web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

仲野麻紀 白いサティとブラックアトランティック[『図書』2025年9月号より]

白いサティとブラックアトランティック

 

 今年2025年はフランスの作曲家エリック・サティの没後100年目となる。

 わたくし自身なぜ渡仏したか明確な理由がないまま、しかしサックスを吹き続けていたいという軸だけはぶれずに四半世紀この国で生活をしてきた。演奏活動当初から音楽ユニットを組み、ジャズ、あるいはインプロヴィゼーションという分野に括られつつも、エリック・サティの楽曲を演奏することをライフワークとして今年作品集という形でレコードを制作した。

 波が打ち寄せては引く様な、風で帆船の帆が膨らむ呼吸の様な、“ゆっくりと苦しみをもって”、と副題にある《ジムノペディ第一番》。何を異国と呼ぶかわからないが、どこからともなく東の方から聞こえてくる旋律。その音の隅々に、静かな熱量と比例して果てしない孤独の影が漂い、我々の耳に入り、やがて余韻を残し去っていく《グノシエンヌ》。あるいはラグタイム調の伴奏を可能にするディーバの声、コケティッシュなささやき、鳥が雲の上まで飛んでいってしまいそうな不安と震え。《エンパイア劇場の歌姫》《あなたが欲しい》《三つのメロディー —天使—》などの歌曲。

 楽曲名どれをとってもアイロニーとユーモア、そして悲壮に諧謔性があり、モチーフの反復の中に佇むサティの姿が見て取れる。彼の著書「健忘症患者の回想録」におさめられた独特のものの捉え方ともいえるフレーズの連続。その中にある「わたしは白いものしか摂らない(食べない)」という一節にはどんな意味が隠されているのだろう。もしかしたら神秘主義への傾倒、そして一種揶揄的なほどの純白への信仰とが合わさっているのかもしれない。

 彼が生まれたのは1866年。時は第三共和政をやがて迎える。植民地制度に何の疑いもなく領土拡大をし、そこから生まれる富を自国に反映させ、“力”の誇示ともいえる万国博覧会はパリでおおよそ7回開催された。サティも1889年フランス革命100年記念万博に足を運んだという。万国博覧会開催を契機に建てられた、今ではパリのシンボルである、セーヌ河左岸に位置するエッフェル塔。その対岸右岸北部にはモンマルトルの丘がある。語り草になっているが、当時の芸術家たちが集まるモンマルトルという界隈でサティの20代は様々な出会いから刺激を受けたという。都市計画によって輝きを増すパリの街は時間があればどこまでも歩いていける距離圏だが、やがてサティは南の郊外の街アルクイユまでの約10キロ強を毎晩モンマルトルから自宅へ歩いたそうだ。彼はアルクイユの街で急進社会主義委員会に入り、後にフランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いて地域に生きた。当時のフランス国民にとって、自国が外で何をしているか、一部の人々を除いて無批判でいられる社会であったことも事実ではないだろうか。欧州という括りではなく、海を越えた外という世界。

 サティが生きたパリに焦点を当ててみると、その外とは郊外にあたる。では“郊外”とは何だろう。1980年代「郊外 Banlieue=移民」という図式の中でフランス大都市を捉えるようになる時期があったものの、『エリック・サティの郊外』(オルネラ・ヴォルタ著、昼間賢訳、早美出版社)ではパリ郊外の定義として「地帯=ゾーン」という呼称が登場する。城壁、空き地を合わせたそれは、ひとつにパリを仮想的侵略者(⁉)から守るためのもの、そして都市への居住制限も兼ねていたという。いうならば主体となる都市の人々以外は郊外という吹き溜まりに生きるしかない、ともいえる。では郊外に生きる人々とは誰のことを指すのか。

