第15回 君よ、愛した人を引っ叩け!──『ジゼル』

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「ジゼル」は、身分を隠していた恋人の真実を知りショックを受け死んでしまった女性が、霊となっても自らを騙していた男を救おうとする物語だ。登場人物は、ジゼル、アルブレヒト、ヒラリオンが主。アルブレヒトは貴族であるが、村娘のジゼルに惹かれ身分を偽り彼女に近づいている。森番のヒラリオンもまたジゼルを愛しているが、このアルブレヒトを怪しみ、そして彼の正体(とそれから婚約者がいること)をジゼルの前で暴いた。そのショックで、ジゼルは死んでしまう。
ジゼルの物語は演出家や出演者の解釈によって少しずつ見え方が異なる。アルブレヒトはジゼルに対して遊びであるという描き方もあれば、本気だったという描き方もある。しかしどちらにしても2幕の霊となったジゼルは、死の危機に瀕したアルブレヒトを愛ゆえに救おうとしている。
救う理由も様々だ。ジゼルの死を悔いて、墓に詣でたアルブレヒトを見て、霊のジゼルが彼は今は自分を本気で愛している! と思うパターン。そんなことは特に描かれないが、とにかく自分は彼をまだ愛しているから彼を助けるわ! みたいなパターン。いろいろあるが、とにかく、自分を騙した男をジゼルは死後も愛し続け、そして助け続けている。
私は、助けることが「許し」であるとは思わない。ジゼルが「愛の裏切り」のショックで死んでしまったことが私はとにかく悔しいし、そこまでの激烈な愛への信頼があったからこそ、霊になっても彼を愛して、愛することを第一に全てを選択してしまうのではないかと思う。自らの愛という業火で己を燃やすようなそんな人だ。男の謝罪を受け入れたとか、男が今は自分を愛しているようだからとか、そういうことは瑣末な問題なのではないのか。それよりも、「愛してしまっている」のだ。愛してしまっているから、死んでしまったのにまだ彼を救おうとしてしまう。というか、裏切られても彼を助けようとするようなそんな愛だから彼女はその愛で死んだのだ。愛が、彼女の背を押して押して押して、押し続けて。
同じく、霊に襲われたヒラリオンは死んでしまうが、それは、ジゼルが彼を許してないからとか、彼がジゼルの前で恋人の真実を暴いた罪があるから、とかそういうことではない。この2幕は未婚で死んだ乙女たちの霊が若い男を死ぬまで踊らせ殺す場面であるので、普通は誰もがここで死ぬ、アルブレヒトが死ななかったことが異質なのだ。ジゼルの愛が、死んでもなお燃え上がっているとんでもない状態だったために彼は救われた。彼が改心したとかそんなことは関係がない。ジゼルの愛が強すぎる、これはそんな場面でしかない。
霊となったジゼルは、若い男を踊らせ殺したいという霊としての本能に囚われ、その本能と生前の愛の記憶の間で苦しみながら、男を励まし、男と共に踊る。彼女の愛が男に何を与えるのかは知らない。自分のためにそこまでしてくれたジゼルをそれこそそのタイミングで愛し、そして悔いるのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。そもそもジゼルの愛の激しさに見合わない男だからそんな結末になるのだろう。どうして、一緒に燃え上がってあげなかったのですか。彼女と同じ業火を持つこともできないから、彼女は自分の火で燃えて消えてしまった。男がたとえここでジゼルを愛したとしても、そもそも愛の熱量が一切釣り合っていないのだから、あなたが愛したところで、と思う。死ぬほどでもない愛を、ジゼルの前で語るな。
この原稿を書こうと思ったのは、森番ヒラリオンがジゼルを愛するがゆえに、恋敵アルブレヒトの正体を暴くことを悪とするか愛とするか考えたい、と思ったからだった。アルブレヒトがジゼルを本気で愛していたとしても騙すのは良くない……として、ではそれを他者が暴くのは何のためなのか……と考えてはみたものの、だんだん、この男二人に対しては「くだらない……」としか思えなくなり、怒りさえ湧かなくなってしまった。しょーもないな……って。ジゼルを前にすると二人の全ての行いが霞んでしまう。それよりも、己を死なせるほどのジゼルの愛は、愛として良いものなのだろうか? ということを私はずっと考えていた。ジゼルは、アルブレヒトを愛した。けれど裏切られ、そのショックで死んでしまう。その愛を、正しさとか善良さとか、そんな基準で考えるのも違う気がした。これって、天災ではないが、でもそんな突然落ちてくる雷なのではないか? それこそ、愛はキモいのだから。
