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最果タヒ 愛は全部キモい

第2回 「本物の愛」という暴力──『かぐや姫』


イラスト 三好愛

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 愛は試されるほどのものなのだろうか、と思う。かぐや姫は、求婚してきた男性五人に、それぞれ特定の宝物を挙げ、それを自分のところまで持ってくるように告げた。どれも実在のしない宝物で、それを持ってきてくれたなら結婚しましょう、と約束するし、彼らは嘘をついたり偽物を作り出したりして、なんとか婚姻を成立させようとする。愚かですね、ということで彼らの恋は破れるのだけれど、にしたって、彼女を心から愛している人だって同じことをするかもしれないのに、と私には思えてならない。
 心から愛していても、存在しない宝物は存在しないままだ。もし真実の愛なんてこの世にはないということを示すためのお題であったなら、最初から断ればいいのに、と思う。偽物を作ることや嘘をつくことは私にはそんなに愚かだとは思えなくて、もちろん愛が偽物である証明としてもかなり弱くて、ただ実在しないものをないからと諦めるのか、なんとかしようとするのか、の違いでしかないように思う。もちろん、好きな人を騙すことにはなるけれど……。騙すことは最低かもしれないがそれが愛がないってことにむすびつくわけでもないし、本当に好きでしょうがなくて、必死で偽物のダイヤのリングを手に入れてきた青年を否定できるかというとそうではない……みたいなことだと思ってしまうなぁ。愛は試されるほどのものかな、とやはりどうしても思ってしまう。愛が真実であるかどうかとか、愛が軽薄なものであるかどうかとか関係なく、あなたが、好きだと言ってくれたその人を愛するか、だけではないのか。かぐや姫は彼らを愛していないのに彼らを試すから、私にはよくわからない。彼らの愛が偽物でも、あなたがそのうちの誰かを愛したならそれでよく、そうでないなら彼らの愛が全て本物でも、それを無闇に否定しないで「その愛は不要です」と言えばいいことだ。
 それでもあの場面は教訓のようにして今も存在している。
 
 人はどうして「本当ではない愛」にあんなに残酷なんだろうと思う。というか、そこまで「本当の愛」を崇拝して、ほかを軽蔑して、それこそが愛がないのではないか。私たちの愛が本当かどうかなんて実際はわからないしどれほど愛していてもその人と様々な理由で別れて、別の誰かを新たに愛する人はいて、そういうことが起きるたびにあの愛は偽物だったのかとか言い出すことの気持ち悪さについて考えてしまう。たしかに相手より自分のことが好きなまま、それを隠して相手を「誰よりも愛している」と振る舞うこととか、愛よりお金を選ぶこととか、物語としてもたくさんあるし現実でも聞くけれど。本当のところ、それをまるで巨大な罪のように批判する人たちの気持ちが私にはわからない。他人を裏切る、騙す、という悪事ではあると思うけれど、でもそれ以上のことではないし、そういう人がたとえば死ぬだとか、誰にも愛されなくなるだとか、そういう釣り合わないほどの罰を受けて、地獄のような目に遭うのをカタルシスを感じながら物語で見る時、まるで、愛を崇拝する人たちによるリンチみたいだなと思うのです。愚かな人たちとして『かぐや姫』の求婚者が描かれる時の恐ろしさ。彼らが偽物を用意したからなんだろう、それが彼らの愛と関係あるだろうか、そして彼らの愛が偽物だろうが本物だろうが、それがかぐや姫に関係あるのだろうか。愛される側にとって、その愛が本当かなんて、大した意味を持たない。なぜなら、愛してくれる人の瞳に映る「愛される私」だって、本当の私ではないからだ。
 愛されるとき、自動的に、自分は愛してくれる人を騙しているのではないかと思う。自分のことを自分が全て知っているわけでもないし、自分ですら自分に騙されることがあるのだから、誰かに自分の「本当の姿」を見せる、なんていうのは幻想でしかない。本当の私を見て愛してくれているなんて嘘で、本当の私ではない別の誰かをその人は愛している。その愛を偽物ではないかと責めるなら、自分だってその人の目に映る「私」ではないことを認めなくてはならない。人と人の関わり合いに「本当」なんてあるわけがないんだ。そしてだから、人は人を愛せるのではないかと私は思うのです。
 自分を愛するのはとても難しいし、自分の考えや感情を全てコントロールしたり理解することは難しくて、だから一日中布団の中で横たわってしまう日や、泣きたくもないのに泣いてしまうことがある。そんな自分のあやふやな部分を、全てはっきりさせてほしい、好きと思うにふさわしいか試したいなんて言われても恐ろしいだけで、人はそんなふうに人を愛することはなくて、そうやって愛されたいと願うこともなくて、たぶん、むしろ、人は人をよく知らないままで愛せるのだ。よく知らないままで好きだと思えるのはたぶん、自分ではなくて他人だからこそなのだ。隣にいる、同じものを見る、同じものを食べる。そうやって、よく知らないけれど同じ時間を共有し、そうやってそのままで好きと思えるとき、その愛情が、その人がその人として「よく知らない自分」を抱えて生きることへの光を与える。わからない自分として一人でいることは苦しいが、それでもそのわからなさを一緒に抱えてくれる人がいることは、全てをわかって愛して認めてくれる、そんな超常的な存在よりずっと、自分の果てしなさを愛するきっかけをくれるだろう。
 だから、そこにある愛が本当な訳がなく、本当であることなんて少しも関係ないと私には思える。本当かどうかなんてわかりっこないもの、永遠を約束する意味もきっとないだろう。あるとき、ある日、同じものを見たことを心地よいと思えただけで、そこを疑う意味は消え失せる。そのときの心地よさだけが全てだと思うのです。
 
