篠田宏昭 おとなになって読むケストナー[『図書』2025年10月号より]
おとなになって読むケストナー
私に本を読むように促してくれたのは母だった。母は小学生の時分から本の虫で、寝かせようとする祖母の目を逃れ、布団に隠れて海外の小説を読んでいたらしい。自然観察や顕微鏡に夢中だったというから、母にとって本に描かれている世界も顕微鏡でのぞく世界のように無限に広がって感じられたのではと想像する。
母は物語を読むことの素晴らしさを、私に知ってほしかったのだろう。『巌窟王』、『モモ』、『はてしない物語』、『ゲド戦記』と手持ちの本を私に与え、あらすじとどう面白いのかを生き生きと話してくれた。それをいつも車での移動中に聞いた。話には解釈までが入っており、評論のようだった。私は母の話を聞きながら、物語をどう読むかを覚えていったような気がする。またその熱に背中を押されて少しずつ薦められたものを手にとるようになっていった。
本が身近にある環境にいたが、読書を身近に感じていたわけではなく、渡されても読み切れない本も少なくなかった。『坊っちゃん』は退屈でなかなか読み進められなかったし、『源平盛衰記』も読むのに苦労した。私と同じ年頃に『嵐が丘』や『ジェイン・エア』に親しみ、読みたい本を自分で見つけて次々に読んでいた母は、頁を捲る手が遅い私をまどろっこしく感じたのではないかと思う。
とはいえ、中には読み切れた本もあり、『はてしない物語』はその中の一冊だった。色々読むわけでもなかった自分によくあの厚さの本が読めたと不思議だが、苦しさはなく、頁を次に次にと捲っていけた。絨毯の毛を草原のように感じながら腹ばいになって読んだこと、首が疲れて右手を枕にして字を追いかけたこと、陽が翳り部屋がだんだん暗くなっていったことなど、様々なものと共にあの本の記憶がある。あれが夢中になって読むということだったのだろうか。『はてしない物語』の紅の表紙を何かで汚して、母をひどく悲しませたことも忘れられない。本を汚すと人をこんなに悲しませてしまうことをそのとき知った。
『ゲド戦記』の1巻目「影との戦い」もあっという間に読み終えることができたが、2巻目の「こわれた腕環」が遅々として読み進められなかった。陽の光の入らない暗い話で、そういった環境で早く歩けないように、自分の読書も遅くなるのが不思議だった。難しいと言ったのかつまらないと言ったのか、どう伝えたか覚えていないのだが、私が読み進められないと言うのを聞いて、「2巻目は確かに本好きでないと読むのが辛いかもしれない」と言って母は笑った。
エーリヒ・ケストナーを久しぶりに読み直していて気に留まったのは、『わたしが子どもだったころ』の作中で度々言及される、母親への言葉だった。中でも「子どもにも心痛がある」という一章が強く印象に残った。『点子ちゃんとアントン』の訳者あとがきで池田香代子氏がケストナーと母親との関係に触れ、「いつまでも母親にベッタリ依存した、いわゆるただのマザコンとは別物です」と書いているが、私も同様のことを思った。母親と息子の関係について書かれたもので、このように清々しく読めるものが現代にもあるのだろうか。母親から自分に向けられた期待について息子が書いて、それが歪でなく、その期待に応えようとする息子の姿勢も真っ直ぐに感じる。ケストナーについて書くなら本の愉しみを教えてくれた母との記憶を思い起こして、真似して書いてみようと思ったが、ケストナーのようなエネルギーで書くのは難しい。
本を読む習慣がついて本屋に行くようになり、いまはそこで働いている。お客として本屋に通っているときと違い、働くようになると自分の好む本だけを読んでいるわけにはいかないが、親や祖父の影響もあり、色々なものに開かれている環境に苦はなかった。未知の本の多さが世界の広さに感じられ、本屋という場所の空間的・時間的な奥行きが中に入るとまた違って見えて新鮮だった。
人文書の担当になったときに、歴史書の棚をどのように作っていけばいいのかを考える必要に迫られた。私が引き継いだときの棚は、特定の国をとりあげているという理由だけで並べられたような棚で、その並べ方がノイジーに感じられることが気になった。私は、歴史書を探しにくる人たちが静かに本と向き合える棚を作りたかった。そのために自分の中で選書に基準を設ける必要を感じた。
そんなことを考えながら、日本の戦後を考えるためにドイツの戦後史を学ぼうと、歴史書と併せてドイツの小説を読むようになった。その中でケストナーと出会った。ドイツの戦後史を知りたかったので、はじめに手にとったのは『ケストナーの終戦日記』だった。それから『ファービアン』。『飛ぶ教室』や『ふたりのロッテ』を書いた児童文学の作家として名前は知ってはいたが、ケストナーが子どもに向けて書いた作品を読んだ記憶はなかった。『ファービアン』を読んで、子ども向けの作品も読みたくなり、『点子ちゃんとアントン』を手にとった。その後『五月三十五日』『わたしが子どもだったころ』と読んでいった。
『わたしが子どもだったころ』でケストナーのまえがきへの思いを読めるが、ケストナーのどの作品でもまえがきには重要なことが書かれている。私は『ケストナーの終戦日記』のまえがきから歴史書の棚を考える上でのヒントを貰った。そこにはこう書かれている。