ジゼルの魂に火をつけ、燃え上がらせ、燃やし尽くし全てを終わらせた愛。アルブレヒトもヒラリオンも、愛の温度がジゼルの足元にも及ばないから、彼らのことは私はかなりどうでもいい。彼らはもしかしたらジゼルをどこかで愛しているのかもしれないが、その愛がタバコの火なら、ジゼルの愛はマグマのようだ。愛している、愛している、愛している、ただそれだけで生き、そして裏切られて死んだ。ジゼルの愛はジゼルを幸福にはしない。愛した男のことも幸福にしない。(なんかラッキーボーナスでアルブレヒトは命が助かったが。)ただ彼女は命を当たり前に燃やし尽くして死んだ。そして愛は、そもそも、それだけのものだ。生命と交差し、全てを燃やして去っていく流れ星なんだ。
ヒラリオンが、アルブレヒトに嫉妬し、そのアルブレヒトの正体を暴き、表向きはジゼルを救おうとしたのも、なぜジゼルのように命懸けで愛さなかったのだろう、としか思わない。乱暴な言い方だが、ジゼルに選ばれなかった瞬間に死んでないからジゼル以下だなと思う。裏工作でこそこそ動いて、愛を手に入れようとするヒラリオン。もちろん、愛なんかで人は死ななくていいのだが、しかしそれほどの巨大な愛を持つ女性の心を踏み躙るには、ヒラリオンはちっぽけすぎるし、それなのに踏み躙ることができてしまうくらい、誰かを愛した人の心は剝き出しで、弱くて、脆くて、そのことが私は悔しい。ヒラリオン、あなた本当に恥ずかしくないの? 私が彼に思うことはそれだけだ。
アルブレヒトも同様で、ジゼルが自分のせいで死んだと後悔するパターンもあるらしいが、悔やんでいるからなんだ? としか思わない。初演では目の前で死んでしまったジゼルにショックを受け、自分も死のうとして周りから止められる。このシーンがその後カットされることが増えたことからも、アルブレヒトとジゼルの愛の温度差というのは強調されるべきものなのだろうと思う。
しかし、初演のころからアルブレヒトはヒラリオンに正体を暴かれても嘘をジゼルに述べたり、婚約者が現れればジゼルが見ていてもその婚約者の手にキスをする。地位を捨てることもせず、中途半端に2人の女性の心を弄んで、そうして目の前でその人が死んだから死のうとする。こうなってくると、死のうとしたのも「愛した人を傷つけたショック」ではなくて、「人を死なせたショック」であるような気がしてくる。自分を愛してくれる女性に嘘をつくことに罪の意識を感じない男が、突然まともになるはずもなく、どちらかといえば、裏切りや罪や不実に鈍感であるからこそ平気で嘘をつく男が、目の前で起きた出来事のごまかしの利かなさによって罪の意識から逃げられなくなり、咄嗟に死のうとした、というふうに見える。
とにかく、その程度の人間がどうして、ジゼルを傷つけてしまえるのだろう、と私は思う。もう、ずっとそのことばかりを考えている。愛が対等でないのはしかたのないことだろう。ジゼルは極端であるし、男たちは凡庸なのだ。それなのにジゼルの方が大きく傷つけられ、踏み躙られていることが悲しい。別に、深く燃え上がるような愛が正義なのではない。優れているのでもない。それを持たない人間がひれ伏さなきゃいけないわけでもない。私は、ジゼルのためを思えば、そこまで強烈に人を愛するのは己の命を燃やし尽くすことだからと、やめておきな、と思う。どれほど強烈に愛しても、その愛は幸福も、他者からの誠意も保証してくれないのだ。マグマのような愛は、本人の勝手で芽生えてるものだから、それで誰か他の人間が黙るわけではないし、穏やかに生きていくなら男たちのように身勝手なほどほどの愛でも全然良いはず。つまりジゼルはジゼルに相応しい人を愛したらよかったとか、そんな話でもなく、ただひたすら愛そのものが大きすぎる。愛だけど、人間関係のためのものとして、破綻しているのだ。
