次号予告
表紙デザイン=佐藤篤司
環境衛生科学者フランク・A・フォン・ヒッペルの著書『化学が世界を変えた』(ニュートンプレス,横田弘文監訳)を翻訳したとき,初めてリーゼ・マイトナーというウィーン出身の女性物理学者の名前を知った。著者の曽祖父はフランク・レポートでも知られるノーベル物理学賞受賞者ジェイムズ・フランクで,家族の視点から書かれた終章にフランクの友人マイトナーが登場した。女性の大学進学すら難しかった時代に大きな業績をあげたことに驚き,それが広く知られていないのを不思議に思った。その後読みやすい伝記が米国で出版され,ぜひ彼女の人生を日本の読者に伝えたくなった。岩波書店編集部に紹介すると興味をもっていただけ,『リーゼ・マイトナー 核分裂を発見した女性科学者』として刊行することができた。
マイトナーは純粋に物理学に魅かれて,男女差別とユダヤ人迫害を受けながらもベルリンで研究に励んだ。身に危険が迫ると,科学界の仲間たちに助けられてスウェーデンに亡命した。手紙のやりとりで化学者オットー・ハーンと共同研究を続けて核分裂発見に至ったが,この功績でノーベル賞を受賞したのは不当にもハーンのみであった。マイトナーはマンハッタン計画に招かれてもそれを拒んだ。戦後は,ナチスに加担した責任を認めず歴史を修正しようとする人々とはやっていけないと,ドイツの職に戻らなかった。
差別,政治的事情,関係者や組織の思惑が重なり,歴史が書きかえられるなかでマイトナーは埋もれ,死後数十年たってやっと,正当に評価すべきと見直されている。それを多くの人に知ってほしいと,著者マリッサ・モスはこの伝記を執筆した。私もそう願い,読者にマイトナーの生き方から現代の自分についても考えてほしいと思った。
伝記の翻訳にあたって,高校物理や大学の入門的な物理を勉強した。おもしろくて夢中になって学んだ。なぜ学生の頃に興味をもてなかったのかと何度も考えた。女性である自分は理系向きではないと無意識のうちに思い込んでいたように感じた。理系専門職の女性がまわりにいなかったせいだろうが,そんな環境でもマイトナーは物理学に魅かれた。他の女性科学者についても知りたくなり,あれこれ資料を読んだ。マリー・キュリーや娘のイレーヌ・ジョリオ・キュリーと働いた40人以上の女性科学者,イレーヌの夫フレデリックのもとで研究した物理学者の湯浅年子,ウィーンのラジウム研究所にいた多くの女性研究者,男性2人がノーベル賞を受賞することになる研究に大きく寄与した物理学者の呉健雄,長年無給で働きノーベル物理学賞2人目の女性受賞者となったマリア・ゲッパート=メイヤー,物理学者の米沢富美子,地球科学者の猿橋勝子,初期の理化学研究所で研究した女性科学者たちなど。彼女たちの活躍を10代の頃の私に教えてあげられたらと思う。とはいえ,遅ればせながらマイトナーのおかげで物理学に興味をもてるようになったのはうれしい。
マイトナーは生涯音楽を愛していた。ピアノの腕に優れていた恩師ルートヴィッヒ・ボルツマンやマックス・プランクの演奏を聴き,核分裂発見に協力した甥の物理学者でピアノの名手オットー・ロベルト・フリッシュと連弾を楽しんだ。ハーンとは研究室でブラームスの曲を口ずさんだ。私も仲間入りしたくて翻訳の合間にブラームスのピアノ曲を弾いた。遠い偉人がいつしか大事な心の友になっていた。マイトナーの声が多くの読者の心に届くよう祈っている。