 本当の愛があるという前提でいる限り、私の愛は本当ですよと言われるとそれに従いたくなってしまう、そうやって騙された時の怒りが、偽物の愛への強烈なバッシングにつながっていくのかもしれない。
 
 美しいかぐや姫を自分の妻にして世間に誇示したいという求婚者もいたのかもしれない、彼女の外見には惹かれても、内面のことには興味を持たず知りたいとも思っていない人もいたのかも。だから彼らが罰を受けると読者は嬉しくなるのだろうか。
 絵本の『かぐや姫』では、宝物を持ち込む五人の男たちについてはまとめて「宝物はすべて偽物で、それをかぐや姫が見抜いた」というふうに短めな描写で終わるものが多い。けれど原文の『竹取物語』では、かぐや姫に提案された宝物がどれも見つかるはずもないものだと察して、最初から探すのは諦めて偽物を作ろうとする人もいれば、大金を使って取り寄せようとした人(むしろ偽物をつかまされる)もいるし、なんとか手に入れようと従者を調査のため派遣し、その従者たちに裏切られた人もいる。そして、真っ当に自分で探そうとして失敗し、大怪我をして死んでしまった人も。かぐや姫はそれで少しだけ自責の念を抱く。
 そもそもこの五人の求婚者に無理難題をふっかけたのは、かぐや姫を育てた翁が「男と女は結婚するものだから、このうちの誰かとは結婚するべきだ」と進言したからにほかならない。(私が読んだ絵本ではこういうところも省略されていた。)かぐや姫は翁には恩があるからそれを無碍にはできず、しかしどうしても結婚したくないから、彼らに無茶な難題をふっかけた。あまりの無茶な注文に、自分達が嫌ならばそう言ってください、と彼らはまず憤慨するし、それこそが正論なのだ。でも、かぐや姫は嫌とはっきりとは言えない。男と女は結婚するべきだと(根拠なく)考えている人間たちに自分はそんなことをしたくない、ということを説明し、納得してもらうのは難しい。だから、かぐや姫は彼らを試すようなことをして、自分ではなく彼らの中に「断る理由」を見出さなくてはならない。騙そうとするような人とは結婚できませんとか、あっさり他人に騙されるような人とは結婚できませんとか、偽物を作る人とは結婚できませんとか。あなた方に欠点があるから結婚しないのです、というように話を運ばなくてはならない。絵本で簡略された描写を見ている間は「嫌いなら嫌いと言えばいいのに」と思ってしまっていたけれど、原作をたどると、むしろ「嫌いだ」と言えないかぐや姫の姿が見えてきてしまう。
 彼女は男たちの愛が本物かどうかになんて興味はなかっただろう、というより、疑うつもりもないというか、疑って偽物だとわかったところで彼女の選択は変わらないし、だから疑う必要をそもそも感じていなかった。でも彼女の無理難題は、「彼女への思いを試す」ためのものであると、彼女の周囲は思い込む。愛は試され、そして本物の愛であることが明らかになったとき、二人は結ばれるしそれを阻むものはもうない、と考えられてしまう。偽物の宝物をなんとか手に入れた男が、かぐや姫への深い思いゆえにこれを手に入れることができたのです、というようなことを歌にして披露する場面はいくつかあり、翁はそのたびに心打たれていた。かぐや姫がどう考えていようが、彼らにとってここは愛の証明の場だったのだ。
 けれど、ここまで愛を試す状況を受け入れながら、彼らはみな、かぐや姫の中に愛はあるのか、それは本物なのか、ということを考えもしない。「自分達の愛が本物であるか」は、二人の婚姻に関係があるが、かぐや姫が誰を愛しているのか、誰のことも愛していないのか、なんてことは、婚姻には関係ないと捉えられていたのだろうか。とてもあなたを愛してくれる人がいるから結婚しなさい、とだけみながかぐや姫に言う。けれどどんなに大きな愛で彼女のことを思っていても、それは、それだけなら、かぐや姫の人生には一切関係ないと思うのだけれどなあ。
 あなた方の愛は、あなた方の問題でしょう。大きな愛があれば、だれでも彼女が手に入ると、彼らは(翁でさえも)当たり前に思っている。
 
