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酒寄進一 「もはやない」状況と「まだない」状況[『図書』2024年8月号より]

「もはやない」状況と「まだない」状況

──ケストナー没後五十年に

 「無人地帯があるように、無人期間がある。「もはやない」から「まだない」までのあいだに広がっている。わたしたちはそのあいだで無為に過ごしている。かつて通用したことが、もはや無効で、これから通用することが、まだ無効な期間だ」(『終戦日記一九四五』二二四頁)

 これは今年、没後五十年を迎えるエーリヒ・ケストナーが一九六一年に出版した『終戦日記一九四五』の一九四五年五月二十八日の項からの引用だ。ドイツが無条件降伏した五月七日から二十一日後の言葉だ。

 ドイツではこの終戦直後の時期を「零時」(Stunde Null)と呼ぶ。ここから戦後ドイツがはじまったという意味だ。「「もはやない」から「まだない」まで」という表現は「零時」と意味的に重なるが、いかにもケストナーらしい含みのある言い方だと思う。「零時」よりもはるかに多くの意味が込められていないだろうか。

 この箇所を読むたび、いつも頭に浮かぶ言葉がある。「あいだ」をキーワードに人間存在を探究した精神科医木村敏の「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」「イントラ・フェストゥム(祭りの最中)」という言葉だ。アンテ・フェストゥム的意識は「自由と革命を求める「前夜祭的」意識」を指し、ポスト・フェストゥム的意識は「自己自身の手によって置いたものではない自己の根拠を引き受けねばならぬこと」を意味する(木村敏『自己・あいだ・時間』ちくま学芸文庫参照)。

 ケストナーの「もはやない」はポスト・フェストゥム、「まだない」はアンテ・フェストゥムに他ならないだろう。そしてこのあいだにあるイントラ・フェストゥムにあたるものをケストナーは「無人期間」と呼ぶ。まさしく「ゼロ」ということだ。祭りの最中、すなわち渦中にあるはずなのに、「ゼロ」だと感じるというのはどういうことだろう。

 もちろんケストナーは「ゼロ」とは真逆の、ナチ独裁という渦中を体験したばかりだった。独裁体制下で政敵と見なされ、迫害の危険にさらされた多くの人々が亡命したり、絶望して自殺したりするなか、ケストナーは敢えてドイツにとどまった。だがこの時期、平和主義を標榜するケストナーはナチに目の敵にされ、作品の出版を禁止され、まさしく「干され」ていた。国家秘密警察(ゲシュタポ)に連行されたこともある。また『終戦日記一九四五』によれば、戦争末期、彼はナチによる殺害リストに加えられていたらしい。

 だがそんな状況でも、言葉をつづるのを妨げることはだれにもできはしない。今月翻訳出版する『ケストナーの戦争日記1941―1945』はその最たるものだろう。彼は一九四一年、一九四三年、一九四五年に日記を書き、世相や自分の心情を書き残した。日記と気づかれないように青い布装の束見本を用い、簡単には読めないように速記文字で記した。

エーリヒ・ケストナー 著/酒寄進一 訳/スヴェン・ハヌシェク 編/ウルリヒ・フォン・ビューロー、ジルケ・ベッカー 編集協力『ケストナーの戦争日記 1941-1945』
エーリヒ・ケストナー 著/酒寄進一 訳/スヴェン・ハヌシェク 編/ウルリヒ・フォン・ビューロー、ジルケ・ベッカー 編集協力『ケストナーの戦争日記 1941-1945』

 戦争を「祭り」に例えるのは不謹慎かもしれないが、この戦争日記からはイントラ・フェストゥム的意識が読み取れるといえるだろう。

 そもそもかつて「戦争」には「祭り」という一面があった。ドイツの反戦文学として有名なエーリヒ・マリア・レマルクの『西部戦線異状なし』(一九二九年刊)でも、主人公たち若者は熱に浮かされるようにして戦地に赴き、そこで非人道的な戦争の実態に翻弄される。一九一四年に勃発した第一次世界大戦は非人道的行為のデパートと化した。塹壕戦、毒ガス、アルメニア人などへのジェノサイド。また心的外傷後ストレス障害(PTSD)にあたる兵士の病状がシェルショック、ドイツ語ではKriegszitterer(戦争震え)と呼ばれて問題になったのもこのときだ。ドイツで反戦文学というジャンルが花開いたのは第一次世界大戦以後といえる。緒戦の一九一四年にはまた、戦争をはじめたドイツ帝国を擁護する「九十三人のマニフェスト 文明世界に訴える」が発表されたりした。このマニフェストはこんな一文ではじまる。「ドイツの学問と文化を代表するわれわれは、すべての文化的世界に対して、嘘をつくな、中傷するなと抗議の声を上げるものである。われわれの敵がドイツに強制している困難な存在との闘争は純粋な行為であるのに、それを汚そうとしている」。そこには作家ゲルハルト・ハウプトマン、リヒャルト・ワーグナーの息子ジークフリート・ワーグナー、象徴派の画家マックス・クリンガー、X線の発見者ヴィルヘルム・レントゲン、のちにノーベル物理学賞を受賞するマックス・プランクなどが名を連ねている。もちろん戦争賛美に異を唱える者がいなかったわけではない。たとえばヘルマン・ヘッセは同じ年、「おお友よ、その調子をやめよ!」というベートーベンの第九で合唱される「歓喜の歌」を連想させるタイトルの批判文を新聞に掲載した。だがそのためにヘッセは売国奴呼ばわりされ、精神的な危機を迎えた。戦争に反対する声は当時、まだまだ少数派だったのだ。