世界中の花畑全てを花束にしてあなたに捧げるわ! 星の全てをあなたにあげる! この空は全てあなたのために青いの! そんな愛だ。相手がジゼルに相応しい人であったなら、多分、愛のために死ぬ人間が一人ではなく二人になるだけだ。
でも、私がここで書きたいのは、愛がどこまでも強烈だとしてそれを止めるべきなのか? そんなわけないだろ! ということ。人は愛のために生きる瞬間がある。死んでしまうことはなかなかないにしても、命の全てを燃やして、愛しているという感情を加速させて生きる瞬間。それは相手も同じなのだと思い込んで、どこまでもどこまでも、二人の命が燃えて、一つの星になっていくと信じている瞬間。燃え尽きて死ぬ一瞬が、ずっと予感として瞼の裏に見えている。そんなのは本人が一番よくわかっているのだ、愛で死ぬかもしれない、そんなことは本人が一番よく知っている。そして、それが心地よくてたまらないことが人にはあるだろう。それが、そもそもの恋だ。
私が思うのは、そんな人の心はいつも剝き出しで、なのに、そんなふうには心をさらけだしていない、愛で命を燃やしてもいない人が、簡単にそういう人を深く傷つけてしまえることが悔しい! むかつく! ということ。人を愛すること、人を信じることは、己の心の一番柔らかな部分を相手に預けることだ。それを傷つけられた時、ジゼルは怒れなかった。彼女は「傷つけられた」というそのことに(いや、傷つけられたことより愛がなかったことに、かもしれない)ショックを受け死んでしまった。でも私は、どれほど愛していても、愛が大きくても、そのときにあなたは怒ってよかった、と思う。愛は許すことではない。ジゼルは、確かに愛した男の命を、裏切られたあとですら救っている。でもこれは許しの物語ではない。愛してしまって、愛し続けてしまって、愛した人が死ぬことが耐えられない女性の選択だ。アルブレヒトは、これを許されたとか思うのかな? だとしたらかなり愚かだな。許す、ということができるほど、ジゼルはそもそも自尊心を持たない。だから、自分が裏切られた時、怒ることができなかったのだ。
ジゼルが愛し抜いて、その愛によって踊り続け、ついに死んでしまったとしても、愛が強固なものであったなら、そこが確かであったから、それは不幸ではないと思う。そして、愛が偽りだったこと、騙されたことそのものが不幸なのではない。この物語の不幸は彼女が裏切られた時、アルブレヒトを愛しているままで、その彼の頰を叩けなかった、その一点なのだ。
アルブレヒトの解釈は色々あるし、本気で愛していたというパターンもあるのは知っているが、けれど本質的に、ジゼルをちゃんと愛してはいなかったのだろうとこのことを考えるたびに思う。裏切られた時に「この私を裏切るなんて!」とジゼルが思えないほど、アルブレヒトはジゼルの誇りに水を与えていなかったのだ。光を与えてなかったのだ。花を咲かせてやってなかったのだ。つまり、愛を、心の底まで注いでやってはいなかったのだ。サイテー! 死んで詫びろ! とにかくこの一点が私は悔しい。
ジゼルは大きな愛を持ち、そして破滅に向かってひた走った。それはもう、彼女の人生だ。でも彼女は、彼女自身を人並みにも愛することができなかった。アルブレヒトが嘘でも彼女に愛を囁いて、彼女に愛の夢を見せていたなら、そのときにどうして、彼女に誇りをプレゼントできなかったのか。彼女を誇り高き女性にできなかったのだろう。それくらいならアルブレヒト、お前の普通の愛にだってできたことだろ?
自分自身を燃やし尽くすくらいの愛を持ち、死んだ後もその愛が止まることはなく、愛した男の危機を救う。そんなジゼルと、凡庸な愛で捧げられるはずの「誇り」さえ、恋人に渡せなかったアルブレヒトの物語だ。私はその点で、ジゼルを心から哀れだと思う。
(イラスト/三好 愛)
*参考文献
鈴木晶編著『ジゼル 初演から現代まで』(せりか書房、2024年)
シリル・ボーモント、佐藤和哉訳『ジゼルという名のバレエ』(新書館、1992年)