河合俊雄 『思い出のマーニー』──過去の時間との出会いと癒し[『図書』2025年10月号より]
『思い出のマーニー』
──過去の時間との出会いと癒し
『思い出のマーニー』の時空間
ジョーン・G・ロビンソン作『思い出のマーニー』は、スタジオジブリから映画化もされて多くの感動を呼んだように、すばらしい作品で、こころのリアリティを見事に捉えている。幼いころに父と別れ、再婚した母親を自動車事故で失い、親代わりに引き取ってくれた祖母も間もなく亡くなってしまって、少女アンナはひとりぼっちとなってしまった。養親とロンドンで暮らしていたものの、誰にも心を開かず孤独に暮らしていた。喘息も患っていたアンナは転地療法のためにノーフォークの養親の知り合いの夫婦のところを訪れる。そこでアンナは海辺にある「しめっち屋敷」に住む不思議な少女マーニーに巡り会う。2人で一緒に過ごすうちにアンナは次第にこころを開いていき、マーニーとの友情をはぐくむことを通じて癒やされていく。
物語が進んでいくにつれて、マーニーは現実に存在する少女ではなくて、アンナの想像の世界のなかの人物であるかもしれないことがだんだんとほのめかされていき、最後に風車小屋でアンナを置き去りにするかたちでマーニーは去っていってしまう。
せっかく信頼できる親友ができたのに、アンナにとってはこころの痛手となりかねない別れであったけれども、それと入れ替わるように、アンナは「しめっち屋敷」に引っ越してきたリンゼー一家の5人の子どもたちと、特に自分と同世代のプリシラと親しくなっていく。心理学で言われる「イマジナリーコンパニオン」(想像上の親友)だったマーニーとの関係が失われてしまうとともに、現実での友だちが現れて、それとの関係につながっていったようである。
マーニーとは屋敷の裏側の船着場で会っていたのに、今度は表通りの玄関から同じ家に住む子どもたちを訪れるようになって、想像の世界と現実の対比が物語の前半と後半、そして空間的に家の裏と表というようにうまく構成されているのが印象的である。多くの神話やファンタジー文学が現実の世界と「あの世」や『不思議の国のアリス』での「ウサギの穴」のなかのような「別世界」との対立によって成り立っているように、この物語も空間的にうまく空想と現実の2つの世界を分けて描き出している。
しかしさらにマーニーがアンナの祖母の子ども時代の化身のようであったことも明らかになって、アンナ個人の癒しを超え、時間の次元が現れてくる。『思い出のマーニー』、原題のWhen Marnie was thereも、時間と過去を強調している。そこでここでは連載の趣旨にも沿って、主に時間という視点からこの物語を読み解きたい。
時間の流れからの外れ
この物語では最後になって、親友として会っていたマーニーが単に想像上の友だちであったのではなくて、実はアンナ自身の祖母の子ども時代の姿だったということが、発見されたマーニーの日記や昔「しめっち屋敷」を訪れていたギリーという老女の話から明らかになる。アンナは自分の想像の世界に浸っていただけではなくて、別次元の時間に行って、マーニーに出会っていたのである。しかし主人公のアンナが、別次元の時間に入って行くことができ、またしかもそれが必要だったのは、彼女が通常の時間の流れに乗れず、それから外れていたためであると考えられる。
前回に取り上げた『モモ』における主人公のモモも両親を知らず、自分の年齢すらも知らず、名前も自分でつけたと言い張るように、歴史的・時間的秩序に属しておらず、通常の時間の流れに沿っていない。だからこそモモは、時間的秩序と通常の時間の流れをさらに強めて極端にしたような、灰色の男たちが勧めてくる効率的で機械的な時間に強い違和感を覚えた。そして時間をつかさどるマイスター・ホラに会いに行くことで時間の根源に到達でき、灰色の男たちと戦って打ち負かすことができた。
同じように『思い出のマーニー』におけるアンナも、通常の親子関係や時間の流れから外れている。彼女の両親は幼い時にいなくなったり、亡くなったりしていて、彼女を引き取った祖母も早く亡くなってしまっている。さらには養母となったプレストン夫人に対してもアンナはかたくなにこころを閉ざしている。養母が自分を世話してくれているのは愛情によるのではなくて、単に補助金目当てではないかと疑っている。同じように時間の流れと秩序に属してはいなくても、モモが全く時間の秩序から外れている、いわば自由なストレンジャーであって、そこに何のこだわりもないのに対して、アンナの場合は親子関係のような時間の流れに実は乗りたいのに、「あたしを、ひとりぼっちにして逝ったから、おばあちゃんなんかきらい」などと言うように、そこから見捨てられたというような恨みとこだわりがあるのが特徴的である。トラウマなどがあった時に、そこで時間が止まってしまうことがあるが、アンナのこころの時間は止まってしまっているのである。
親子関係が心理療法において重視されるように、親から子の世代への時間の流れは、一番通常の時間の流れを示している。もっとも文化や技術の継承としては、師匠と弟子のような時間の流れも存在するが、愛着や安心感などの気持ちの面に関しては、親子、あるいは保育園や養育施設のような親子関係をモデルにした養育者との関係による時間の流れが中心となるであろう。
