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最果タヒ 愛は全部キモい

第7回 このハッピーエンドに愛は関係ない──『シンデレラ』


イラスト 三好愛

7

 シャルル・ペロー版の童話シンデレラは二人の姉を舞踏会に送り出してからひとり涙を流す。グリム兄弟版のシンデレラは姉の舞踏会の準備をしながら、姉の前で涙を流す。グリム版では意地悪な姉は二人とも報復を受けるが、ペロー版では、謝る姉を優しく抱きしめ許している。

 ペロー版のシンデレラはとても面白い人、というか、そこまで哀れではない人。自分が理不尽な目に遭っているとわかっているのに、そこに感情的にはならなくて、むしろ姉の前では泣かないように気を付けているようだった。そうして王子が自分を探していると気づいた時も、自分が王子に必要とされているのだという喜びや、この生活から脱することができるという期待よりも、城の従者が厳重に運んできて、そして姉たちが必死で履こうとしている「例の靴」が、自分の落としてきてしまった靴だったと知ってつい笑い出してしまう。

 サンドリヨン(シンデレラ)は、そのとき、わきで見ていますと、それはなんのこと、じぶんの半分おとしてきた上ぐつでしたから、ついわらい出してしまって、「かしてくださらない。わたしの足にだってあうかもしれないから。」といいました。

 なんて爽やかな人なんだ、と思う。優しくしおらしい心を持ちなさい、というのがペロー版の最後に書かれている教訓なのだけれど、このシンデレラにあるのは「しおらしさ」ではない。彼女は幸せを夢見て、奇跡がいつか起きるなんて信じてそこに希望を見出し縋るような生き方をまったくもってしていないし、別に謙虚でもない。単なる純真さというよりも、人の悪意や欲深さを、くだらないことだとみなせる賢さと冷静さだ。彼女は文句も言わずに姉の言う通りに舞踏会の準備をしてやるし、姉たちのドレスにアドバイスもしてやる。それは「優しさ」や「謙虚」に見えるのかもしれないが、でも私は、彼女にとってそれらはニュートラルな「姉のお手伝い」だったんじゃないかと思えてならない。手伝い以外何もさせてもらえず、舞踏会にも行けないことは彼女に降りかかる理不尽だが、シンデレラはその待遇に恐れを感じたりはしていないし、手伝いを拒みたいのに怖くてそれができない、みたいな描写はない。姉たちが彼女の手伝いを当然と受け止めて、偉そうにしているからここの関係に主従のようなものが見えるが、シンデレラはただ姉を、一つ屋根の下の同居人だから助けてやっているにすぎなくて、「従わなければならない人」なんて見なしていないのだ。だから、靴に気づいた時も笑ってしまうし、「あうかもしれないから」なんて平気で言える。もしも、姉たちが対等に妹と語り合う人であったとしても、シンデレラは同じように手伝っていただろう。同じように履いてみたいと言うだろう。彼女の姉への対応に差異は出ないのだろうなと思うし、そのことが一番のシンデレラの特殊さに思える。自分が理不尽な目に遭っても、少しも心が病んでいない、態度を変えない、自尊心が削れていない。姉がどんな人であろうが同じ表情で同じ行動をとっていそうな人。心が綺麗だなんて私はそれを理由に言うことはできない。ただ、激烈に心が強い。姉の理不尽など、シンデレラの自尊心には傷ひとつつけられていない。

