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山本貴光 岩波文庫百話

第7話 岩波文庫を全部読む

 岩波文庫全点を集め読むというプロジェクトに取り組んでいる。いささか私事にわたることで恐縮だが、人がどのようにしてそんなことをするに至るのかという一例としてご紹介してみたい。

 集め始めてかれこれ30年くらいが経つだろうか。1994年に大学を卒業してゲーム会社のコーエー(現コーエーテクモゲームス)に就職した。仕事で自由にできるお金ができたのをよいことに、毎日のように街の本屋や古本屋に通い、職場のデスクや自分の部屋を本で埋める生活が始まる。

 それ以前も、大学に通いながら古本屋や書店に行ってはあれこれ本を買って読んだりしてはいたけれど、アルバイトをするといっても何分にもお金のない学生のこと、お店に立ち寄るたび書棚に並ぶ気になる本たちを横目に、文庫や新書を手にすることが多かった。岩波文庫を手にとる機会も少なくなかった。

 それにしても、なぜ岩波文庫なのか。小学生の頃から本を読むのとコンピュータを触るのが好きな子供で、中高生の時点でもそれなりにものを読んではいた。とはいえたかは知れている。大学でいろいろな講義を聴いたり友人たちと話すうちに、自分がいかにものを知らないかと痛感する。せめてもう少しなんとかしたい。さてどうしたものか。それは1990年代はじめのことで、インターネットを使い始めてはいたものの、いまのように多様な知識やデータが蓄積・公開されている状態ではなかった。頼れるのはなによりも本だった。

 そこで思いついたことがある。分野を問わず各方面の雑誌に目を通してみる。同じく分野を問わず、それぞれの領域で古典や必読と言われる本をともかく手にしてみる。図書館に各方面の雑誌が置かれていたので、総合雑誌、文芸誌、思想誌をはじめ、政治、経済、法律、歴史、哲学、数学、科学全般、物理学、化学、生物学、コンピュータ、医学、建築、美術、音楽、写真、漫画、スポーツ、週刊誌など、1990年代前半に刊行されていた各種の雑誌やバックナンバーを行くたびに眺めた。このやり方のコツはただ一つ。その時々の自分の興味関心はいったん傍に置いて、ともかく手にとり、少なくとも目次に目を通してみることだ。

 同様に、これも図書館のお世話になりながら、分野を問わず古典や名著と呼ばれる本を探し読み始めた。とはいえ、そもそも分野ごとになにが古典や名著とされているかをよく知らなかった。各方面の入門書や当時よく見かけたブックガイドを手がかりにして、あとはいわゆる芋蔓式である。あれこれ見るうちに、どうもこの本や人物の名前をよく見かけるなと分かってくる。それで例えばマルクスの『資本論』が気になる。探してみると、翻訳が複数あると分かり、ますます重要そうだと感じる。そのマルクスがエピクロスやヘーゲルに触れていると見ればそれらを探しにいく。よく分からないなりにこれを続けていると、やがて古典と呼ばれてきた本に出合う確率も高くなる。それぞれの著者の全集類や「世界の名著」「日本の名著」などのアンソロジーを別にすれば、どうも岩波文庫を手にする機会が多い。

 それぞれの本をどれだけ理解できたかは別として、本や知識や人物が網の目のように関わりあっている様子が見えてきて、分野を問わず諸学術全般の歴史に興味が湧いてくる。岩波文庫が一種の古今東西学術マップβ版として参考になるのではないか、と思えてきた。

 岩波文庫は、単行本や全集類と比べて廉価で手に入れやすいのはもちろんのこと、基本的には原典の全訳を収めている。一部、重訳や抄訳もあり、また、自然科学や芸術方面、アラビア語やアジア、アフリカ諸言語の文芸など、手薄な方面もあるとはいえ、それらについては必要に応じて他の本も見ればよい。ともかく、ここに集められた本を見てゆけば、結構な範囲をカヴァーできそうだ。そう見込んだわけだった。

 それなら、いっそのことこれまで刊行された岩波文庫を全部見てみよう。そう考えるようになるのは時間の問題だった。まずは岩波文庫の巻末に載っている刊行書リストを見る。そのうち目録があることを知って手にとる。創刊70周年の1997年には岩波文庫の別冊として『岩波文庫解説総目録1927~1996』(全3巻、別0―3)が刊行され、以後しばらく、この目録を文字通り座右に置き、辞書や事典と同様ことあるごとに手にした。その時点で岩波文庫の刊行点数は約5,000冊と謳われており、考えようによってはそれだけ見ておけば、いわゆる古典のかなりの範囲を網羅できるかもしれないとも想像したものだった。その想定が甘いと知るのはもう少し後のことである。ともあれ、そのようにして岩波文庫を集め読み始めて今日に至っている。

 最後に現時点での進捗をお伝えしよう。青帯は残すところあと1冊。白帯は2冊。黄帯が20冊で、点数の多い緑帯と赤帯を合わせて残り700冊を切るかどうかというところ。3桁ならどうにかなる。あと1、2年のうちにはと念じている。別巻はそもそも点数も少なく、一読するだけならさほどの手間ではない。

 と、あらましこのようなことがあって、この連載に至る。もちろん、将来こんなことになるとは露知らず、ただ楽しみのためにしてきたことなのだけれども。

(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)

[『図書』2025年8月号より]


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著者略歴

  1. 山本 貴光

    1971年生まれ。文筆家、ゲーム作家。現在、東京科学大学 未来社会創成研究院・リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学環境情報学部卒業。著書に『文学のエコロジー』(講談社)、『世界を変えた書物』(橋本麻里編、小学館)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)、『記憶のデザイン』(筑摩書房)など。

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