 サティにとっての郊外とは当時はボヘミアンと呼ばれていた人々との関係であったかも知れない。煌びやかなパリの雰囲気と経済、それを支える労働という資本。音楽がある空間というのは今でこそサロンコンサートもホールコンサートもお金を払えば誰でも参加できるが、当時は上流階級の集う空間。対してサティが演奏をしたカフェ・コンセールとは市井の人々が集う音楽が鳴る場だった。前述した1889年のパリ万国博覧会の年にサティはアルクイユに引っ越した。そして翌1890年に作られた《グノシエンヌ》は会場で見聞きしたガムランや東ヨーロッパの音階からインスパイアされたといわれている。サティがパリと郊外を毎日往復していたその時間。あちらの世界とこちらの世界。その境界を孤独に日々歩き続けた彼が作り出す音楽から、人々は生きるという根源的な肯定を聴き出すのではないか。地に足をつけ生きる郊外の人々の生活空間と、光の街パリ。エリック・サティの人生とは、この両者を見続けたものであったはずだ。

 帝国主義真っ只中、実際に外を体験する術のない市民にとっての万博は、外に触れられる機会。主催する国のプロパガンダという名の下で。しかし都市の外には現実の“外”との共存が実在していることを、サティは白の世界に身を置きながら社会と世界を肌身で感じて知っていたはずだ。

 白の世界……?

 第一次世界大戦後の1919年、パリでパン・アフリカ会議が行われた。ようやく人権的見解から植民地支配下で諸権利を奪われていたアフリカの黒人をはじめカリブ、北アフリカ、北米の人々との対話が始まる。

 植民地制度の下で自国に富をもたらしたフランス。ではその富がどこから生まれてくるのか、という想像ができるならばブルジョワ世界の虚構は明らかだろう。アフリカそして南大平洋、アンティール諸島など5つの地域の支配侵略は植民地積極肯定、先住民積極否定が常識であった。肌の色が違うという認識から生まれる断絶。それも一方的な差別。ここに共生という言葉は存在しない。国政の当たり前が盾となり、知ることのできない、いや問うことをしない世界は、その過ちを不可視にする。背後にはいつも経済(富)を理由に権力を振りかざす者がいることを、私たちは歴史から学んでいるはずだ。産業革命以降、戦争はひとつの軍需産業であると断言できる。

 暗黒大陸という名称をつける優越性。境界線を引き、人々を引き離し断絶し憎悪を生み出した。奴隷貿易から始まり列国との競争の中で歯止めが効かなくなった植民地主義。そして奴隷船が海を渡るその海とは大西洋。

 2025年4月に刊行された『ブラック・カルチャー──大西洋を旅する声と音』(中村隆之著、岩波新書)では、キーワード、アフリカへの“帰還”を掲げ、カリブ海マルティニック出身の作家であるエドゥアール・グリッサンが発する「関係」への思索が散りばめられた画期的な本だ。しかもその「関係」とは記憶にある音=音楽を起点としている。主にはサハラ以南に焦点を当て、動線は西洋から西アフリカ、そしてカリブ海、ブラジル、アメリカにある。人類の根源的記憶にある声による語り、そして声は音であり、奴隷船の中、はたまた運ばれた大陸で、音の記憶だけを頼りに生き存えた人々のTrace、痕跡。やがて音は文字、文章による記録となり文学的展開から音が再び声へと円環を成す音楽の生成。生命という希望を音楽が導くその世界。経験という涙が音楽になる事実。不条理な歴史の中に在る人の命と行為を、限りない想像と圧倒的なリサーチで描いた本だ。

 この黒い本とサティの白さが交差する夢をみた。その理由はジョセフィン・ベイカーという存在にある。彼女は1925年、そう、サティが亡くなった約2ヶ月後にパリへたどり着いた。彼女の肌は褐色だった。一般的には植民地主義下にあって人道的、差別主義と一生戦い、また理想郷として12人の異なる出自の孤児を引き取り育てたとされるが、1960年まで続く植民地主義に生きる人々を満足させるに十分なシャンソンコロニアルと呼ばれる歌を歌い不動の人気を得て、興行的大成功をおさめた。

