河合俊雄 『モモ』──豊かな時間とその根源[『図書』2025年9月号より]
『モモ』──豊かな時間とその根源
機械的な時間と豊かなこころの時間
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも 永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
これは時間をテーマにした児童文学『モモ』からの引用であり、「こころの時間」とは何かというのを端的に示している。確かに主観的に体験される時間は、客観的に計測される時間とあまり一致しない。その証拠に、子どものころには1年というのが非常に長かったのに、年を取っていくにつれて、1年が経つのがどんどん早くなっていくように感じられるというのはよく耳にすることである。それは子どものときには、新しく体験されることが非常に多く、濃密な時を過ごしているのに対して、年を重ねるにつれて同じようなことが繰り返されがちで新しいことが少なく、従って時間の密度のようなものが薄まってきて、早く時間が過ぎるように感じられるからである。ところが時間というのはおもしろいもので、逆に何かに夢中になって没頭していると、あっという間に時間が経っていたり、つまらないと思いつつ何かに参加したりしていると、いつまでも時間が進まないということもあったりする。個人的なことながら、私の場合には学校での授業の時間がそうで、全然時間が進まずに苦痛に感じられた。時間というのはなかなか不思議なものである。
密度の濃い時間は、豊かな時間とも、「こころの時間」とも呼んでもよいかもしれない。『モモ』は、そのような豊かな時間と近代的で機械的な時間との間のせめぎ合い、それどころかその両者の戦いをテーマにしている。全身を灰色の服で身を固め、灰色の葉巻をくゆらせ、灰色のカバンを持っている「灰色の男たち」が登場して、町の人たちをうまく誘って時間を節約させ、その時間を時間貯蓄銀行に預けさせる。ところが灰色の男たちは節約された時間を奪っていく時間泥棒であって、町の人たちはますます時間がなくなって急ぐように駆り立てられ、次第に心の余裕を失っていく。豊かな時間は失われ、いわばこころがどんどん貧しくなっていくわけである。
節約した時間が盗まれるというのは、ファンタジー作品だからこその表現であるかもしれないが、これは実は現代の世界の現実状況をうまく示していると思われる。というのは、交通機関の進歩のために早く移動できるようになったり、オンラインで会議ができるなど、様々な便利なツールができて早く作業を進めることができたりして、われわれの生活はどんどん効率的になってきていて、そのために時間の余裕が生まれてきているはずである。ところが効率的になることによって生まれた時間は、別の仕事が入ったり、より早い反応を求められたりして、余裕を生むどころか反対にわれわれの生活をますます忙しいものにしている。結局のところ、個人は生まれた時間を享受できておらず、それは全体のシステムの生産性にだけ寄与していて、個人はますます時間に追われる結果になっている。せっかくの節約した時間が灰色の男たちに盗まれているというのは、非現実的に見えても、われわれの実感とよく合っているのである。
それに対して、豊かな時間を体現しているのが円形劇場の廃墟にある日住みついたモモという不思議な少女であり、彼女の友人たちである。モモには両親がなく、年齢がいくつかわからず、名前も自分でつけたという。これはつまり、モモが誰の子どもであり、何歳であるという歴史的・時間的秩序に属していないことを示している。またモモの特技は人の話に耳を傾けることで、そのようにしていると相手はいつの間にか解決策を自分で見いだしていくことになる。これはアドバイスを与えるのではなくて、語りに耳を傾けることによってクライエントが主体的に洞察を得て、解決を見いだしていくことをめざす心理療法と非常に似ている。心理療法も効率的に解決を提供するのではなくて、回数を重ねて時間をかけることが多いが、モモの場合にも時間をかけて相手の話を聴くという姿勢が見られ、それが豊かな時間を生きることなのである。
