河合俊雄 こころの紡ぎ出した物語としての『モモ』[『図書』2023年1月号より]
こころの紡ぎ出した物語としての『モモ』
ミヒャエル・エンデ作『モモ』は、いまだにベストセラーであり続け、新たな読者を魅了する名作である。モモという不思議な少女が円形劇場跡に住みついて、町の人びとと豊かな交流をしていたところに、時間を節約して、それを貯蓄するように勧めていながら、実は節約した時間を盗んでいる「灰色の男たち」が登場する。そのために効率的ではあるものの慌ただしい生活を送るようになった人びとのこころはすさんでいくが、時間を管理している老人ホラのところで時間の根源にまで至ったモモが「灰色の男たち」を消滅に追い込むことができるという、スリルに富んだ物語である。
これほど人気があるにもかかわらず、『モモ』という作品の評価は非常に分かれているように思われる。それは「灰色の男たち」のあり方が現代文明のアレゴリーのように見え、この作品が非常にわかりやすい文明批評をしているように読めるからである。すぐれた物語は、何かわからないけれどもおもしろい話が自律的に進んでいくなかで、その内から、そして時には後から意味が生まれてこないといけない。それに対して、アレゴリーの問題は、先にコンセプトや意味が存在していて、それに合わせて作品が作られ利用されていることである。そのためにコンセプトに合うものをいわば外から物語に持ち込みがちになる。
しかし『モモ』を読んでいくと、確かに物語の構造がしっかりしているものの、先に存在している概念を当てはめたものではなくて、あくまで物語が内から紡ぎ出されていくことに気づかされ、それがこの作品が読まれ続ける理由になっていると思われる。また物語は、こころの動きとして紡ぎ出され、それが心理療法のように癒しと解決につながっていっていると思われる。これらを、いくつかのポイントから明らかにしてみたい。
「灰色の男たち」とモモの時間
まずこの物語の影の主人公とも言うべき「灰色の男たち」であるが、彼らは平和な生活を送っていた人びとに対して、突然現れた独裁政権や侵略者の手先のようにして物語の外から登場するのではない。この作品の中で灰色の男たちは、理髪師のフージー氏が「おれの人生はこうしてすぎていくのか」と考え、「はさみと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ。おれはいったい生きていてなんになった?」と虚無感にとらわれたときに、時間の貯蓄を持ちかけて登場してくる。つまりそのつどはさみを動かし、せっけんのあわを立てていたなかで満ち足りた今に生きていたはずのフージー氏のこころに隙間や虚無感が生まれたことが、灰色の男たちを呼び込み、そのイメージを作り出していると考えることができる。灰色の男たちは、客観的に外在して、われわれに押しつけられたものではなくて、われわれのこころの虚無が自ら、その内から生み出している極めて心理的なものなのである。
多くの心理的な症状がそうであるように、こころが生みだしたものは自分で解決が可能であり、物語が展開していくなかで内在的に解消されうると考えられる。だから『モモ』という物語は必然的に内在的に進んでいくことになる。
この灰色の男たちに対抗するのがモモである。モモは円形劇場の廃墟に突然現れる。つまり灰色の男たちが現代の計算された抽象的な時間観念を象徴しているのに対して、モモはいにしえの時間感覚を体現していると考えられる。それは人の話にモモがじっと耳を傾けることに表れているように今ここにある時間で、今に満ち足りた時間である。そして人びとはモモに話を聴いてもらうことによって満足し、解決を見出すけれども、モモには何の魔法も予言の力もあるのではない。あくまでも人びとのこころの動きに忠実なのであり、その内にとどまり、その中から解決が生まれてくる。確かにモモは突然に現れたけれども、人びとの外から解決をもたらすのではない。
否定の論理とこころの根源
灰色の男たちに追われることによって、モモは亀のカシオペイアの助けも借りて、時間を管理する老人であるマイスター・ホラのところにある時間の花に至る。冒険として行くのではなくて、困難に陥って必要に迫られていくのが興味深い。後から登場したカシオペイアもモモにおける動物的なもの、本能的な勘と考えると納得がいく。
