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松村由利子 一篇の詩との出会いを求めて[『図書』2025年6月号より]

一篇の詩との出会いを求めて

茨木のり子『詩のこころを読む』

 

 「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります」「生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます」──詩の本質について茨木のり子はこう記す。人間の長い歴史の中で、多くの民族が詩という形で出来事を語り継ぎ、愛を伝え、亡き人々を悼んできたことを思うとき、詩が決して難しいものでも日常から隔たったものでもないことがわかる。人はずっと詩を必要とし、支えとしてきたのだ。

 とはいえ、「何か詩を読みたいな」と思っても、一冊の詩集をどう選べばよいか迷ってしまう人もいるかもしれない。そんなとき、優れた詩人の道案内が何よりの手がかりとなる。『詩のこころを読む』に紹介された数々の詩篇を読むうちに、必ず「ああ、この人の言葉にもっとふれたい」と思う作品と出会うに違いないからだ。

 最初の章「生まれて」の冒頭に置かれているのは、谷川俊太郎『二十億光年の孤独』の中の一篇である。「あの青い空の波の音が聞えるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまつたらしい」で始まる「かなしみ」が書かれたのは谷川が十代のころだった。この詩の魅力について著者は、「まじりっけなしの純粋さを湛えていて読む人の心を打ちます」と評する。そして、「青い空には若く多感な人々の心をさそってやまない何かがある」と述べた後に、石川啄木の「不来方のお城のあとの草に臥て/空に吸はれし/十五のこころ」(『一握の砂』)という一首を引いてみせるのだ。

 こんなふうに詩を語りつつ、ごく自然に短歌や和歌にもふれられていることが、短歌を詠んできた私にはとても嬉しい。「現代詩」は単独でひょっこり生まれたものではなく、それまでに口ずさまれてきた多くの和歌や謡、語りなどと無関係ではない。それらの上に築かれたものというよりは、そこからの訣別を意図して拓かれたジャンルではあろうが、詩の豊かな流れの源泉として歌が認識されていることに少しドキドキする。

 千数百年前に紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を茨木は「日本での最初の詩論ともいうべきもの」と見る。そして、「鳥や蛙や虫も、まったく同列の仲間として組みこんでいる詩論は珍しいんじゃないでしょうか」と述べ、「水道管はうたえよ」で始まる大岡信の「地名論」も、水道管に「きみもうたえよ」と呼びかけずにはいられない、ある日本の伝統ではないかとユーモアたっぷりに言う。

 読み進むうちに、ぴしりと頬を打たれたような思いを味わう箇所もある。石川逸子の「風」の一節、「遠くのできごとに/人はうつくしく怒る(中略)近くのできごとに/人は新聞紙と同じ声をあげる」を読むと、こうした性情が自分の中にもあることを思わされ居たたまれなくなる。アウシュビッツ強制収容所で亡くなった少女アンネに対してはやり切れぬ思いを抱いて悲しむのに、「東洋の無数のアンネたち」に同じような涙を日本の私たちは注がない、と茨木は厳しく批判する。

 一方、岩田宏の「住所とギョウザ」は、朝鮮出身の「リイ君」のいじめに加担してしまった少年時代を深く悔いた哀切な作品だ。茨木は朝鮮の人々に創氏改名や日本語の使用を強いた歴史にふれ、「かつての非道の幾多の資料、統計、論文を読むよりも、この一篇の詩は、はるかに心にぐさりと突きささり、日本と朝鮮の過去の不幸を照らしだしている」と記す。これこそが詩のもつ力なのだ。

 こうした歴史認識が一冊全体に響いているのはなぜだろう。茨木のり子という名前を知らなくても、「わたしが一番きれいだったとき」というフレーズを記憶している人は多いのではないか。「わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山死んだ/工場で 海で 名もない島で」──一九二六年生まれの彼女にとって、十代はほぼ戦争一色に塗り潰された時期だった。戦争という最も野蛮な罪業を茨木は終生忘れることがなかった。働く女性の暮らしや自立を表現した石垣りんや永瀬清子の詩を丁寧に読み解いているのも、戦後の新しい女性像への共感が根底にあったからに外ならない。

 「生まれて」の章から始まる本書は、「恋唄」「生きるじたばた」「峠」と来て、最後に「別れ」という章で締めくくられる。果てしない青空に生きることの切なさやつらさを感じる思春期、恋や自らの生き方に悩むとき、人生を振り返るころ……人の誕生から死までをたどる形の一冊は、いつ、どこから読んでも、瑞々しい感動を与えてくれる。

 そして、この慎ましい詩人は本書に自作を一行たりとも紹介していないのである。さまざまな詩にふれる喜びを味わった後、茨木のり子その人の作品ともぜひ出会ってほしい。『自分の感受性くらい』『倚りかからず』──タイトルからも清冽な精神が伝わる詩集の数々は、「詩のこころ」を抱いて生きる豊かさを一層深く味わわせてくれると思う。

(まつむら ゆりこ・歌人)


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