モモの友人のなかでは老人のベッポと若いジジが興味深い存在であるが、ここでは道路掃除夫のベッポが豊かな時間を生きていることを語っているのを取り上げたい。「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸(いき)のことだけ、つぎのひと掃(は)きのことだけを考えるんだ」。さらに続けて次のように述べている。「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる」。いちどに道路ぜんぶのことを考えると、それが何分かかるかと計算して、機械的な時間の見方に陥ってしまい、また効率的に仕事を済ませようと考えてしまう。それに対してベッポはひと掃きひと掃きだけに集中し、その瞬間の充実した時間を生きている。これが豊かな時間を生きることなのであり、禅で作務が重視されるように、ある意味で修行のようなものでもある。
理髪師のフージーさんも、はさみをチョキチョキと動かし、お客さんとおしゃべりすることを楽しく思い、充実した現在を生きていた。ところがそれが急に虚しく感じられ、「おれの人生はこうしてすぎていくのか」、「はさみと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ」という思いに襲われたときには、ベッポの生きているような瞬間瞬間に充実した豊かな時間のことを見失ってしまっている。ベッポが道路ぜんぶのことを考えてはいけないと言うように、人生全体とその意味を考えはじめるというのは豊かな時間にとって危険である。それにつけ込むように灰色の男が現れて、効率よく働いて時間を貯蓄するように勧め、フージーさんはそれにまんまと従ってしまうのである。まさに灰色の男たちというのは決して荒唐無稽の作り物ではなくて、われわれのこころの隙が生みだしている必然の存在であるということがわかる。
時間の根源
『モモ』が作品としてすばらしく深みをもっているのは、単なる主観的で豊かな時間と客観的で機械的な時間との対立でストーリーを進めるのではなくて、豊かな時間が時間の根源によって裏づけられていることを描いているからである。機械的な時間に対する主観的な時間のよさを、ある種のヒューマニズムで主張したり礼賛したりするのでは十分でない。こころの時間とは、単なる個人の主観を超えた次元につながっている。灰色の男たちの秘密を知ってしまったモモは彼らに追われて、時間をつかさどるマイスター・ホラ老人のところに逃げ込む。そこでモモは時間の源をホラに見せてもらう。われわれの生きている時間は、この時間の源から来ているために豊かで充実しているのである。
近代人は、時間が直線的に過去から現在、さらに未来に進んでいくとみなしている。しかし人類のもともとの時間についての世界観は、真木悠介の『時間の比較社会学』が適切に示しているようにユダヤ・キリスト教の世界観の影響を受けた直線的なものではもちろんなく、円環的なものでもなくて、神話的な永遠の時間、時間の大洋のようなものの上に現在が小さな島のように載っているようなものなのである。つまりベッポがひと掃きひと掃きに充実した時間を味わい、それがいわば無限に通じているように感じられるのは、その時その時が水平的に流れていくのではなくて、時間の大洋から、時間の源からいわば垂直的に送られてきているからなのである。逆に、その瞬間その瞬間に真に充実した時間を味わえる時には、それはそのままで永遠性や時間の根源に通じているとも言えるのである。
マイスター・ホラに時間の源に連れていってもらったモモは、純金の「大きなまんまるい丸天井の下に立っている」のに気づき、「天井のいちばん高い中心に、まるい穴」があいていて、「そこから光の柱がまっすぐ下におりていて、そのま下には、やはりまんまるな池」があるのを見る。その水面近くのところで大きな振子がゆっくりと池のへりに近づくと、大きな花のつぼみがのびてきて、振子が近づくにつれて、つぼみはふくらみ、美しい花が開く。しかし振子がゆっくりと元に戻っていくと、それに合わせて花はしおれていく。ところが振子が再び近づいてくると、また新しい花が咲いていく。