よくないことにも、一つの取り柄はある。よりよくなり得るからである。歴史家は怠けてはいない。記録が集められ、評価される。回顧するために全容が開放される。やがて過去が検討され得るようになる。
歴史書は人類の失敗の記録のようなものだと思うが、これを読み、過去の検討に必要なもの、それに堪える内容を具えた本を置いて歴史書の棚を作らなければならないと思った。そして怠けていない歴史家かどうかも注意する点として心に留めた。歴史は勝者によって書かれたものだという言葉をよく聞くが、そのことについてもケストナーは警告している。
だが、大きな年代記、「大年代記」を読むことで、万事おわったとしてはならない。年代記は数をあげ、清算をする。それが年代記の任務である。年代記は数を確証するが、人間を隠す。そこに年代記の限界がある。それは、全体において起きたことを伝える。だが、その全体は半分に過ぎない。
この後にも「数が生きたり死んだりしたのか」という言葉が続く。戦火に置かれた親子も、戦場から帰って心を病んだ兵士も、数ではないのだ、と。
15世紀末のスペインで異端審問の弾圧を受け改宗したユダヤ人である「マラーノ」。文学研究者の小岸昭氏は『マラーノの系譜』の冒頭で「文学は、ある意味では勝利者の手によってつくられてゆく歴史 への反逆である。したがって、文学は、歴史の裏側へ追放され剥奪状態に陥った敗者が、おそらく最後に赴く場所であるにちがいない」と書いている。私はこの言葉に出合って、自分の中での文学の立場というものを定めることができた。定めることには堅苦しさがある。文学とはそういうものだと他人に強いたいわけではない。しかし、本屋の店員として文学のことを考える場合には、歴史書と同様に文学の立場も自分の中で定めておく必要があり、歴史書と文学の棚は補完し合うものとして意識していこうと考えた。
マラーノが人目を忍んで生きることになる15世紀以降の数百年、それを描き出すことができるのは、歴史ではなく、文学であるように思われる。ケストナーが書く人びとはマラーノでも歴史の敗者でもないかもしれない。だが、ケストナーの書いたものは、統計にまとめられた数のひとつひとつに人生があることを思い出させる。そこには人間が書かれており、ケストナーが書いているものは文学ということなのだと思う。
日本もそうだが、ドイツも他国と自国で多くの人間を殺した。ひとりひとりの人間に目を向けようとする文学者が、その時代を生き、苦しまなかったはずはない。ケストナーは日記を、いずれ書く一大長編のためのメモであり、「自分の記憶のための発火物質」だったとしているが、その長編は書かれなかった。書くことを欲しなかったのだという。
『点子ちゃんとアントン』の発表は1931年で、ナチ党が前年の選挙で帝国議事堂に100人以上の議員を送り込んだ翌年になる。話の終わりで、ケストナーは作者の視点からの「立ち止まって考えたこと」でこう書いている。
ところで、みんなはこのことから、じっさいの人生でも、この本とおなじように、ものごとはいつも、こうあるべきだというふうに運び、こうあるべきだというふうに終わると思ったかもしれないね! そうでなければならないし、わきまえのある人びとは、そうなるように努力はしている。でも、いまはそうはなってない。まだ、そうはなってないのだ。
……みんなが大きくなったとき、世界がましになっているように、がんばってほしい。ぼくたちは、充分にはうまいこといかなかった。みんなは、ぼくたちおとなのほとんどよりも、きちんとした人になってほしい。正直な人になってほしい。わけへだてのない人になってほしい。かしこい人になってほしい。
結成して10年ほどで国会第二党にまでなったナチ党の存在とそこに至る社会が、ケストナーにこのように書かせたのだろうか。ケストナーは自分のことを「モラリスト」と考えていたらしいので、自分のできる、またはやるべき仕事をしようとしていたのかもしれない。池田香代子氏の言葉を借りれば、公正な世の中の実現のためにケストナーのとった子どもたちの説得という方法は地味で効き目の遅い方法だったということになるが、この前後の数年間に、ケストナーは『点子ちゃんとアントン』に加えて、『エーミールと探偵たち』、『飛ぶ教室』、『ファービアン』、そして4冊の詩集を刊行しているので、自身の詩中で「おとなはがまんならない」と言いながらも、全方位に向けて説得を試みていたのではないだろうか。
戦争、暴力、貧困、差別など困難な問題のなくなることのない社会にあって、現実と理想の乖離を嫌というほど意識しながら、それでもなお世界は生きるに足る場所なのだと子どもたちに言うこと、そのように言うことを自分に課す児童文学者たちには尊敬の念を抱かずにはおれない。エーリヒ・ケストナーもながく読まれ続けてほしい。
そのような思いを込めた展示が岩波書店一ツ橋ビルで10月下旬からあり、そこで原本が展示されるそうです。私は『五月三十五日』と『わたしが子どもだったころ』は岩波少年文庫ではなく、ケストナー少年文学全集で手に入れたのですが、全集で揃えたいなと思っています。文庫か、単行本かで読んで受ける印象が変わるんですよね。展示で本が手にとれたり、実物を見られたりすると、そのことがなんとなく伝わるかもしれませんので、どうか足を運んでみてください。
(しのだ ひろあき・書店員)