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最果タヒ 愛は全部キモい

第10回 憧れはいつも身勝手──『小公女』


イラスト 三好愛

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 憧れとは一方通行的で、どこまで行っても憧れたその人に直接何かを与えられるものではないのだと、ぼんやり私は知っていて、それでも「憧れる側」にとって一度のその出会いが、生まれてきた意味そのものを支えることさえある、美しい記憶として刻み込まれるのも事実だった。愛は本当は愛される側を救わないことも多いのかもしれない。それでも、そうした一方通行の愛は、愛した側にだけ特別で、永遠のようで、そうやっていつも一人の心の中で光を放つ。もしもそれを一瞬でも相手が見つめてくれたなら、たとえ相手を救えなくても、その光の存在をただ知ってもらえたなら、そんな関係を親友と呼ぶ二人がいたなら、それがたとえ未熟で、無力だったとしても、それでもすてきだって私は言いたい。

 『小公女』の冴えない少女アーメンガードが、セーラに初めて話しかけられた日のワンシーンが私は好き。久しぶりに読んだ時、アーメンガードにとってこのささやかな一瞬が、どれほど人生の支えになるのか想像して涙が出てしまった。お金持ちで聡明で、想像力豊かで、少しも自分を馬鹿にしないセーラという転校生が、成績も最下位で、周りにいつも笑われている「私」に話しかけてくれた。そうして、名前を聞いてくれた。自分に興味を持ってくれた。アーメンガードは一生、このことを忘れないだろう。この時に見たものや聞いたことを忘れない。忘れないというより、生きていく彼女の日々をひたすらに支え続けるのだろう。そうしてたぶん、セーラはこのことをすっかり忘れてしまう。それが私は美しくてたまらないと思うし、アーメンガードも、セーラがきっと忘れていくことを承知しているように思う。
 
 アーメンガードはセーラに憧れていた。それは自分が持たないものをセーラはいくつも持つからで、その憧れの感情はアーメンガードの「劣等感」とやはり結びついてもいただろう。父親にいつも頭の悪さを咎められ、太っていると親戚に言われ、自分でも「私は太っているから無理」だなんてすぐに言ってしまう。けれどそれでも、アーメンガードは心がまっすぐで、憧れの感情を自分自身の劣等感のために消費したり、肯定感を得るための燃料にしてしまったりするような人ではなかった。セーラに憧れた時、彼女は自分もセーラのようになりたいとは思わないし、セーラに認めてもらうことで自信を持とうともしない。彼女はただ、セーラが好きなだけだ。自分のためにセーラを好きになっているのではない、もっと大きな突然の変革が彼女の中に起きて、自分のことが恥ずかしくて俯いていたアーメンガードは、その俯いていた理由を忘れるくらい、セーラに見惚れ、そして顔を上げたのだ。
 そんな人だからこそ勇気を出して、セーラに「親友になろう」と言えた。自分なんて親友になってもらえるわけがない、とか、そんな発想をそもそもしなかった。