時間の源の描写において、「金色の丸天井」、「まるい穴」、「まんまるの池」などの円形が強調されている。この形はマンダラを示していると考えられる。マンダラは人類学者の中沢新一によれば、古代インドの洞窟でのメディテーション(瞑想)から発生したもので、下から昇ってくるエネルギーが洞窟の天井に当たって四方八方に幾何学的に広がっていったイメージを捉えたものである。それは存在の根源を示す幾何学的な模様で、平面上に描かれることが多いが、ここでのものは立体的で動的な時間のマンダラだと思われる。このようにモモは時間の根源に到ったが、ここでの時間のマンダラが、花が一つ一つ咲いて、また枯れていくように、全体性と同時に個別性が目立っているのが特徴的である。そして時間の源から時間は、時間の花として個々の人に送られていくのである。
立ちあがる星の時間──時間と主体性
モモを捕まえようとしながら取り逃がしてしまった灰色の男たちは、モモを従わせるには、モモの友人たちを押さえればよいという結論に達する。
「この女の子は友だちをたよりにしています。じぶんの時間を他人のためにつかうのがすきです。しかし考えてみるに、もし時間をさいてやるあいてがひとりもいなくなってしまったとしたら、どうなるでしょうか?」
モモは時間を他人のために使うという。時間は共有されないと豊かなものにならない。理髪師のフージーさんもはさみをチョキチョキしながら、お客さんとおしゃべりして共有しないと、豊かな時間を生きることができない。モモがいくら時間の根源を知ったとしても、それが他の人たちと共有されないと豊かな時間を生み出さない。マンダラでのエネルギーが四方八方に広がっていくように、垂直的な時間は水平的な時間として、共有されていかないといけない。だからモモは、時間の根源を見た後で、このことを友人たちに話してよいかホラに尋ね、ホラは「それを話すためには、まずおまえのなかでことばが熟さなくてはいけない」と答えるのである。まだ時は来ていないのである。
ホラのところで眠って目覚めるといつの間にか円形劇場跡に戻っていたモモは、友人たちを訪ねる。しかし友人たちは残念ながら変わり果ててしまっていた。お話を作るのが得意なジジは、売れっ子の芸能人になって高級住宅街に住んで忙しくしていて、モモとゆっくり話ができない。ベッポはひと掃きに充実感を得るのではなくて、忙しく何かにとりつかれたようにほうきを振り回していた。いつも一緒に遊んでいた子どもたちは、「子どもの家」で遊び方をならうのに忙しく、時間に追われてモモとは会ってくれなかった。みなが灰色の男たちによる機械的な忙しい時間に毒されていて、豊かな時間を見失っており、モモが体験してきた時間の根源を共有できないことがわかる。追い詰められたモモは、もう一度マイスター・ホラのところに行かねばならないと決意するわけである。
これは逆説的であるが、興味深く、また必然の決断と行動である。水平的に友人たちにつながることができないことを感じたモモは、もう一度一人になって根源に戻り、いわばもう一度垂直的に深めようとするわけである。これは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』において、妻が失踪した主人公が、水平的に妻を探すのではなくて井戸に潜ったり、同じく妻に去られた『騎士団長殺し』の主人公がやはり垂直的に屋根裏部屋に上がったりするのと共通している(河合俊雄『謎とき村上春樹』)。
立ちあがる星の時間──時間と主体性
ホラの「どこにもない家」をモモは再訪したが、追いかけてきた灰色の男たちによってまわりを包囲されてしまう。そこでホラは灰色の男たちの秘密をモモに教える。灰色の男たちは盗んだ時間の花を凍らせて、どこかの地下貯蔵庫に隠している。そして地下貯蔵庫の時間の花から花びらをむしり取り、それを乾かして小さな葉巻を作り、葉巻に火をつけてふかすことによって時間と命を得ている。ホラはそれを打開する方法を提案する。
