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最果タヒ 愛は全部キモい

第11回 根拠のない愛こそ信じて──『眠れる森の美女』


イラスト 三好愛

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 眠れる森の美女は、どうして目を覚ましたとき目の前にいた人を好きになるのか。どうして王子は目の前にいる眠る女性を好きになるのか。どちらもどんな人なのかわからないのに。それで好きになるのはどうして。
  でも、私はこの二人が80歳になって仲睦まじい夫婦になっていると想像すると、ああ、好きだなぁと思う。好きな物語だと思う。
 
 なりゆきの恋だと思う。眠れる森の美女は、愛される側も愛する側も、全然なんにも情報がない中で恋をしていて、それはなんだか物語という大きな波が二人に無理やり運命を感じさせているようなことだと思うけれど。でも、それでも、その関係性がくだらないと言えるほど、人は本当は恋をするとき、他者をよくは見ていない。何にも知らないのに知ってる気がしてしまったり、ただの偶然なのに運命を感じてしまったり。そうやって自分の人生に大きなドラマを見出し、恋が走り出すことはある。というかたぶんほとんどがそんなふうにはじまる。走り出してしまえば、たとえよく知らない人でも、思ってたのと違うなと思うことがあっても、その人のことを「それでも好き」って庇いながら追いかけて、そのうち腐れ縁のような絆が出来上がるのだ。妥協して、我慢して、自分の中にあった幻と別れて、そしてその人を受け入れる。受け入れても多分それはまた新たな幻で、またそのうち違うなとなり、でも、それでもとその人を庇い、そうやってなんとかその人への愛を続ける。すべて不純と言えばそうなのだが、これが不純なら純粋な愛は最初から100%愛すべき人に向けるものということで、なんだか審査員になって人を選び抜くようなことで嫌だなって私は思ってしまう。人と人の関係性は誤解と錯覚がいりまじり、妥協と我慢でふれあって、そうやって相手の瞳の中にあるさみしさのきらめきを愛でていくのだ。愛しているとそれでも言える、それは他者と完全にわかりあえない「人類」にとって救いではないか? 愛って、不純でくだらなく、歪で中途半端だから、私やあなたを救うのではないか? 私やあなたはそれくらい離れている、見間違えながら、勘違いしながら、きらきらしたものをたがいにみて、手を取り合い、好きって言える。全部間違いかもしれないが、でもその時信じられるっていうことが、どんな真実よりも宝物なんじゃないか。
 
 私は、人が使える魔法だと思っています、「信じる」って。自分には現実があり、直視しなきゃいけないことがたくさんあり、そしてそれらだけを考えることがまるで賢いことかのように言われるけれど、人は夢を見ることができて、非現実な光を信じることができる。それらを見つめている時、現実から逃げているようにも感じるけれど、でも私はそれもまた一つのその人の「生」そのものだと思う。それを取り除くことが人生を100%正確に見定めることになるとは思えない。むしろ人は、生きている中で現実的ではないところからも悲しみや痛みを感じて、どうしてって聞かれても説明ができない苦しさや、誰が助けようとしても埋められない寂しさを持ちうるけど、そんな中で、現実とは違う夢をぐっと握りしめて、走り抜けようとする時、その手の感触はどこまでも現実のものだって思うのです。空にある星のようなもの、そこに辿り着くことはないけれど、その星を目指して歩けば、地上をまっすぐに歩ける、みたいなこと。
 この人が愛おしい、と思った。それは勘違いかもしれない。私はその人を誤解しているのかもしれない。でも一人の人を愛して、その愛の鮮烈さを信じて、愛情に真摯に生きるその人の人生には、真っ直ぐな光が通っていく。それはそのあと恋が誤解だったなとなっても、きえないし、素晴らしさは変わらないのだ。人はそうやって誰かを愛するし、その誤解に大小あれど、やっぱり誤解のない愛なんてないと思う。なくて良いと思う。正確にその人を知って愛するより、人は多分「信じる」ということを貫ける場所だからこそ、愛をとても大切にしているんだろうって。
 