 親友となっても、アーメンガードは「セーラの親友になれたから」と自信を持つことなんてないし、できないことはできないままだから、彼女の劣等感はずっと健在だった。彼女はいつまでも、自分は太っているからとかそんなことを平気で言うし、自分をだめだと思っていて、そして諦めてもいた。ただセーラのことが大好きで、親友としてセーラに好きだと伝えることができるのをとても幸せに思っていて、そんな奇跡が起きたのは、セーラがとにかく素晴らしいからだと彼女は考えている。(本当は、アーメンガードが勇気を出したから、というのもとてもとても大きいはずだけど。)自分に興味を持ってくれたのも、自分の「好き」を受け止めてくれるのも、セーラが素晴らしい人だから。
 好きな人がいれば強くなれるとか、できなかったことができるようになるとか、自己肯定感が上がるとか、そんなものは少しもここにはない。アーメンガードは一方的にセーラの素晴らしさに見惚れているだけで、自分が彼女に相応しくなるとか、そんなことはイメージもしない。アーメンガードがセーラに見惚れる時、きっと、アーメンガードの世界はセーラ一人になるのだ。アーメンガード自身すらその世界にはいない。それくらい、彼女は自分のことに興味がなくて(というよりもう見限っていて?)、セーラのことだけを見つめている。それだけで満たされて、きっとアーメンガードは自分の劣等感をなんとかする必要など少しも感じていなかったのだろう。
 アーメンガードは、セーラと仲良しでいるためにとてつもない勇気を見せる。それはすごいことだと思うけれど、でもこれだってセーラに自分が何かをしたいからとか、肩を並べて生きたいから、というよりも、「素晴らしいセーラ」に甘えたくて、頼りたいから、というのも大いにあるんだろうと思った。しがみつくように、すがるように、セーラに「私をもう好きじゃないの?」と聞くような、そんな願い方だ。アーメンガードにはセーラしか見えていない、自分との関係性を望むのではなく、セーラがいなくなると自分の世界は消えてなくなるから、だからずっと彼女を見つめられることを願っている。(それは、「自分のことを考えないで済む」ということでもあるのかもしれないな、と私は思う。)そしてそのあり方は、セーラに対してとても無力ということだ。関係性を望むのではなく、ただそこにセーラがいることを願う憧れは、セーラに何も働きかけない。もちろんそんな眼差しでも、セーラからはアーメンガードが見えているのだから、交流は成立するし二人は「親友」と自分たちの関係を呼んだ。でも、それはセーラが恵まれていて、とても余裕のある人だったからにすぎない。

 セーラがようやくまわりに対して再び目を向けられるように思われたとき、アーメンガードという人を忘れていたことに気づいた。(中略)アーメンガードはやさしいが、やさしいのと同じくらい頭の回転が遅いことに異論の余地はなかった。おつむが弱く、お手上げ状態でセーラにしがみついてくる。勉強を手伝ってもらおうと課題を持ってきたり、セーラの一言一句に耳を傾けたり、お話をねだったりする。(中略)とどのつまり、嵐のような大難に遭ったときに心にうかぶ人ではなかったわけで、セーラは彼女のことを忘れていたのだ。 

 セーラの父が急死し、彼女が天涯孤独になった時、アーメンガードは実際、最初すっかりセーラに忘れられていた。セーラにとってもアーメンガードは「親友」だったはずだ。でも、それでもセーラにとってアーメンガードは「頼るべき存在」ではなく、「自分をひたすらに頼る存在」でしかなかった。
 二人は一度誤解によってすれ違い、そして関係を修復させるけど、それでもこの一方通行的な関係は変わることがなかった。たとえば、セーラは自分がとてつもなく空腹な時があることをアーメンガードには言えなかった。それは、アーメンガードが生徒で、セーラはもう生徒ではないから、というのもあるのだろう。彼女は乞食のようだから言えなかったと、のちのちアーメンガードに告白している。けれど私はそれ以上に、セーラは、アーメンガードのことを頼るに相応しい人とはやっぱり思えなかったのではないか、と感じる。アーメンガードが自分のことを大好きなのは知っている。アーメンガードはとてもやさしいともセーラは思っている。でも、鈍くて、気が利かないのも事実。アーメンガードはやさしいけど、不器用で、鈍臭い行動から彼女のやさしさを拾い上げて感謝するには、拾い上げる側に余裕がないと難しい。セーラにはいままったく余裕がないのだし、アーメンガードとは親友でも、頼ることはやっぱりどうしてもできないのだろう。
 もしも互いを救い、互いの苦しみに気づくことができ、足りないものをお互いに補い合えるのが友達だとするなら、二人は友達ではない。でも、救ったり、補い合ったりしないと友達といえないなんて、すごくさみしいことだな、と思う。たまに物語を読んでいると、救われたり救ったりするアクションがあって、それで二人の関係がより深まる、みたいな展開を見かける。私はそのたびにちょっと気持ち悪くなって、窮地を救われたから深まる信頼って、軽すぎないか?と思ってしまう。頼れる人がいるのは素晴らしいし、だから友達って素晴らしいね、とかもだいぶなんだか気持ちが悪い。友達ってそんな、駆け込み寺みたいな機能が必要なの? もちろん、そんな出来事、救うとか、救われるとか、そんな奇跡的なエピソードがあれば、それは素晴らしいとも思う。でもそれは、その時の出来事、その時の当事者の行動力が素晴らしいのであって、二人にある愛が素晴らしいのではない。愛が証明される機会ではないのだ。
 救えるほどの力や機転がなくても、その人をただまっすぐに思っている人もいる。その人はどうなんだろう?って私は思ってしまう。そもそもアクシデントがないと、信じる機会が生まれない関係性ってなんなんだろう。愛していてもうまく行動にして表せない人はいる、言葉にできない人もいる、うっかりした発言で真意を伝えられない人もいる、そういう人の気持ちは愛情になり得ないのかな? そんなわけないだろ、人の気持ちなんて何の証明もなくても、信じたいし、信じてもらいたい。だって、「気持ち」なんだ。気持ちは、そのあり方しか本当はありえない。信じるために理由が必要なら、それは最初から信じられていないのだ。
 