まず時間を供給しているホラが眠りにつき、時間を完全に止める。すると灰色の男たちは誰からも時間が盗めなくなるので、時間の貯蔵庫に向かうはずだ。そこでモモが後をつけ、彼らの邪魔をして時間を取り出せないようにする。時間の補給が切れた灰色の男たちが消滅したら、貯蔵庫にある時間を解放して、盗まれた時間を人間の元に戻せばいい。そうすれば時間は再び動き出し、ホラも眠りから目覚めるだろう。これだけのことをするのに、ホラがモモに与えられるのは時間の花にしてたった一輪、つまり一時間だけだという。しかしモモは「やってみます」と答える。
本来は、ホラが時間を源から送っていて、人間、つまりモモはそれを受け取るだけでよいはずである。しかしここではホラは眠ってしまい、仕事はモモにゆだねられてしまう。それをこれまで徹底的に受動的であったモモは決然と引き受ける。
これには、ホラが述べていた「星の時間」というのが関係している。つまりそれは、「あとにもさきにもありえないような事態がおこる」時間で、「人間はたいていその瞬間を利用することを知らない」とホラは言う。これは、心理療法で「クロノス」という普通の時間の流れに対する「カイロス」という時のめぐりがぴったりと合うような時間を指していると思われる。これが来ていないのに早まって行動してもうまくいかないし、逆にそれが訪れているのに逃してしまってはいけない。まさにモモは「星の時間」が訪れているのをつかんだと言えよう。
時間をコントロールしているはずのホラが眠って、少女であるモモが主体的に努力するという作戦は、役割分担がまったく逆のように思われる。しかし人類学が注目した、子どもから大人になったり、部族の神話や秘密を知るためのイニシエーションでは、子どもとしてのあり方が死んで大人となって再生したり、新参者がこれまでのあり方としては亡くなって、神の世界に参入して再生したりするだけの一方的なものではなく、相互的なものである。つまり新参者が加わってこそコミュニティ全体が再生し、神の世界自体が死んで生まれ変わるという意味がある。『モモ』での時間の再生に関しても、時間を体現しているホラが眠って時間が止まり、いわば時間がいったん死んでしまい、新参者であるモモのアクションによって時間が再生し、ホラが目覚めるという形になるのである。
『モモ』の歴史性と現代性
ホラが眠ってしまい、時間が止まってしまうと、予想通りに灰色の男たちが時間の貯蔵庫にあわてて駆け戻っていく後を、モモは時間の花を一輪だけ持って追い、時間の貯蔵庫に至る。時間の花でふれることで貯蔵庫の扉を閉じ、灰色の男たちが葉巻を奪い合ったりして自滅してしまってから、モモは再び時間の花で貯蔵庫の扉にふれて開け、時間を無事に再生させる。これには先に述べた相互的なイニシエーション以上の意味があるかもしれない。
つまり自然の圧倒的力を畏怖し、「母なる自然」に安心して包まれていたこれまでのあり方から、現代においては人間の方が自然保護や環境問題に取り組まないといけないように変化してきている。このように、時間に関してでさえ、現代においてはその再生のためには人間の側のアクションが必要となっていることを、この『モモ』の物語は示唆しているかもしれない。
『モモ』は時間をテーマにしたファンタジーにふさわしく、永遠の世界や時間の根源を描いているだけでなく、時代性を意識しているところがある。それは、冒頭の邦訳では「むかし、むかし」という昔話の定番のように聞こえることばが、ドイツ語の原文では定番の「昔あったとさ」(Es war einmal)ではなくて、「すごくむかし、むかしの時代のことです」(In alten, alten Zeiten)ではじまるからである。つまり円形劇場で物語が語られ、お芝居が演じられていたのは過去のものとなってしまい、現在ではそれが廃墟になってしまっている。そのようないにしえの豊かな時代は残念ながら過ぎ去ってしまった。ところがその廃墟にいわば古き良き時代を具現するかのように住みついた、時間を超越し、豊かな時間を生きている存在がモモだったわけである。そのモモが、ますます機械的な時間に支配されて、豊かな時間が失われようとしている現代にそれを取り戻そうと奮闘する。『モモ』は時間の豊かさが本来はどこに由来しているかを示すと同時に、その豊かさを取り戻すための主体的なコミットが現代において必要なことを示してくれている物語である。
(かわいとしお・臨床心理学)