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思想の言葉:「実証」という言葉について 松沢裕作【『思想』2026年1月号】

◇目次◇

思想の言葉 松沢裕作

加速・疎外・共鳴
──近代に関する新しい批判理論
ハルトムート・ローザ/出口剛司 訳

政治思想史研究の30年を振り返る
──共和主義史観・作為の論理・解釈学・歴史哲学
権左武志

階級闘争の超克としてのロールズの正義の諸原理
エリザベス・アンダーソン/奥田淳平訳

カント認識論の普遍性とその周縁
──視覚障害の事例をめぐって
繁田 歩

熊十力「新唯識論」の哲学的展開
──主客対立をめぐる現代新儒家からの応答
胡 婧

欲動の主体とその変遷
──リズムの精神分析(4)
十川幸司

概念史,認識論的歴史,日本の近代化
──世界の近代化と前近代世界の概念体系(5):「宗教」概念の成立と展開
彌永信美

 
◇思想の言葉◇

「実証」という言葉について

松沢裕作

 日本語で歴史学について述べる際に、語「実証」は頻出である。歴史学とは「史料」にもとづいて「実証」することだ、という説明は、とりわけ初学者向けの説明にはしばしばみられる。「実証主義的歴史学」「実証史学」という用語も用いられる。

 ところが、戦後日本の代表的な歴史学方法論書のひとつである林健太郎『史学概論』(有斐閣、一九五三年。新版は一九七〇年)は、歴史学方法論における語「実証」の使用に反対している。林は、歴史学の特質を「実証的」であることに求めるのは、「日本の通俗の用語法」ではあるが、それは適当ではないという。林によれば「具体的なデータを重んずるという程の意味」であれば、他の諸学にも共通の要請であって、歴史学の固有性を示すことにはならない。林は「実証的」に代わって(「史料批判」という意味での)「批判的」という言葉の使用を提言し、従来の日本語でいえばこれはむしろ「考証」という語に近い、とする。

 見逃せないのは、西洋近代史、とりわけドイツ史を専門とする林健太郎が、この箇所に注記を付して、「その他私が特に「実証的」という言葉を避ける理由は、それがコントの実証主義を想起させるからである(中略)コントの実証主義に結びついた歴史学はいわゆる「批判的方法」を唱える歴史家たちによってはげしく排撃されたものである」と述べていることである。ここで「「批判的方法」を唱える歴史家たち」と呼ばれているのは、ランケにはじまるドイツの古典的歴史学を指している。こちらの方が今日の語感でいえば「実証主義」に近そうであるが、一九世紀の文脈では、コントに由来する「実証主義」は、ランケにはじまる「批判的」歴史学と敵対していたのだ、と林は述べている。

 林の指摘を踏まえると、語「実証」はなかなかに複雑な史学史的背景を負っているのではないか、という印象を持つ。「史料にもとづく実証を」という日本語の言葉遣いそのものが歴史を持つことは、歴史学という営為の反省的考察にいささか寄与するところがあるかもしれない。筆者は最近「史料」という単語の来歴に関する論文を公刊したが(「明治期日本における「史料」概念の変遷」、小澤実・佐藤雄基編『グローバルヒストリーのなかの近代歴史学』東京大学出版会、二〇二五年)、「実証」についても同様の作業が必要なのだろう。

 それを全面的に展開する能力は筆者にはないのだが、辞書を引くぐらいのことはできる。『岩波哲学・思想事典』(一九九八年)の「実証主義」positivismの項(安孫子信執筆)を見ると、「実証主義」とは、「有効な知識の形態として科学的知識のみを認め、その立場から知の統一を目指す哲学的潮流」とされ、やはりコントの名前と結びつけて記述されている。そして、コントの学説にそって「経験的に確認される事実の規則性(現象法則)によってのみ現象を説明しようとする立場」といったより詳しい説明が続く。

 こうしたコント的な法則の探究が、林風にいえば「日本の通俗の用語」としての「実証」とは違うものであることは明らかだ。林の著書で説明されるドイツ史学史によれば、ランケ以来の「批判的」歴史学は個別具体的なものへの着目を特徴とするのであり、コントの系譜に位置づくランプレヒトは、歴史の科学化・法則的把握を訴えて、当時のドイツ歴史学主流と論争したのであった。

 林の『史学概論』からさかのぼること二十余年、東北帝国大学で長く教鞭をとった西洋史家大類伸の手による『史学概論』(共立社、一九三二年)のなかでは、「実証主義」は「ロマンティック」(ロマン主義)と対比され、「群集、種族、社会、個体、技術、経済などの一層明瞭な言葉を用ひた」とされる。ここでも、集合的な人間一般の行動を法則的に捉える態度を「実証主義」と呼んでいる。もっとも、大類がここで参照しているのはクローチェ『歴史の理論と歴史』であるが、クローチェはランケもランプレヒトも「実証主義的歴史叙述」(La storiografia del positivismo)に含めている。

 一方、一九三八年の大塚久雄『株式会社発生史論』(有斐閣、一九三八年)の「序」には、「できうる限りオリヂナルに近い資料に遡つて史実の正確を期するにつとめた」「理論と実証との幸福な結合の存在するところにのみ科学性は成立しうる」といった表現がみられる。これは今日の日本の歴史学における「実証」の意味に近い。

 ここから先の探究は専門家に任せたい。ヨーロッパの思想潮流としてのpositivismが、日本語では「実証主義」と訳されたこと、それとは重ならない形で「史料にもとづいて何事かを述べる」という意味での「実証(主義)」という単語が用いられてきたことが確認されればそれでよい。確認されているならば、そういうものとして歴史学者が「実証」という言葉を使ったとしてもそれほどの支障は生じない。法学における「法実証主義」、哲学における「論理実証主義」等々まで説き及ぶことは筆者の手に余る。

 では、なぜかかる詮索を敢えてなしたかといえば、今日においても、歴史学における語「実証」は、時に隣接諸学の「実証」と別様に用いられていること、そしてそれは「学問」や「科学」をめぐる見解の相違と密接に関係していることを想起するためである。たとえば、「実証政治学の入門」として書かれた加藤淳子『政治学原論』(東京大学出版会、二〇二五年)では、実証的positiveであることは、経験主義的empiricalであることと等置され、「観察に基づいて証明したり、反論したりすることを意味」するとされる。これはおそらく歴史学における用法と違わない。しかし次いで加藤は、一九五五年の保守合同を例に挙げながら、その「事実」がどのように他の(国や時代の)例にも当てはめられる(「一般化」できる)のか、と議論を進める。日本の歴史学者にとって、保守合同の「実証的研究」といえば、政治家史料や報道を精緻に読み込み、事実関係を明らかにすることを指すだろうが、加藤の「実証」はそのようなことを目的にしていない。一方、コント流「実証主義」の意味に親和的なのは「実証的政治学」の方であろう。この先には近年喧しい社会科学の方法論をめぐる議論が横たわっている(井頭昌彦編『質的研究アプローチの再検討』勁草書房、二〇二三年)。人文・社会諸学における「実証」という言葉の多義性に多少の関心を払っておくことは、それぞれが隣接諸学との関係を見定める上で無駄ではあるまいと思う。

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