 ペロー版にはシンデレラについて「やさしい子」とか「人がいい」みたいな記述がたびたびあるが、でも心が綺麗なら全てを許せるかというとそれは違うように思う。自分は雑に扱われてもしかたないと感じて、理不尽さを受け入れるのはもちろん心の綺麗さではないし、そして心が綺麗で無垢なら、自分が最低な扱いを受けていたら「相手はなんでそんなことをするのか」がまず理解できなくて、自分のこともそして姉たちのことも心配になるのではないか。けれどそんなふうな態度には彼女は出ない。「なんでそんなことをするのか」がもうわかっていて、それを彼女たちにはいちいち言わない、というだけなのかもしれない。それはもちろん優しいのかもしれないが、優しさ以上に「賢さ」だなぁと私は思う。
 シンデレラは自分の美しさをきちんと知っていて、不幸な点だけでなく、恵まれている点についてもしっかりと把握しているのではないか。なぜ、継母が自分に辛く当たるのか。姉たちより自分の方が人として優っているから、だから継母は3人を並べたくないのだ、ということを(実際物語にはそう書かれている)彼女は察しているのではないか。つまり、義理の姉たちは実の母親にそんなふうに評価されているのだということがシンデレラには見えているのだ。シンデレラは自分の境遇に悲しみながらも、姉のようにはなりたいと少しも思ってなさそうだった。憐れんでいたっておかしくない、なぜ、母親はそんな姉たちの欠点を知っていて直してやろうとしないのだろう。ずっと家に閉じ込めておくわけにもいかないのに。いつか恥をかくのは姉たちなのに。まるで継母は自分の子供しか愛してない(だからシンデレラに辛く当たる)ようなストーリーだけど、少しも実の子供を愛してない、というのを私はここでものすごく感じてしまう。むしろシンデレラの方がまだ姉たちを愛しているんじゃないか。そんな絶大な愛ではなく、それなりに、という程度だろうが。
 シンデレラの心が綺麗なのか、正直このお話からはわからないのです。ものすごく冷静で、物事をよく見ている人だとは思う。そんな人は行動や言動を自らの心の乱れで変えたりなんてしないから、だからわからないのだ。彼女の優しさが試されるようなレベルのことはこの物語では起きていない、とも言える。ただ強いこと、賢いことが伝わってくる。シンデレラは自分の方が外見も内面もずっと優れていることを知っていたし、そうしてたぶん「幸せ」に縋り付いてもいなかった。
 
 グリム版のシンデレラでは姉は二人とも最後に失明してしまう。私はこのグリム版の復讐は大して怖いとは思わなかったけれど、ペロー版のどうしようもないこの「人間としての差」は恐ろしかった。姉や母の、嫉妬や高慢さで他者を蹴落とそうと足掻く態度は、彼女にとって「ひどいこと」である前に「愚かなこと」であるだろうし、それが彼女の淡々とした態度でこちらにも伝わってくる。この時代の女性は自立して家を出て行くことは困難だろうし、この理不尽さから逃れられる可能性はとても低い。絶望的な状況ではあるはずで、それなのに愚かな人間が押し切ってくる不幸や理不尽に彼女は思考を一切奪われていないのだ。絶望をさせることができない人。このシンデレラは姉たちからすれば「決して勝てない人」だった。
   
 理不尽さで復讐をしないシンデレラなのだ。理不尽さで人を貶められるとは思わない。彼女はそれで希望を捨てたことがなかったから。
 妹が美しいお姫様の正体であると知ったときに慌てて謝る姉たちは、復讐を恐れて謝罪したのだろう。自分が復讐される側になり得ることも想像せずに行動していた彼女たちは愚かだし、だからシンデレラは許すというより、憐れんでいるようにも見える。幸せになろうとして足掻いているだけなのに間違った方角に突き進む姉たちを憐れんで、許すことで彼女たちの未来を信じて、守っているようにも見える。
 