 彼女が抱き、影を帯びる出自への問いとコンプレックス。それをぬぐい捨てるように時代の流れにある「エキゾチシズム」に本土フランスで迎合する姿。コロン(入植者)への歌による目配せ。観客を魅了する天性の術。1931年に開催された植民地博覧会にみられるように、当時色濃い植民地意識からなる異国趣味が横溢していた背景がある。奴隷制、植民地とセットになった宗主国、そしてメディアが援護射撃するという微妙な関係が見て取れる。

 本土フランスの20倍の広さを仏領植民地領土として保持していた背景にあって、民衆の多くは当然の如く人種差別主義者であった。サティと共に時代を経験したダダ、そしてシュルレアリズムを牽引したアンドレ・ブルトンはじめ植民地主義に疑問を持つ人々は博覧会へのボイコットを促す動きがあったものの、少数派であったという。

 第二次世界大戦後はアメリカから多くのジャズミュージシャンが演奏の機会を得てパリをはじめヨーロッパに渡り活躍した。ひとつの要因に、アメリカよりも人種差別がゆるやかであったと、ものの本にはある。西欧におけるアフリカへの植民地主義的差別と、アメリカの人種差別は別問題であり、この現象を分析するには紙面が足りないが、新書『ブラック・カルチャー』に登場するケ・ブランリ美術館で2009年に開催された展覧会「ジャズの世紀」は、ジャズは人類の歴史であることを示唆する貴重なものだった。446頁に及ぶ図録にあるように、膨大なケ・ブランリ所蔵の旧植民地から収集されて保管展示されている楽器、そして紙媒体を網羅した資料の厚み。ジャズというものが、黒と白の区別からやがて混じり合い、混交が可能であることを教えてくれる。フランス側からジャズの歴史をみると、その発端に軍楽隊で黒人の楽士が白人と共に演奏をしている姿が見て取れる。それは1917年、サティとほぼ同じ年に生まれたスコット・ジョップリンが亡くなった年だ。

 サティが生き抜いた59年間という、時世と共にあった歳月。彼が体験した人生を譜面から読み取ること、残された書物から知ること。何より時代背景を知ること。人類による過ちであるからこそ学ぶべきこと。白鍵と黒鍵の間でラグタイム—パレードという曲を1916年に書いたサティの白さが眩しい。「私の肌がもし白かったら」と歌ったベイカー。彼女はそういった社会に生きた証人だ。白への偏愛、エリック・サティ。白への呪縛、ジョセフィン・ベイカー。

 『ブラック・カルチャー』内では、ポール・ギルロイが説くブラック・アトランティックが環大西洋、航海の帰着としてアフリカへの帰還へと導く。それは一種類の血を誇示するものではなく、正も負も一手に引き受けた人々の存在との関係をもちうることが、今我々の生きる姿であると読み取れる。当事者にはなれない。しかし関係とは、他者との関わりなくしてはないこと。その他者とは、わたくし自身である、という認識から始まる世界。

 勉強不足であるが、サティという白さを奏で聞く世界である2025年にあって、100年前の時代を捉えてみたかった。現在色彩豊かな音やリズムには多様という言葉が使われる。しかしこの語彙は昨今象徴的に使われていると思う。ではそれを実践するにはどうすればいいのか。著者の中村さんが大切に使う「混交」という言葉は、希望を能動的に捕まえようとしている。

 サティとベイカーの混交は直接的にはなかった。しかし時間と歴史の中で生成した文化的アイデンティティー、変容するアイデンティティーを内包する今を生きるジャズミュージシャンにより、その一片の音が聴けるはずだ。

(なかの まき・サックスプレイヤー)


『図書』年間購読のお申込みはこちら

タグ

関連書籍

ランキング

  1. Event Calender(イベントカレンダー)

国民的な[国語+百科]辞典の最新版!

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

新村 出 編

詳しくはこちら

キーワードから探す

記事一覧

閉じる