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最果タヒ 愛は全部キモい

第1回 愛は全部キモい ──「ロミオとジュリエット」


イラスト 三好愛

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 愛は美しいらしい、愛は世界を救うらしい、愛は無限の力をもたらし、愛は全ての障害を乗り越える可能性を持つらしい。それは愛を貫こうとする人の本人の力強さであって、愛そのものの美しさなんかではないと私は思う。というより、愛というものを貫こうとする人を見ると、そして自分の命を捨てることを選ぶ人や、自分の夢を捨てる人を見ると、私は愛というものをここまで信じさせている世界が気持ち悪いなと感じる。その人がそうしたくてそうするのは、私には何もいえないけれど、それを愛のためだからと美しいと捉える第三者は不気味だ。八方塞がりの状況の中で、愛を信じることだけが最後の手段だと思えてならない時、愛だけは手放したくないと命と天秤にかけてまで思ってしまう時、そんなふうにうやむやな愛しか、希望として縋るものがない世界が異常なだけじゃないかと思う。

 気持ち悪くない愛なんてあるのだろうか。先日、ファンとしての愛とか、片想いとかもだけど、一方通行的に愛情を寄せる人は気持ち悪いんじゃないかという話を見かけたとき、気持ち悪いのは愛そのものであって、気持ち悪くない愛なんて本当はないんじゃないか、と思った。気持ち悪いものをいかに、相手にそのまま差し出さずにいられるかの話、なのかもしれない。人を愛するって不気味だ、完全に理解しあえる他者などいないし、人生がそれぞれ異なるのだから、「わかる」ことはないのに、それでもその人だけを特別だと思い、そのすべてを肯定したくなったり、自分のすべてを肯定されたくなったりする。根拠も向かう先も曖昧で、それでもそこにある「愛」というものを信じ抜いて、見えないそれのために何かを犠牲にさえする。それって異常なことではないか、と思うし、それでも全貌がわからない一人の人を信じたいと願ったり、その人の知らない側面さえも包みたいと願うことは、自分にもまた曖昧な部分を抱え、人には理解してもらえない側面を持つ人間にとって、救いなんじゃないかと思う。すべてをさらけだしてわかりあうなんて難しく、でも、だからこそ、わからない人のことを信じたいとなぜか情熱的に思うとき、孤独に生きるしかない自分自身の支えとなる。誰にもわかってもらえなくても、誰にも理解されなくても、他者と並んで生きることはできる。それは、全てを理解されることよりたぶん救いだし、それは愛の素晴らしさというよりは、その人自身の勇敢さによるのだと私は思うのです。
 全てを知っているわけではない人を、でも心から全て包みたいと思う時、それが異常なことだときっとどこかではわかるはずだ。愛を知らないところから、愛を知るのだから、その異質さに気づいてはいるはずで、それでもその状態での思いの吐露をそのまま、「愛だから」と相手にさらけ出して、全部受け止めてほしいと願うのはおかしいことのようにも思う。どうして、自分のことを全て知っているわけでもない人が自分を愛するのかなんてわからないし、得体がしれない。それでもそういうふうに思ってはならないと、どこかで自分を律してしまう。それは、愛がすばらしいもので、絶対的なものであることを信じすぎているからこそそうなってしまうのかなと思うのです。愛はすばらしいと世界中が言うかもしれないが、それは耳触りがいいからみんなそう言っているだけで、どこにもその「理由」はない。本当は愛なんて得体が知れなくて不気味で、それでもすばらしいと認めなくてはならないとされている点はひたすら恐ろしくて、そんなものをどう伝えるか、どう愛するかというより、どう、他人を尊重するか、そんな話なのだと思う。私は、この世にいる他の誰もが愛なんて知らなくて、自分一人がその気持ちを知っているというぐらいの、それくらいの心もとなさで、本当はいたい。愛を美しいとすれば済む話はたくさんある、他人に自分の思いを受け入れてほしいとまっすぐに望むこともできる。愛することが怖くなくなる。積極的に愛していける。でも、それは自分の気持ちそのものではなくて、この世が作った愛という幻への信仰心に頼っているだけだ。愛というものが価値のあるものだと刷り込まれていなくても、この告白を私はできましたか。私の言葉は、私から本当に出てきたものですか。私は今気持ち悪いのではないかと思う時、その気持ち悪さの責任は全て私が背負っていたい。愛は全部キモい。そうわかっていたい。そこからじゃないと愛は、私だけの愛になっていかないから。もっと全ての人がその人だけの気持ち悪い愛を、見つめられたらいいのに。愛が美しいなんて思わなくても、そんなファンタジーの希望を描かなくても、それでもやっていける世界になってほしいと願っている。