時間のペア
時間は常に動いていて、今と思っていたのがたちまち過ぎ去ってしまって過去となるように、過去と現在の違いなどのように差異によって認識されることが多いので、ペアとして現れてくる。親子関係、特に母子のペアはその典型であるけれども、それはアンナの場合には機能していなかった。しかし時間のペアは親子関係だけに限られず、様々な可能性がある。たとえば河合隼雄(『生と死の接点』)が、若者が牛を探して、見つけて一体になっていく禅の「十牛図」の最後の図で老人と若者、ある意味で悟った者とこれから修行に向かう者が向かい合うことから指摘した「老若」もその一つである。『モモ』の場合はそれに似て、モモという少女と時間をつかさどるマイスター・ホラという老人のペアが登場した。マイスター・ホラは老人として時間の根源を体現しており、それは若いモモの生きている豊かな現在につながっていく。従って今ここでの豊かな現在は、時間の根源としての永遠の時間に由来していて、それといわば同一なのであり、マイスター・ホラとモモは老人と少女という異なる姿をとりながら、つながっていて同一なのである。
この『思い出のマーニー』では、ペアが見つからず孤独に暮らしていたからアンナのこころの時間が止まっていたと言えそうであるが、アンナは謎の少女であるマーニーと時間のペアを形成するようになる。なぜ同じくらいの年齢で同性同士の親密な関係(チャムシップ)をなす少女が時間のペアと呼べるのかというと、この2人が出会っていることが存在と時間の根源に触れることだからであり、それによってこそ、こころの癒しが生じてくるからである。詳しくはこの物語を読んでもらえればわかるが、2人っきりで住む砂のお城を作ったり、愛を確認しあったりと、2人の少女らしい交流はほほえましく美しい。アンナから見て恵まれていると思われたマーニーの生活も見方によれば決してそうではないように感じられて、2人の立場が入れ替わっていったりするのもチャムシップらしい。
物語の最後の方で、アンナの名前が実はマリアンナだったのが、養母がその後半だけ取ってアンナにしたことが養母の告白でわかる。つまりマーニーはマリアンという名の愛称なので、ここでも2人の同一性、あるいは類似性が示されている。心理療法を行っていると、親との関係がよくなくて、十分なつながりとサポートを得られなかった人も、前思春期、あるいは後になってチャムシップと呼べるような友人に出会えた人は、親子関係での不足していたものを補えてあまりあるように思われる。逆にチャムシップがもてなかった人はなかなかむずかしいようであるが、心理療法でチャムシップが展開されることもよくある。
ところが物語の最後の方で、マーニーが実はアンナの祖母の子ども時代の姿であったことがわかり、チャムシップと思われていた時間のペアは、老女と少女のペアでもあったことになる。時間の本質は、現在が時間の大洋のような根源から浮かびあがっているように、哲学的に言うなら同一性と差異性であり、ユングの用語を使うなら結合と分離の結合、つまり結合しているのと分離しているのが同時に成立していることである。従ってアンナとマーニーの時間のペアは、同類である親友として同じ豊かな時間を共有しながら、老女と少女として違う時代に属していて離れているのである。
根源としての過去
『モモ』においては、前近代の世界観における時間が、大洋としての神話的で根源的な時間から現在が生じているのと同じように、時間の根源から現在の時間が生まれているのに対して、この『思い出のマーニー』では時間の根源そのもののシーンは出てこない。もちろんアンナとマーニーが出会い交流していた時間は根源的な時間であり、癒しの時間であるけれども、それは2人が過ごした夢のような時間であっても、『モモ』におけるマイスター・ホラのところで見られた時間のマンダラのような明示的な形にはならない。
代わってこの物語では、過去が根源的な時間として現れてくる。つまりアンナの片割れでペアのようなマーニーは、実はアンナの祖母なのであり、ある過去の時代から現れてきているのである。これはどのように考えればよいのであろうか。
ヒントとなるのは「複式夢幻能」である。能以前には神楽というものが存在していて、神楽においては仮面を被って顕現してくるのは神である。つまり前近代の世界観において、神話的な時間から現在が現れてくるように、根源的な時間から、今に神が舞うことによって出現するのである。ところが複式夢幻能では、もはや神は現れてはこず、過去に恨みや思いを残して亡くなった人などが、僧侶の夢のなかに登場してくる。ここには現実とファンタジーの区別が生じており、また無時間的な神話的時間ではなくて、ある決まった過去の特定の人に焦点が当てられている。
たとえば世阿弥の《井筒》という名作では、廃寺を訪れた僧に、そこを舞台としてまず在原業平と紀有常の娘との悲恋があったことが語られる。その語り手である里の女は、自分こそ「井筒の女」と呼ばれた有常の娘その人である、と名乗り、前場は終わり、ここまでは里の女と過去の人物である有常の娘の重なりはあるものの現実である。後場では、僧の夢の中で、業平の衣装を纏った有常の娘が舞うことで2人はいわば一体になり、井戸に自分の姿を映し出すことで、悲しい恋に終わったカップルの贖いが行われる。2人は救済され、無事成仏する。つまりマーニーと同じように、現れてくる人物はあくまでも過去の人物であって、しかもそれは僧侶の夢の中のことである。