 原作の『竹取物語』ではそれぞれにかぐや姫を手に入れるために策を弄する男たちが描かれ、ずるい人もいるし、馬鹿正直な人もいる。彼らがみんな失敗してしまい、死ぬ者もいて、かぐや姫は心を痛めるし、その後の帝の申し出を断るときも、「あまたの人の心ざしおろかならざりしを、空しくなしてこそあれ(多くの方からいただいた愛情はいい加減なものではなかったのに、私は無駄にしてしまったのです)」と言っている。彼女は結婚をする必要を感じていないし、いつか月に帰るからむしろそれを避けたいとも考えている。けれど彼女の意志は大して考慮されない状況で、しかたなくかぐや姫は「愛を試す」ふりをして断ろうとし、その結果「本物の愛」を証明しようとした人たちが死んだり落ちぶれる様を見て、彼女は責任を感じてしまった。自分への愛のために全てを失う人を見て、自分の罪だと思ってしまった。
 たぶん、より一層かぐや姫は愛というものを「断るべきではないもの」「(自分の気持ちは関係なく)尊重すべきもの」だと思い込んでしまったように感じる。
 
 彼らの愛が本物であったのかはわからない。かぐや姫は「多くの方からいただいた愛情はいい加減なものではなかった」と言っている。自分に嘘をついて、明らかに違うものを持ってきた者も、偽物を作った者のこともそこには含まれているのだろうか。いや、どうやって宝を探したかよりも、かぐや姫の中では彼らが五人とも破滅していることの方が大きな意味を持っているのかもしれない。愛のためなら愚かしい行いをして、自らの命を失う人だっているのだ、どのようなやり方であろうと、どのような結果であろうと、それを愚かだと言って、彼らの愛を断っていったことはとても恐ろしく冷たいことなのではないか。そう、彼女は考えているのかもしれない。
 
