思想の言葉:藤田正勝【『思想』2025年11月号 特集|蘇るシェリング】
【特集】蘇るシェリング──自由・悪・自然
〈特別寄稿〉悪と技術性の発生について
ユク・ホイ/中村徳仁 訳
シェリングの21世紀
──研究のこれまでとこれから
中村徳仁
シェリングとエコロジカルな理性
──あるいは人新世における自然哲学の再考
ジェイソン・M・ワース/鳥居千朗 訳
シェリング自然哲学の鬼門
──後期シェリングにとって自然哲学とは何であったか
中島新
「日本的シェリング」の誕生
──「神における自然」「無底」から「永恒の自然」へ
小田部胤久
西谷啓治とシェリング
──京都学派における自然哲学の不在
浅沼光樹
シェリングの「再発見」とバシュラール,デリダ,メルロ=ポンティへの接続
黄冠閔/中村徳仁 訳
現象学のシェリング的転回
──リシールによる『人間的自由の本質』読解より
長坂真澄
女性哲学史のなかのシェリング
八幡さくら
挫折する詩人と思想家
──シェリング,ヘルダーリン,ハイデガー
益敏郎
周縁からシェリングを読む
──エンリケ・ドゥッセルとラテンアメリカ的シェリング解釈
フェルナンド・ウィルツ
批判精神の行方
──スローターダイク『シェリング・プロジェクト』を読む
高田珠樹
哲学という自由
──シェリング(1775―1854年)
マルクス・ガブリエル/中島新 訳
二つの音楽──「凍れる音楽」と「天空の音楽」
読書の楽しみはいろいろあるが、魅力的な言葉に出会うこともその一つであろう。表題に掲げた「凍れる音楽」や「天空の音楽」も、それに出会ったとき強く惹きつけられ、心のなかに長く残った。シェリングの芸術理解にも深く関わる言葉である。
「凍れる音楽」は明治のはじめ、うち捨てられていた日本美術の価値を認め、それを広く海外に紹介したことで知られるアーネスト・フェノロサが語った言葉として知られている。フェノロサは設立されたばかりの東京帝国大学で政治学、理財学(経済学)と哲学史とを教えるために来日し、一八七八(明治一一)年から一八八六年まで八年間東京大学に在職し、その後文部省、そして東京美術学校に転じた。東京大学で教鞭を執っていたときからくり返し日本の古美術を調査するために京都や奈良を旅行した。そして奈良・薬師寺の東塔を見たときに、その美しさを讃えるためにこの言葉を使ったと伝えられている。
「凍れる音楽」という表現はシェリングに由来する。建築を音楽に喩えるという発想をシェリングはフリードリヒ・シュレーゲルから得たとも言われるが、この「凍れる音楽」という言葉自体はシェリングに由来すると考えてよいであろう。『芸術哲学講義』(一八〇二―三年)の「特殊部門」でシェリングは建築をkonkrete Musik(具象的音楽)とか、erstarrte Musik(凝固した音楽)という言葉で呼んでいる。このerstarrte Musikがfrozen musicという英語に訳され、人口に膾炙するようになったと考えられる。
フェノロサが薬師寺を訪れた際に「凍れる音楽」という言葉を使ったことを証拠立てるものはない。しかし、明治二〇年に東京美術学校に勤務するようになったフェノロサはそこで「美学」に関する講義を行った。明治二三年に行った講義を岡倉天心が日本語に翻訳したものが残っている。そこでフェノロサは美術(芸術)をどのようにジャンル分けするかという議論をしているが、まず最初に、「物を写し出す美術」(Representative arts)と「写さゞる美術」(Non representative arts)、つまり「物の形情を仮りて其の意を寓する」ものと、「天然物と少しも似る事なき美を作りだす」ものに分けるという説を紹介している。そして後者に音楽と建築が属することを述べ、建築について「音楽の凍りて形に現はれたる者」という説明を加えている。ここからフェノロサが先のシェリングの言葉を知っていたことが見て取れる。この点を踏まえると、フェノロサが薬師寺の東塔を見て、それを「凍れる音楽」と呼んだというのは十分にありうる。たとえこのエピソードが事実に基づくものではないにしても、シェリングの哲学が、この「凍れる音楽」という言葉を通してまず最初にわが国の思想界に刻印されたと言うことはできるであろう。
そしてこの「凍れる音楽」ないし「凝固した音楽」という表現は、その後、広く多くの人々のあいだに浸透していった。たとえば九鬼周造も『「いき」の構造』(一九三〇年)の第五章「「いき」の芸術的表現」において、芸術をフェノロサと同様、具体的なものに規定された芸術と、自由な形成原理に基づく芸術とに区別したあと、後者の例として模様と建築と音楽とを挙げている。そして建築について論じたところで、「建築は凝結した音楽と云はれてゐるが、音楽を流動する建築と呼ぶことも出来る」と述べている。この「凝結した音楽」という表現は、明らかにerstarrte Musikの訳語である。九鬼はこのようにシェリングに倣って建築を「凝結した音楽」と呼ぶとともに、さらに音楽を、それとは逆に、「流動する建築」と呼んでいる。この点も興味深い点である。