しかし『思い出のマーニー』と複式夢幻能では大きな違いもある。『思い出のマーニー』では、まずファンタジーにおいてマーニーとの交流があって、マーニーが消滅した後半において同じ屋敷に住むようになった五人の子どもたちのいるリンゼー一家との交流が描かれていて、中心となるのは想像上の親友との時間を共有できたことによるアンナの成長であり、癒しである。それに対して複式夢幻能では、現実の出来事と語りからはじまって後半にファンタジーである夢の場面に変わるけれども、あくまでも死者の鎮魂に重点が置かれていて、現実の人間の変容には触れられず、まるで逆のようになっている。
ただ『思い出のマーニー』は非常に重層的な物語で、現実の少女であるアンナの成長と癒しが中心になると同時に、その祖母でもあって過去に存在した死者の魂の鎮魂も行われ、その点では能における死者の鎮魂と似た要素も示している。それが作品とまたそこにおける時間に奥行きと深みを与えているのである。
垂直の時間と水平の時間
ファンタジーと現実としてもよいかもしれないが、『思い出のマーニー』においては、水平と垂直の時間が認められる。アンナは、親や養母とうまくつながれず、過去から現在、さらに未来へと進んでいく水平の時間が流れておらず、こころの時間が止まった状態にあった。そこで現れてきたマーニーが具現していたのが、深みをもった垂直の時間である。2人は豊かな時間を生き、それは双方の癒しにつながる。
ところがこの垂直の時間は、それがいかにすばらしく美しいものでも、水平の時間が動き出すことによって終わっていくのである。マーニーはしばしばいとこのエドワードのことに言及するようになり、それは前思春期のチャムシップが終わっていって、思春期の異性愛へと時間が移ろいつつあることを示している。水車小屋での恐怖の夜に、マーニーは一人だけエドワードに助けられて去っていく。それはまるで、同性の親友とのチャムシップから彼女が引き離され、異性との関係に移っていくかのようである。
ところがこの垂直の時間から水平の時間への動き出しは、マーニーの側だけではなくて、アンナにおいても生じてきたから興味深い。別れに傷ついていたにもかかわらずアンナはそこに固執せず、リンゼー家の子どもたち、特に同年代のプリシラとの関係に進んでいく。長い間止まっていたアンナのこころの時間は、ついに水平的に動き出したのである。それと同時に、アンナはマーニーと一緒に過ごした数々のエピソードをうまく思い出せなくなってしまう。開いていた垂直の時間は閉じられていったのである。
不思議なようであるが、これは子どもの心理療法でよく生じることである。熱心にプレイセラピーに通い、非常に深い象徴的表現をしていた子どもが、自分の状態がよくなってくるとセラピーに来るのを時々忘れたり、セラピー終結後は何をしていたのかを思い出せないことがある。これもセラピーが垂直の時間であって、現実という水平の時間が動き出すと、閉じられてしまうことを示している。
世代の継承と閉じること
アンナのマリアンナという元の名前は、曽祖母から取られているというのは興味深い。つまりそこには世代の継承という時間が流れている。ところがマーニーの「しめっち屋敷」での生活は決して幸福なものではなく、親は不在がちで、同居するばあやと女中からもひどい扱いをうける。その意味で彼女は自分の母親、つまりアンナの曽祖母であるマリアンナを恨んでいる。
マーニーには、物語にも登場したエドワードとの間にエズミーという一人娘がいた。第二次世界大戦中、爆撃を避けるため、幼いエズミーは親元を離れアメリカへ疎開することになる。13歳になる頃にイギリスに戻ってきたものの、エズミーは幼い自分を遠いアメリカに送り出した母親を恨むようになっていた。そして母娘は、打ち解けることのないまま、突然の別れを迎えることになった。
エズミーには、若いときに家出して結婚した最初の夫との間にマリアンナという娘がいた。その子は、エズミーの離婚後、祖母であるマーニーに預けられる。しかしマーニーは、エズミーと彼女の2度目の夫が自動車事故で亡くなったことでショックを受け、そこから立ち直れずにその年のうちに病死してしまう。たった一人残されたマリアンナは児童養護施設へと送られるが、子どものいないプレストン夫婦に引き取られることになった。
ここには、4代にわたって繰り返されてきた、否定的な母親像との関係が認められる。それはアンナにおける、母親に捨てられたという気持ちや、養母のプレストン夫人に猜疑心を抱いて打ち解けない気持ちにも表れている。しかしそれは、アンナがマーニーと交流し、つながることで見事に解消され、断ち切られた。それと同時にアンナは自分の祖母とつながり、また元の名前を知ることで曽祖母につながることもできた。心理療法においても、何代も続く課題が解決されることがあり、また何代も続いていることにアイデンティティを確認できることがある。この物語ではこのような世代の時間の動きも印象的である。
(かわい としお・臨床心理学)