 彼女が五人を傷つけてしまったとしても、死や破滅の原因を作ったとしても、愛に応えなかったことそのものは悔やまなくてもいいし罪にはならない。「無駄にしてしまったのです」と彼女は言うが、彼女が彼らを好きじゃないなら、愛はどうやっても結ばれないし、それが「無駄」になってしまうのはしょうがない。川の水が海に流れていくように、受け取られなかった愛も大海原に出て、消えていくしかないのだ。彼らに無茶な頼みをしたのは愚かだが、それでも、好きじゃないなら好きじゃない、でいいのだ。けれど自分への愛のために死んだ男を見て、彼女はそう思えなくなってしまっている。そんな不幸なことがあるだろうか?
 人の気持ちというものを学んだかぐや姫は、月に帰る日が近づくと、翁と嫗に恩も返せないまま去ることを謝り、帝には不死の丸薬と手紙を贈る。ラストシーンで月の民が持ってきた「天の衣」を彼女は羽織るが、それを羽織ると悩み苦しむ心は消えてなくなると説明される。そうやって地上での出来事やそこに暮らす人々への思いを忘れて去ることがとても悲しいことのように描かれるし、もちろんそれはとても悲しいことなのだけれど、でも、どこかで、愛に関して彼女が抱いた「罪悪感」が全て消え去ることは、「よかった」と正直思ってしまっていた。
 彼女は無理難題なんて吹っかけて、自分に恋する男を死なせてしまった、他も死なないにしても多くが破滅した。でも彼女が「結婚せよ」と迫られていなかったら、そんなことはしなかっただろう。彼女が男を惹きつけるほどに美しいのが悪いと、それでも言われてしまうだろうか。彼女は誰の愛にも応えなくてよかった、好きでないならそれでよかった。彼女は自分が愛したい人を愛せばよく、それ以外は何一つ気にしなくてよかったのに、愛した者のためなら人は死ぬし、人は罪を犯すのだと知ってしまった彼女は、他者の愛を自分の意志だけで拒むことがとほうもなく恐ろしいことに感じてしまった。
 そうやって、自らを思ってくれる人たちのことを思いやり、責任を感じる彼女は「人間らしくなった」と言えるだろうか。「愛を知った」と言えるだろうか。「心を持った」と言えるだろうか。その心が「天の衣」で消えてしまうのは悲しいと、言えるだろうか。小さな罪によって、愛する自由そのものを奪われてしまっただけじゃないのか。

 真実の愛であろうが偽物の愛であろうが、死ぬほどの愛だろうが愚かな行いに出るほどの愛であろうが、愛される人間には関係なく、その人も相手を好きなら両思いで、そうでないなら片思いだ。尊い心だけで星のように空に浮かんでいるのではなくて、私たちは生活をし、くだらないことを話し、さまざまな趣味を持ち、大した話ではないことで意見を違え喧嘩したり、むしろ共感したり、笑ったり怒ったりして、そうやって日々を過ごしていく。共にいることが心地よく、自分の心の曖昧さや揺らぎを許していけるようなとき、その人のことをその時だけは好きだと思う。でもそれで十分、関わりの尊さはあるんだ。そこで永遠を誓い、一切の邪悪な考えを排除することを誓った愛でなければ認められないなんて嘘だ。命をかけるほどの愛でなければならないというのも嘘だ。もちろん、美しい愛を贈ってくれるなら、少しも共にいるのが楽しくなくてもその人を好きにならなくてはいけないなんていうのも嘘。邪悪でも刹那のものでも、少しも命なんてかけてくれなさそうでも、その時の時間に安らぎを覚えたなら、それはその人にとって永遠に尊いのだ。愛の美しさはその愛の持ち主にとって勇気をくれることもあるだろう、生きる気力をくれることもあるだろう、けれどもそれはその人の中で完結することで、その美しさで他者を動かせるなんていうのは間違いだ。美しい愛なら感動してください、好きになってくださいなんて、愛している人に言わないで。むしろ、あいまいな、美しいかどうかもわからない生まれたての「好き」をそれでも淡いままで互いが偶然手にできたとき、それをそのままで大切にできたら素晴らしいですね。
 月の使者は地上を不浄だというが、きっと彼女はそうは思わなかっただろう。淡くてささやかな尊い関わり合いは、きっと、月にはないだろう。だから、本当は地上に降りたなら、彼女には自分が好きだと思う人を好きだと言えるそんな人生をわずかな時間でも生きてほしかった。愛を知るって、心を知るって、そういうことだと私は思います。

(イラスト/三好 愛)

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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