このように九鬼がerstarrte Musikという表現を用いているのであるが、さらに西田幾多郎もまた、「書の美」(一九三〇年)と題されたエッセーのなかで、書について「凝結した音楽」という表現をしている。西田はこのエッセーのなかで、フェノロサや九鬼周造と同様に、芸術を「客観的対象を写す」ものと、「主観的感情の発現」としての芸術との二つに分け、書が、自己の心情を表現するものとして後者に属することを述べている。そして書の特徴を心情の表現であるという点だけでなく、それが「リズムの美」をもつという点に見ている。まさに「形のリズム」という点で、書は建築に通じるが、しかし後者が実用にとらわれたものであるのに対し、書はどこまでも「自由なる生命のリズムの発現」という性格をもつことを西田は主張している。その点で音楽と共通するものがあることが言われ、その文脈で、書は「凝結せる音楽」であると言われたのである。西田は建築ではなく、むしろ書を音楽に喩えたのである。
西田が好んで揮毫したことはよく知られている。しかし音楽に関してはそれほど深い理解を有していなかったように見える。もちろん音楽にも関心を有していたことはまちがいがない。日記にも「BeethovenのV Symphonie〔第五交響曲〕をきく」というような記述が出てくるし、『ベートーヴェンの生涯』という書物を注文したりしている。また和辻哲郎に宛てた書簡のなかに音楽に関わる面白い記述がある。「夢中問答は面白い。万物黙より出てゝ黙に帰す。黙はSphärenmusik〔天空(天球)の音楽〕の音かも知れませぬ」というものである。
『夢中問答』というのは鎌倉後期から南北朝時代にかけて活躍した臨済宗の禅僧・夢窓疎石が足利尊氏の弟直義の問いに答えた法話集である。おそらく和辻が西田に宛てて、それを読んだということを書き送ったのであろう。それに対して西田は「万物黙より出てゝ黙に帰す」という言葉を返したのである。
『夢中問答』には禅で言われる「不立文字」について論じた興味深い箇所がある。そこで次のように言われている。「教外別伝不立文字といへども、禅師の人に示す言句多し。不立文字と言はんやと、難ずる人あり。禅師の言句多しといへども、この言句の義理を、人に習学せしめむためには非ず。ただ仏法の正理は、言句の上にあらざることを示さむためなり。言句の上に非ずと申せばとて、言語道断の処を宗旨とするにも非ず」。仏教の正しい教えが何かを示すために多くの言葉が語られているが、しかし、言葉はその意味を一つ一つ学ぶために語られるのではない。言葉を通して、言葉以前の真理に帰らなければならない。もちろんそれは、言葉以前に閉じこもることではない。言葉には言葉の果たす役割がある。しかし、言葉の上に真理があるのではないことに思いを致さなければならない。おそらくこのような『夢中問答』の言葉を踏まえて西田は「万物黙より出てゝ黙に帰す」と記したのであろう。
この「沈黙から沈黙へ」の「黙」を西田はSphärenmusikに結びつけているのであるが、そこには飛躍があるかもしれない。しかし決して突飛なものではないとも言えるであろう。ドイツを中心に主にヨーロッパで活躍している作曲家の細川俊夫が『魂のランドスケープ』という著作のなかで、音楽を作るのはどういうことかということを問題にして次のように述べている。「ぼくにとって音を生み出すことの基本は、息づかいにある。息に支えられて、音は生きてくる。沈黙の虚空から生まれ、そして沈黙へと還っていく音。それは息を吐くことによって生まれ、吸うことによって消えていく」。音楽が「沈黙の虚空から生まれ、そして沈黙へと還っていく」ものであるとすれば、禅の「黙」のなかに「天空の音楽」を聞こうとした西田の着想も、決して奇をてらったものではないと言える。
「天空の音楽」というのは、もちろんピタゴラスを念頭に置いて言われたものである。ピタゴラスは著作を残していないため、彼自身がどういうことを考えていたか詳しくは分からないが、後の人々がさまざまにそれについて語っている。たとえばアリストテレスも『天について』のなかで、ピタゴラス派の人々が、星が発する音はハーモニーを構成していると考えていたことを紹介している。
そしてこの「天空の音楽」にはシェリングも言及している。先に触れた『芸術哲学講義』の「特殊部門」でシェリングはまず造形芸術について論じているが、そこで絵画や建築と並んで音楽を取り上げている。そして「音楽の形式は、永遠なる事物の形式である」というテーゼを出し、ピタゴラスのSphärenmusikに言及している。言及しているというよりも、むしろピタゴラスの発想を下敷きにしてこの部分が叙述されていると言ってよいであろう。
西田がこの『芸術哲学講義』の「特殊部門」を読んでいたかどうかは分からない。しかし、弟子の岡本春彦がその卒業論文「シェルリングの象徴思想」のなかでこのピタゴラスの「天空の音楽」に触れており、少なくともそれを通してシェリングに「天空の音楽」への言及があることは知っていたと考えられる。
いま岡本春彦の名前を挙げたが、西田がシェリングの哲学に大きな関心を抱いていたために、ほかにも西谷啓治(岩波文庫の『人間的自由の本質』の翻訳者である)など、その周りにシェリングに関心をもつ研究者が数多く出た。日本のシェリング研究は、西田から同心円を描くように広がりを見せていったと言っても決して過言ではない。




