【文庫解説】宮沢俊義著、長谷部恭男編『八月革命と国民主権主義 他五篇』
1945年8月のポツダム宣言受諾は、天皇主権から国民主権への革命であった──。日本の憲法学を牽引した宮沢俊義氏(1899-1976)は「八月革命」説を唱えて、新憲法制定の正当性を主張しました。本書には、その記念碑的論文をはじめ、主権の所在をめぐる法哲学者・尾高朝雄氏との論争における論考、現在の通説の淵源となった論文「国民代表の概念」等を収録します。以下、編者の長谷部恭男先生による解説の冒頭部分を抜粋いたします。
本書に収められたのは、宮沢俊義による八月革命に関する4本の論稿と、日本国憲法草案を審議した第90回帝国議会における彼の質疑の記録、そして師であった美濃部達吉の還暦記念論集に彼が寄せた「国民代表の概念」である。第一論稿「八月革命と国民主権主義」以外はすべて、宮沢俊義『憲法の原理』(岩波書店、1967)に収録されている。
宮沢俊義は1899年長野県に生まれ、東京帝国大学法学部卒業後、1925年同大学法学部助教授、1934年に教授となり、1959年に定年退官した。その後、立教大学法学部教授となり、1976年逝去した。貴族院議員、日本野球機構コミッショナー等を務めた。長年にわたって日本の憲法学を牽引し、通説とされる学説の多くを形成した。
八月革命説は、大日本帝国憲法と日本国憲法との法的連続性の有無を説明する理論である。大日本帝国憲法は天皇主権原理に立脚する。日本国憲法は国民主権原理に立脚する。日本国憲法は、大日本帝国憲法73条の定める改正手続を経て成立した。
日本政府による憲法改正作業を見守る方針をとっていた占領軍総司令部が1946年2月に方針を転換し、独自に起草した総司令部案をもとに改正を進めるよう日本政府に求めた経緯は広く知られている。方針転換の背後には、①占領政策の円滑な遂行にとって天皇制の維持が望ましいとの総司令部の判断、②総司令部による占領統治をコントロールする国際機関である極東委員会が活動を開始する前に(第1回会合は1946年2月26日)、憲法改正の方向性を定めておきたいとの総司令官マッカーサーの意向、そして、③日本政府の下で松本烝治国務大臣を委員長とする松本委員会がとりまとめつつあった憲法改正案のきわめて保守的な内容を示す毎日新聞のスクープ(2月1日)という全くの偶然事があった。
日本政府の用意する改正案が公表されれば、極東委員会において、天皇を戦犯として裁くべきだと主張する対日強硬派の国々を勢いづかせることが予想された。天皇制を維持しつつ占領政策を進めるには、総司令部が早急に作成した草案をもとに憲法を改正するよう、日本政府に働きかけるしかないとマッカーサーは考えた。
総司令部案は、日本政府と総司令部との折衝を経て1946年3月6日に公表された憲法改正草案要綱となり、同年4月10日の衆議院議員総選挙を経て召集された第90回帝国議会に、政府の憲法草案が上程された。衆議院で約2か月、貴族院で約1か月半にわたる審議を経た後、憲法草案は10月7日に最終的に議決され、枢密院の審議および天皇の裁可を経て、11月3日に公布された。
日本国憲法の冒頭に付された上諭は、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とする。
他方、日本国憲法の前文は、その冒頭で、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と述べる。
大日本帝国憲法は天皇主権原理に立脚していた。少なくとも国の政治のあり方を最終的に決める力、つまり憲法制定権力は天皇にあることになる。上諭は、その建前に沿って憲法制定の経緯を描いている。ところが、日本国憲法前文は、憲法制定権力が日本国民にあることを前提として、日本国民がこの憲法を確定すると述べる。そこには矛盾があるかに見える。大日本帝国憲法を根底で支えていた天皇主権原理を、憲法自体の定める改正手続を踏んだからと言っても、全く異なる国民主権原理へと変更することができるものであろうか。宮沢が指摘するように、そうした変更は、改正の限界を超えており、たとえ改正手続を踏んでも不可能だというのが、旧憲法下での通説であった。
宮沢の説いた八月革命説は、日本政府が1945年8月に受諾したポツダム宣言が国民主権原理をとることを要求しており、その要求を受諾した時点で、主権は天皇から国民へと革命的に移行したとする。この時点で、日本の憲法制定権力は国民のものとなり、これ以降の大日本帝国憲法は、国民主権に立脚する憲法となった。その憲法の改正として日本国憲法が成立することは、不思議ではない。断絶は1945年8月にあり、日本国憲法が施行された1947年5月にはなかったという議論である。松本委員会での作業に携わった宮沢は、一転して、「国民主権主義を真向から承認」する新憲法の法学的正当性を説明する理論を準備した。
第一論稿「八月革命と国民主権主義」は、幣原内閣が1946年3月6日に発表した憲法改正草案要綱を素材として、八月革命説をはじめて打ち出した論稿である。(以下、略)
(全文は、本書『八月革命と国民主権主義 他五篇』をお読みください)