 アーメンガードは鈍感で、目の前で偶然、セーラが最悪の心理状態にならなければ、彼女はセーラの空腹を察することがなかっただろう。そして、ずっと鈍感なままのアーメンガードだったら、いつか二人の関係は壊れていたようにも思う。アーメンガードと一緒にいることがセーラは辛いと思ってしまう日が来るのかもしれない。なんにもできないだけでなく、なんにもできないままでいると、最悪な状況に陥った時、むしろマイナスの結果を生んでしまうこともある。
 二人の関係性はそれくらい距離があって、危ういものだ。誤解と幻想が入り混じって、何もできないだけでなく、こんな窮地ではむしろセーラを傷つける。でも、それでもアーメンガードとセーラの関係を、私は「親友」だって、二人が呼ぶなら呼びたいと思う。だって、アーメンガードのセーラへの思いの強さは確かで、その気持ちをセーラがちゃんと見つめているのも間違いないから。お互いが完璧とは程遠いけれど、相手と心を通わそうとしている。二人の感情はちゃんとそこで交わっていて、「関わり」はもう完成している。たとえ誤解や幻想があっても、心の未熟さはあっても、それらを根拠に絆の質を他人が語るなんてできるわけがないんだ。
 そうやって確かにあった友情や愛情が、未熟さや経験の浅さで壊れてしまうことって、世界中でも物語の中でも何度も何度もあったのだろう。そしてそのすべてが、壊れたからって全て嘘だと言われてなければいいなって私は思う。頑丈で全てを信じても安全なくらい強くて完璧な気持ちの交流だけを本物だと言うより、壊れてもその壊れたという事実で全てを疑うような弱さを自分から捨ててしまって、人と人はいつだって不完全に触れ合っているんだと知って、そして見つめる方がきっと全てがきらめくはずだ。
 
 自分に劣等感を抱く少女にとって、人生は「こんな自分でどう生きていくのか」という問題と向き合い続けることでもあったはずで、父親や親戚から叱責されたり馬鹿にされたりするたびに、「こんな自分」に頭を抱え、宝物になり得るはずの「人生」が重くのしかかっていたのかもしれない。セーラは、アーメンガードのそんな問題を解決したわけではない。けれど、セーラが声をかけた瞬間、アーメンガードにとって彼女の人生は「憧れのセーラを見つめ続けたい」という願いのためのものになった。自分の人生は、なにも自分だけで全てが決まるわけではないのだ、「こんな自分でどうしよう」と途方に暮れる必要はなく、自分を変えられなくても、誰と生きるか、誰と関わるかでいくらでも幸福を感じることができる。アーメンガードはそれを知ることができたから、セーラとの出会いの記憶は、永遠に彼女の人生の支えとなるんだ。
 セーラが、アーメンガードを最初から一人の人として見つめて、人と人として会話をし、そしてアーメンガードの好意を(一度衝突した後は)疑わずにいたこと、そのどれもがアーメンガードの憧れを一人の閉じた気持ちではなく、二人の「関係性」に昇華する誠実さだった。「頼る頼られる」でお互いが成長するようなそんな劇的なイベントがなくても、お互いがずっと未熟で、そこにある気持ちが現実逃避や浅はかさによって膨らんだものというしかないあり方であっても、それでも、お互いがわかりあうことができない「他者」で、そんなわかりあえなさを相手の心の大切な一部として、尊重し、見つめ合おうとし続けたなら、二人の絆はもう結ばれている。二人がそれを「親友」というなら、もう誰にも否定することはできない。
 