またモモがマイスター・ホラのところに至る道程が興味深い。「ここではカメがまえよりもっとゆっくり歩いているのに、じぶんたちがすごく早くまえにすすむのにびっくりしました」とされている。この地区をさらに進むと、現れたのは「さかさま小路」で、そこでは前に行こうとすると進めず、後ろ向きに歩くと進める。そしてその突きあたりに建っていたのが「どこにもない家」で、ここがマイスター・ホラのいる時間の国なのである。ここで目立つのは逆説であり、徹底した否定の論理である。ゆっくり進むのに早く進む、さかさまに進むと前に進む、どこにもない家、などのように。時間の国のような究極の場所に至るためには、肯定の積み上げではなく否定の論理が必要だったわけである。現代の科学と資本主義の原理に基づく世界を考えてみると、それは徹底的に実体的で肯定の論理によって成り立っていることがわかる。それは具体的に存在し、肯定的な成果と利益を生み出すものだけを認めている。しかしこころということを考えてみると、こころを見たり、手にしたりすることはできず、それはあくまで逆説と否定によってアプローチできることがわかる。神話というのはそのような逆説に満ちているし、子どものこころの成長を考えると、反抗期をはじめとして、否定によってできてくるのがわかるのである。その意味でモモの至ったのは時間の根源であると同時に、こころの根源であるとも言えよう。
同じようにして、モモがついに灰色の男たちと対峙することを決意するところでもこころが大切になる。ホラのところから戻ったモモは真夜中に灰色の男たちに会わなければいけなくなるが、それが怖くて逃げるうちに、疲れ果てて眠ってしまう。しかし友だちがみな危機に陥っているのを夢に見て目覚めてから、モモは立ち向かう決意をする。「不安と心ぼそさがはげしくなってその極にたっしたとき、その感情はとつぜんに正反対のものに変わってしまった」とされている。モモは最初から積極的で強い英雄であったわけではなくて、非常に受動的であったのに、疲れ果てて眠り、いわば無に至ることで、反転が生じてくる。
個人のこころの物語から世界の物語へ
モモは灰色の男たちを撃退するためについに立ちあがるわけであるが、そこでこれまでの個人のこころから動いてきた物語の様相が異なってくる。マイスター・ホラが考えた方法は次のようなものである。まずホラが眠りにつき、時間を完全に止める。すると灰色の男たちは誰からも時間が盗めなくなるため、自分たちの時間の貯蔵庫に向かうはずだ。そこでモモが後をつけ、彼らの邪魔をして時間を取り出せないようにしてしまう。時間の補給が切れた灰色の男たちが消滅したら、貯蔵庫に彼らが隠してあった時間を解放して、盗まれた時間を人間のもとに戻す。すると時間は再び動き出し、ホラも眠りから目覚める。
これまでの物語では、モモに話を聴いてもらった人のこころが変わる、厭世観にとらわれたフージーさんが、今に満ち足りた時間を捨てて灰色の男たちに従う、モモがいわば自分のこころを深めることで時間の根源に至る、モモがこころを無にすることによって主体が逆説的に立ちあがるなどのように、あくまで個人のこころの変化が中心であり、物語を展開させてきた。ところがここでもモモ個人の行動が中心ではあるものの、ホラが眠るということは、世界の時間が止まり、世界が救われねばならなくなる。本来は根源的な時間をもたらしてくれるものが死んでしまって、モモという個人がそれを再生させなくてはならなくなる。ここで物語は個人が究極のコミットをするからこそ、個人の次元を越え、世界の物語となっていく。
モモは灰色の男たちを追跡していって、時間の貯蔵庫を見つけ、灰色の男たちが消滅してから無事に貯蔵庫にある時間を解放し、いわば世界の時間を再生させることに成功する。しかしモモは特に灰色の男たちと戦うわけではなくて、彼らは時間を節約するために自分たちをどんどんと半減させ、自滅していくのが興味深い。これも極めてこころの特徴と合うように思われるのである。つまりこころの問題はそれと戦うことによって克服されるのではなくて、われわれが自分のこころによってその問題を作り出していることに気づき、作り出す動きを止めると、自然と消滅していってしまうのである。
このように『モモ』は、何もスーパーヒーローや特殊な仕掛けによって話が展開するのではなくて、あくまでこころの動きとして進んでいるからこそ、物語の流れの必然性があり、魅力があると思われる。ただ個人のこころのなかで生じていったと思われる物語が、本当に世界を変えることができるのか、またこの作品が、あるいはそもそも物語がそのような力を持ちうるのかについては、さらに検討が必要であろう。
(かわい としお・臨床心理学者)