 ロミオとジュリエットは、若い二人が愛を貫くために死を選ぶ物語。二人が結ばれるためには死ぬしかなかった、という流れはわかるようで、でも本当は少しもわからないのです。別の人と結婚させられそうなジュリエットと街を追放となったロミオが、このままでは愛を貫けない、と思うのはどうしてだろう、そう、どうしても不思議に思う。他の物語には結ばれなくても永遠に愛を誓う恋人たちもいます。別の人と結婚してもずっと昔の恋人を思う人というのはよく出てくる。でもジュリエットはそれが嫌だと言ったし、そして自分の命を捨ててもいいと言った。彼女の愛が他の愛よりも強かったから、とかではないように思うのです。
 私は、二人にとって自分たちの命はどうしようもなく軽かったのではないかと思えてならない。それは彼らを非難したいからではなくて、若くて、戦いから隔離されて、それでも周りは戦い続ける世界に生きる二人が、自分の命を本当の意味で大切に思えるかというとそれは難しいと思うから。彼らに「命の大切さ」「生きるだけで誰かを幸福にできること」「生まれた時の周囲の喜び」を自覚させられなかった家族や仲間の敗北だと感じる。悲劇のトリガーとして愛はあるのかもしれないけど、本当のところ二人を殺したのは愛の眩しさでも愛の強さでも周りに愛を否定されたからでもなくて、彼らが自分の命に本能的にしがみつくほどには、生まれてから愛を与えられてこなかったからじゃないかと思う。特に、ジュリエット。ロミオは事故的に死ぬことを選んだのかもしれないが、ジュリエットは違う。彼女の、死に向かおうとする姿勢。彼女にとってロミオとの出会いは特別で、そしてその出会いは自分の命よりも当たり前に「奇跡」だった。彼女は自分が生まれたことがどれほど家族にとって「奇跡」だったのかを、教えてもらえていなかったから。

 自分の命の尊さを本当の意味で知ることができなかった子どもたちが、強烈な奇跡的な愛情に出会ってしまったときどんな悲劇が起きるのか。ロミオとジュリエットはそんな物語であると思うし、彼らの命に対する身軽さがむしろ彼らの初恋を鮮やかに描いている。どれほど恋というものは、奇跡的な巡り合わせなのか、彼らの死への身軽さが相対的に証明してしまっている。二人の間にある愛はにせものなんかではないし、たしかに愛し合っていた。生まれたばかりの愛情は互いを思いやって、守り、支え合うものとはまた違っていて、ただひたすら、自分が生まれた意味はここにだけあるという「錯覚」と「安堵」なのだと思う。出会ったことでもう人生が完成したような確信。その愛をずっと二人で育てていこうという意志ももちろんあるだろうけれど、相手を見つけた瞬間に自分が生まれた意味や答えを知ってしまった感覚になって、きっと、自分の中で「なぜ生まれたのか」「どうして生きているのか」に決着がついてしまったのだろう。だから、命が惜しくなくなる。この答えに命をかけてでも執着してしまう。けれどその惜しくなさは、「なぜこんなにも自分は家族や仲間のみんなにとって大切なのだろう?」「生きているだけでどうしてこんなに喜んでもらえるのだろう?」という疑問があれば、立ち止まれる。それがないから彼らは、恋の鮮烈さのまま、納得して死に向かってしまった。しがらみがない二人は、愛という形のないものを描き出す鋭い突風のようだった。
 愛は、愛した人・愛された人を守るために動くものではないと思う。むしろ生きてきたことの意味や疑問に答えを与えてしまうことさえあって、答えを得てしまうと、人は疑問を引きずって生きていく人生を終わりにしても良いと思いこんでしまうのかもしれない。人生に達成感を覚える時、それは「これからも生きる必要」を見失う時だ。前向きにさまざまな夢を持って「生きたい」と願い続けるのではなくて、なんとなく与えられた生を生きていくのも私は悪いことではないと思う。どうして生きているのかなんてわからなくて、未熟で、鈍感なまま、運良く生まれ、運良く生きて、そしてでもどうしてか死にたくなくて、その理由が「やりたいことがあるわけではないけど、でもまだ何にもできてないから」とか、「まだこれからがある気がするから」とか、「この先に何もないなんて怖すぎるから」とか、その程度であったとしても、それは誰にも責められることではない。命なんてそんなものだ、その人にとっては最初から、いつのまにか手元にあったものなんだから。いつの間にか生きてしまって、生きているからこその苦痛に出遭った時の損をしたような気持ち、どうしてこんな目に遭ったんだろうという繰り返しの中で、いいことだって起きてほしいとか、まだプラマイゼロにもなってないぞという思いから、まだ死にたくないと思う、それは普通に生きる分には十分すぎる「生きる意志」だ。
 けれど恋をしたとき、多分それでは生きていけなくなるんだろう。生まれた理由を知るほどの恋、は命を捨てるきっかけとなる恋でもあり、でも、それは、生きることの意味とか価値を理解した上での「捨てる」ではない。愛することで互いの「わからない部分」さえ包んで、わからないところ、未知な部分、これから変わるところさえも、隣に立つことで受け入れていくのとは違って、愛そのものへの憧れが強すぎるとき、愛を得た、というそれだけで、全てが満たされたと錯覚するのかもしれない。そのとき、愛に感じる絶対的な意味や価値は、世の中にある価値観から借りてきた物でしかない。愛なんて素晴らしいものに出会えたなら(死んだっていい)と思う時、自分の生が肯定される感覚より、自分の価値観が世界の価値観に乗っ取られて、考えなくて済むような安心感に包まれてしまうのかもしれません。素晴らしいとされる愛が自分のところにやってきた、だから、死ぬのもいいかなと思ってしまう。愛に憧れが強ければ強いほど、愛で命への執着が消えてしまうのかもしれません。