 お姫様は美しくて心もきれいでダンスもできてきれいな声で歌えるけれど、だからって誰もがその人を好きになるわけではない。王子様はその美しさに惚れ込んだけど、でも人は美しさだけじゃ好きでい続けることはできない。でもそんなことは大したことじゃない。それだけの理由じゃ好きって言えなくない? みたいなことで多くの人は恋をして、眠れる森の美女のこの出会いの大雑把さを冷静に非難できる人はそういない。みな、その瞬間の恋を守るために、時には妥協しその気持ちを繋いでいくのだろう。
 そんなとき、人はよく「運命」という言葉を使う。私は、自分のことをこの世界でただ一人の大切な人だと、自分以外の誰かに本気で思ってもらえるなんて思っていない。全ての人を参照して、それから「あなたが一番」とか「あなただけ」とかきっと無理で、というか私に似た人間はたぶんたくさんいるし、私より素晴らしい人もたくさんいる。一番がそもそも嬉しいかというとかなり怪しいな、とも思う。ただタイミングだとかその時にどこにいるかとか、そういう偶然によって出会う二人が、「この人が唯一の人!」と思うことはあり、そのときの確信に冷や水なんてかけたくないなって考えているのですが。
 その時に「あなたが運命の人だ!」みたいに、よく飛び出す「運命」という言葉は、言ってしまえばとても都合がいいけれど、でも、「確信」はうそではなくて、本当に確信としてその人の心に煌めいていて、それを支えるために生まれたのが「運命」って言葉なんだろうな。世界はとても広すぎて、そんな舞台で自分が主役の人生を全身でのびのびと何十年も全うするなんてとても難しいことだから、私の見える範囲のことで、私が知ってる範囲のことで「これが答えだ」と断言するために理由になる言葉は、あっていい。それくらいの言葉に頼っていつまでもあなたたちはあなたたちの人生の主役でいてくれよと私は思う。
 「運命」はなんの証明もできない思い込みの言葉だけれど、けれど人生そのものを全貌が見えないまま、とても規模の大きな絶対的なものに変えてくれる。世界がどれほど広くても、運命が誘うならそれが唯一の答えなのだと、人は思える。世界と対するしかない人生に、はっきりとした大きさを、そして圧をもたらして、けっして「世界一好きだなんていうけど世界中の人と会ってみたことがあるわけ?」なんて問いに負けない。運命だから、この人なの。そう思えるとき、盲信といえばそうだが、世界という大きさに負けないでいられるなら、盲信していようよ。あなたの人生はあなたのものなのだから、世界の話など土足で踏んでかけぬけて、無視したっていいのだ。
 
 眠れる森の美女は、「それだけで恋に落ちるの?」と不思議になる話だが、でも第三者には雑にしか思えないそんな出会い方が、彼らにとっては人生の大きな出会いだったというのは、人の恋に対するとてつもない肯定になっている、と感じる。彼らはよくわかんないけど、眠っている自分を目覚めさせてくれたから、イバラの奥に横たわっている美人だったから、「この人だ!」と思ったのだ。恋って確かにそんなもんかもなぁと思う。もちろん、二人は仲睦まじい老夫婦にはならずに、別れてしまうかもしれないが、ここは物語なので二人で仲良く暮らしたのだろうと想像する。それだけで、ある意味で人の恋のオーソドックスな理想の形だなぁと私は感じた。二人が、二人の意思で、錯覚で見出した「運命」を守り続けて長く夫婦でいたなら、それはとても美しいことだ。ロマンチックだなって思う。もちろんたくさんの幸運があったからこそ可能なことだとは思うけれど……。(そうならなかったらならなかったでしょーがないね!)愛が続くことの素晴らしさは、愛が美しいからではなく、その時にお互いが錯覚した運命を守り続ける努力があったから。そしてそれはお互いの人生のドラマ性を、そして「世界よりも私の人生は大きい」と信じていける自己肯定感を守っていくことでもある。あまりにも運命しかない恋だからこそ、二人の恋の最後を想像し、そしてそこにこそ、この物語のロマンを感じてしまう。

(イラスト/三好 愛)


*なお、本文は、シャルル・ペロー、森田稔訳『眠る森のお姫さま』(青空文庫、2006年)をベースに執筆しました。

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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