 以前、『幸福な王子』をとりあげたとき「博愛は身を滅ぼす」と書いたけれど、シンデレラのこの人間性は「身を滅ぼさない博愛」そのもののようにも思う。彼女は家族として特別に姉たちを愛しているわけではないだろうが、誰だって幸せになれた方が良い、と当たり前に思っているし、間違った方角に行っている二人に「こっちだよ」と教えてあげているだけにも見える。隣人愛のようなものが彼女にはあり、それを姉たちにも注いでいる。彼女にも悲しみはあるだろう。でも彼女は、それを誰にも見せないし誰にもぶつけない。だから姉たちが出発してから涙を流すのだ。シンデレラストーリー、なんて言葉はある。けれど、彼女は王子に出会わなくてもいつかは幸せになっていたように思う。彼女は不幸や苦しみを埋めるために新たな幸せをもとめて足掻くのではなく、ずっと冷静で、日々に向き合っていた。シンデレラストーリーという言葉が意味するものを求めてるのはむしろ姉たちで、シンデレラはそこに興味を抱いていない。彼女は自分の不幸や苦しみで頭がいっぱいになることがなく、判断が鈍ることがない。その態度自体は本当は、彼女を救うものではないのかもしれません。もしもお城に行けなかったら、彼女は理不尽な人生を最後まで生きていくしかなく、そうやって救いのないまま終わる「賢い人」はたくさん現実にいるだろうと思う。それでも、だから「隣人愛」は不要なものです、とも言い難い。このほどほどの優しさと、淡々とした相手の悪意への関心の薄さは、たとえ奇跡が起きなくても彼女の最悪な人生を、少しだけマシにしているように思う。
 シンデレラの物語はやはり夢物語だ、彼女のようなあり方が幸福をよぶ、とは断言できないが、でもそれでも素晴らしいものを残してくれる。見た目が美しく、そして心が純粋や無垢とはまた違う「美しさ」を持つシンデレラに、読者が憧れられるというのはそれだけで幸福な体験であるように思う。彼女が成功したのは物語の都合の良さゆえだけど、でもその成功が、彼女の人間性への憧れを作る。悪意や理不尽に冷静さを奪われてしまわないで。あなたはあなたであり続けることをやめないで。私は、この物語の一番魅力的な点は、彼女が魔法で美しい姿になることでも、王子様と恋をすることでもなく、彼女の人格そのもので、そしてそれを教訓としてではなく人として「素敵だ」と憧れられることだと思うのです。
 
 物語で、痛めつけられても良心を捨てずに必死で他者のために生きる人というのは、読者の涙を誘うし、そんな人が報われるとホッとする。でもこれはあくまでフィクションなんだ、と改めて思うと、ひたすら弱くて健気な生き物を痛めつけたあと助けてあげて、それを客に見せて泣かせているようなそんなグロテスクなものに感じることもある。ペロー版のシンデレラにはそういう要素がまったくない。彼女は最初から、登場するすべての人間に勝っており、そして愛だとか、そんなよくわからない相対的なものを勝ち取るのではなく、「自分」というものを勝ち取り続けたという点でハッピーエンドを見せている。ペロー版を読むと、別に王子はいらないなと思うのです。いや、王子がいなければどんなに美しくあり続けてもシンデレラは苦しい生活から抜け出せなかったかもしれないので、ラッキー要素としていてくれてよかったなぁとは思うのだけれど。彼女を救ったのは王子ではなく徹頭徹尾彼女自身である、というのがとても美しいと感じます。
 
 物語のどこに「救い」を作るのか、奇跡を作るのか、それはほんとうに繊細なさじ加減だ。プリンセスを、誰かに「救われる」人ではなく、「一人で生き抜く」人として描き、そしてそんな強い人が奇跡的な一瞬に出会うまでを見せてくれるこのお話は、読者の子供たちを受け身にしない。奇跡や王子を待ち望んでも、なんにも意味がないということがひたすらにつたわってくる。実際にはそんなものが来ることは滅多にありません。賢い美しい人が損をしたまま人生の幕を下ろすこともたくさんあります。でも、賢い美しい人は、自分の不幸に目を曇らせて、自分を憐れむばかりの日々を送らないし、夢に縋り、奇跡に期待し、それが来ない日をそれが来ないというだけで全て真っ暗だと思うこともない。私だってそんな賢い人たちは全員報われてほしいけど、でもそうはならない現実の世界でも、やっぱりそれは無意味にはならないと思う。彼女たちはどんなに苦しくても弱っている小さな生き物を助けてやりたいと思えるだろう、道端で咲いている花に気付けるだろう、他者の体の不調を察して温かい飲み物を用意できるだろう。そんな美しさに憧れ続けたいのです。自分の心を、不幸に飲み込まれないように、していたい。たとえ王子がいなくても、シンデレラのような人でいたい。そう思えるって幸せなことで、とても必要なフィクションであるように思います。

(イラスト/三好 愛)


*なお、文中の引用は、シャルル・ペロー、楠山正雄訳『灰かぶり姫  またの名 「ガラスの上ぐつ」』青空文庫、2012年)からのものです。

 

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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