 ジュリエットがどのような意志で薬を飲むのかは、演じる人によって奥行きがある。死んだっていいというセリフはあるけれど、それもあくまで「発言」であって、彼女の本心なのかはわからない。ただ、私が去年に見た宝塚星組のロミオとジュリエットのジュリエット(舞空瞳さん)には、命よりも運命を信じる少女にしか纏えない激しい意志と、そしてさみしさが底に渦巻いているように見えた。両親が不仲で、会ったこともない人間と結婚しろと平気で言ってくる。たとえ本当はそこに愛があったとしても、彼女に届かない愛は、彼女を満たすことはない。神様に運命の人に会わせてほしいと願う彼女にとって、愛はファンタジーのようだった。たとえ物語のような愛に出会えなくても、毎日日差しを浴びられたら、家族と笑いあえたら幸せだと思える人生を彼女は得ていなかった、だからずっと、きっと寂しかったのだろう。彼女は、生きるなら、幸せにならなくてはならないと思っている。愛によってそれはもたらされると信じている。生きているだけで幸福なことで、生きることは他者を幸福にするのだということを多分知らない。彼女にとって愛は現実のものではなく、魔法のように全てを満たしてくれるもの、そんな憧れの対象で、憧れてしまうのは、彼女が飢えてきてしまったからだ。
 彼女にとって愛が特別であればあるほど彼女の中にある寂しさが際立ち、そして、愛への憧れが、「愛はすばらしい」とする世界にある幻に重なっていく。愛することは個人的すぎて、他人にはなかなか理解してもらえないこと、そして、とても厄介な新しい人との関わりを生むこと。でも、愛することのその先にある具体的な景色を彼女は見ていなくて、物語が差し出す「愛」という概念を借りて、夢見て、ひたすら憧れている。愛の先を見ることがなく、愛に心惹かれる彼女だからこそ、愛をみつけたらそれがもう彼女のゴールとなってしまった。愛を得た時に全てが彼女の中で解決してしまったのだ。そして生まれたなら幸せになりたいという、彼女なりのささやかな生への未練が、そうやって断ち切られてしまったのだと思うのです。
 どんなに愛しても互いは別々の人間で、共に時間を過ごせば、価値観が違うことを思い知る、他人であることを思い知る。それでも共にいるとき、共にいるというそれだけで、自分では肯定しきれなかった自分の人生が、他者の存在によって肯定されて、自分もまた、他者の人生を隣に立つだけで肯定しているのだと知る。この静かなやりとりのなかで、愛情という感情が特別なものであると気付かされるのだと私は思う。本当に、奇跡的だとわかるのだと。世界が愛を素晴らしいと言うから愛はすばらしい、というのではなくて、愛の美しさをそこで個人的に、はじめて、発見することができるんだ。この世に愛という言葉がなくても、その気持ちに気づくことがきっとできる。愛という幻と関係ないところで、人を愛することができる。誰かを愛したなら、その愛情をどこまでも個人的なものにしていきたいし、そこには二人で生きる時間があるはずなんだ。
 ジュリエットはでも、それを選択しなかった。そして彼女が生きるのを手放そうとしがちだったのは、愛そのものへの憧れが強すぎたからで、それは愛を知らなかったから。それでも、目の前に現れたロミオへの愛情は本物で、彼女の満たされた感覚は間違ってはいなかったのだ。
 愛に憧れすぎたからこそ本当の愛が彼女の命の火を消した。愛に憧れすぎたからこそわかってしまう「本当」があったのかもしれない。この人は運命だ、と一瞬で信じられたからこそ、一瞬で終わる人生を受け入れてしまったのかもしれない。彼女に、長く生きて少しずつ実感していく「愛の個人的な素晴らしさ」なんて似合わなくて、でも、似合わないことが何よりも悲しいんだ。愛されることが当たり前だった人生を彼女にあげてほしかった。生まれた時からそうであってほしかった。愛なんてなくても幸せですと言えるような少女になれなかった彼女が私は悲しい。

(イラスト/三好 愛)


*本文は宝塚歌劇団星組公演『ロミオとジュリエット』(2021)をベースに執筆しました。

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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