 憧れは、一方通行的で、どこか幻を見せるもので、そしてたぶん、その関係性がお互いを変えるというよりは、憧れた側の心の中で人生のきらめきを作るものでもあり、だからこそ、大切なタイミングで、大切な人を守りきれないこともあるのかもしれない、と私はたまに考える。その人自身のことを、きっとちゃんと見つめられてはいないのだ。だから、ずっとあなたに憧れています、という気持ちが、どれほど意味をなすのだろう、と私は、私の憧れについて不安になることもある。本当にどんなときでも、愛なら他者を救えるんだろうか? それが一方的な崇拝でも、ありえるんだろうか? 愛は無力だと思う。何にも救えない。でも、それは愛を捨てる理由にもならない。愛だけでなくどんな感情も、結果を生まないからとか、未熟だからとか言う理由で、「存在してはならない」と言われる謂れはないのだ。むしろ成熟していることや、成長を促したり誰かを救えたことを理由にその感情を賛美するのってくだらない。理由がなければ讃えられないなら、最初から讃えるべきじゃないんだよ。
 
 目の前にいる人の気持ちを、受け止めようとじっと、その人の言葉を待ち、そしてその人に伝えたいと願いながら言葉を述べる。どんな洗練された感情がそこにあるかより、そこにどんな感情があろうとも、相手という「他者」に対して真っ直ぐでいるときに、二人の関係はとても尊い時間を作る。アーメンガードのセーラへの強い憧れと、セーラの他者に対する誠実さが、不思議なバランスをとって、とても壊れやすく淡い「親友」関係を作り出した。それは、そのままで最大限に美しい。繊細で、脆いけれど。でも、もっと頑丈にならなくちゃ、なんて思わない。一生続く友達こそが本当とか、そんなことは私は言わない。人は、お互いの未熟さや偏りに驚かされたり悲しんだりもしながら、それでも関わろうとしつづけている。そして歪でぼろぼろなその関わりを、それでも、そのままで大切に思うことがあり、誇れることがあり、私はそれが人の美しさだと思う。セーラとアーメンガード。二人はとても未熟で、偶然とれたバランスによって続いてきた関係だから、学校をセーラが出ていってしまったら、もしかしたらその関係も薄れて、「親友」とは二人も呼べないようなものになるかもしれない。そのうっすらとした予感が、私はとても好きだった。いつまでも続くかどうかとかそんなことは、二人の「親友」という言葉には関係がないとはっきりとわかるから、その危うささえ美しかった。

「あなたは私がいなくても生きていけるんでしょうけれど、私はあなたなしでは生きていけない。」

 アーメンガードがセーラに言ったこの言葉は、間違っていないのだ。いつかは、アーメンガードはセーラにとって、なかなか会わない「懐かしい人」ぐらいになるのかもしれない。そのときに二人が過去の関係をどう思い返すのか、私は勝手な想像しかできないけれど、でも、アーメンガードはこの言葉を告げたときほどは絶望はしていないのではと思った。

 深い愛よりも、完成度が高い愛よりも、丁寧さが、誠実さが、関係性を磨いていくんだよ。だからそれがどこまで続いていくかなんて関係がないのだ。

 関係性は上質なもの、本質的なもの、どんな時も揺るぎないもの、永遠を誓えるものだけが、全てだと私は思わない。すれ違うだけ、一瞬の会話だけ、それだけの関わり合いも尊い人と人の交流なのだ。そんな延長線上に二人の関係はあり、それでも、大きな人生の変化をアーメンガードにもたらした。誰かと関わることで見える美しい景色をアーメンガードはたくさん、ここで知ったはずだ。「私だけの人生」として、自分のことだけを考え、落ち込まなくてもいいとわかった。二人の関係がこれからどうなろうと、アーメンガードがそう知ることができたという事実は、一生ものだ。

(イラスト/三好 愛)


*なお、文中の引用は、フランシス・ホジソン・バーネット、畔柳和代訳『小公女』(新潮社、2015年)からのものです。

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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