第20話 うつろう日本語の姿(一)
岩波文庫はもうすぐ創刊100年を迎える。ということは、創刊以来の岩波文庫には、昭和2年から現在までの、少なくとも100年分の日本語の姿が映り込んでいると言えそうだ。さらには古今東西の古典名著を収めるという方針の通り、日本に限ってみても、古くは奈良時代、712(和銅5)年に撰上されたという『古事記』以来の書物が黄帯と緑帯に入っており、時代ごとの日本語の様子やうつろいを目に入れることもできるのである。何話かに分けて、そんな日本語の宝庫めぐりをしてみよう。
そもそも日本の古典を収めた黄帯の本を読んでいると、自ずと日本語の変化にも意識が向く。奈良から江戸にかけての日本語は、現在と同じ「日本語」と呼んで済ませるには、大きな違いもあるからだ。というよりも、原文を見てにわかには読めないこともある。
そもそも日本文学史や思想史の筆頭に登場する『古事記』の原文は、すべて漢字で記されたものだった。『古事記』(倉野憲司校注、黄1―1、初版1927、最新の改版2007)には、訓み下し文、脚注に加えて原文、解説、歌謡全句の索引が収められている。太安万侶(不明―723)による序に続く本文の冒頭を見ると、こんなふうに始まる。
「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。」
訓み下しを並べてみよう。
「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。」
世界が生じるとともに最初に現れた神について述べたくだりだ。冒頭の「天地」は、いまではなにごともなければ「てんち」と読むところ。また、訓み下し方は担当者によって違ったりもする。例えば『新編 日本古典文学全集』(第1巻、山口佳紀、神野志隆光校注・訳、小学館、1997)では、原文4字めを「發(あらは)れし」と訓み下している。他にも「発(おこ)りし」(「古事記ビューアー」國學院大學)など、訓みの判断は人によって分かれているようだ。もっとも、これが最初に書かれた当時、どのように読まれていたのかを直に知る術もなく、各種の文献を頼りに推定する外はないわけだ。
この点で併せて眺めると面白い本に、本居宣長(1730―1801)の『古事記伝』(全4巻、倉野憲司校訂、黄219―6~9、1940―44)がある。医者をしながら国学に取り組み、古代日本語とでもいうべき古い言葉で記された『古事記』をとことん精読し、註釈を施したのが『古事記伝』だった。なんでも1764(明和元)年というから、宣長が35歳の年に着手して、全44巻を書き終えたのは1798(寛政10)年、69歳のときだという。じつに30余年の歳月をかけて、倦まず註釈の作業を続けた偉業である。そしてこれがまた興味の尽きない本なのだ。現役の文庫で『古事記伝』を入れているのは、私が知る限りでは岩波文庫だけである(ただし「神代篇」のみ)。戦前、改造文庫の『本居宣長全集』に途中まで入っていたことがあるようだ。
江戸中期の日本語を覗いてみるという意味でも、宣長の書きぶりを少し見ておこう。『古事記伝』一之巻で宣長は、『古事記』がどのような「文體」であるか、それをいかに読むべきかといった概要を述べている。全篇が漢字で記された『古事記』の文体について、宣長はこう論じる。
「大體(オホカタ)は漢文のさまなれども、又ひたぶるの漢文にもあらず、種ゝ(クサグサ)のかきざま有て、或は假字書キの處も多し。久羅下那洲多陀用幣流(クラゲナスタダヨヘル)などもあるが如し。」(第1巻、45頁)
18世紀くらいの文章になると、いわゆる古文よりは読みやすいように思うがいかがだろう。漢字さえ分かれば、意味をとるのはそんなに難しくない。ただし、江戸期に発行された版では、仮名は草書体で印刷されているので、慣れていないと文字を判別できないかもしれない。それはさておき、いまのくだりを現代語で言えば、こうなろうか。「『古事記』の文章は、大方のところ漢文として書かれているが、ひたすら漢文だけというわけではない。種々の文体が使われていて、中には仮名書きのところも多い」。というので、「くらげなすただよへる」という和語の音に漢字を当てた箇所が引かれている。宣長は、さらに詳しく「書きざま」の違いを論じているがここでは措こう。
『古事記』はすべて漢字で書かれており、かつ、漢字の使い方も一通りではなく、何種類かが混在している。それだけに、宣長は一言一句を疎かにせず読み抜く必要があるものの、漢文や後の時代の文章と比べて「いとたやすからぬわざなり」と、その難しさについても率直に指摘している。加えていえば、宣長の時代から見ても千年以上昔の書物である。書かれた文字の読み方だけでなく、それらの言葉で指し示される対象自体がよく分からないということがあってもなんら不思議ではない。また、だからこそ人によっては謎解きのように没頭したり楽しんだりもできるわけである。古代の日本語を読むことについては、『万葉集(一)』(佐竹昭広、山田英雄、工藤力男、大谷雅夫、山崎福之校注、黄5-1、2013)巻末の大谷雅夫による解説「万葉集を読むために」もどうぞ。巻頭の「籠もよ み籠持ち ふくしもよ」(鎌倉期の写本では「籠毛輿美籠母乳」)の「籠」の字からしてなんと読むのか、契沖や賀茂真淵らをはじめ、後世の訓み方も含めて、「これで絶対確実」ということの難しさを窺い知ることができる。何百年にもわたる読解の試みの果てに、いま私たちが目にしている本がある。
いやはや、それにしてもなんというスローリーディングがあったものだろう。
(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)
[『図書』2026年2月号より]