 第一次世界大戦当時、戦争はまだ「祭り」に数えられていた。ナチ時代にも第二次世界大戦は多くのドイツ人にとって「祭りの最中」だったといえるだろう。戦争、あるいはナチ独裁を渦中と捉えるなら、ナチ独裁前を「まだない」状況、独裁崩壊後を「もはやない」状況として大きく捉えることもできるだろう。そしてこの大きな意味での「まだない」状況の中にも、小さな「まだない」状況と「もはやない」状況があった。

 じつをいうと、ケストナーはこの時期にも「無人期間」といえる体験をしていた。

 そういう体験の中でも、ケストナーにとって最も辛かったのはナチによる焚書だったに違いない。一九三三年一月にヒトラーが首相に就任すると、ナチは権力を掌握し、あらゆる組織、団体に強制的同一化の網をかぶせ、その延長上で五月十日、ベルリンのオペラ座広場を皮切りに全国で「反ドイツ主義」と認定したユダヤ人や反体制派の書物を燃やした。オペラ座広場だけでも燃やされた書物は二万五千冊に及び、参加者は大学生を中心に延べ四万人に達したという。焚書の対象になった作家や著述家にはカール・マルクス、ジークムント・フロイト、レマルクなどの名前が並んでいた。また「本を焼く者はやがて人間を焼くようになる」という言葉を残した詩人ハインリヒ・ハイネの著書も、彼がユダヤ系作家であったために燃やされた。ハイネのこの言葉はのちのホロコーストを予言しているようで、なんとも不気味だ。

 ケストナーはこのオペラ座広場の焚書を目撃している。そして、三月に国民啓蒙・宣伝大臣に就任したばかりのゲッベルスはこのオペラ座広場で演説を行い、他の作家と共に退廃作家としてケストナーをやり玉に上げている。

 それから二十年後の一九五三年五月十日、ケストナーはドイツペンクラブのハンブルク大会で講演をしている。演題は「書物を焼くことについて」。ケストナーは講演の中で当時を振り返ってこう述べている。

 「一九三三年五月十日、ドイツの学生たちがあらゆる大学町で何トンもの書物を火に投じたとき、わたしたちは政治のなせる業、そして歴史の只中にいることを実感しました。この政治的な放火の炎はなかなか消せるものではありません。延焼して、まわりを吞みこみ、燃えあがらせ、ヨーロッパ全体ではないにせよ、少なくともドイツを焦土と化さしめるだろうと思われ、事実そうなりました」

 焚書は人類の営みをリセットするという意味で、別の形の「無人期間」といえる。

 ケストナーはこの講演の最後のほうでこうも述べている。

 「一九三三年から一九四五年にかけて起きた出来事に対して、遅くとも一九二八年には戦いの狼煙を上げなければならなかったと思います。そのあとでは遅すぎました。自由のための戦いが国家への反逆と呼ばれるようになるまで待ってはいけません。雪玉が雪崩になるまで待っていてはいけないのです。転がる雪玉は踏みつぶさなければなりません。雪崩はだれにも止められないのです。雪崩が鎮まるのは、すべてを埋め尽くしたときなのです」

 ケストナーが一九二八年を強調しているのは、一九二九年の世界大恐慌とそれに起因する大規模な失業難を背景にナチ党が急速に国会の議席数を伸ばしたことを念頭に置いているからだろう。一九二八年は象徴的だ。今の世界は、さまざまな平和への試みが頓挫し、世界のあちこちでタガがゆるんできている。わたしたちが生きている今は「まだ一九二八年ではない」のか、それとも「もはや一九二八年ではない」のか、どちらだろう。わたしは今を「無為」に過ごし、ケストナーのように「焚書」に立ち会いたくはないと切実に思う。

(さかより しんいち・ドイツ文学)


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