第14回 「あなたを救いたい」が愛になる時、ならない時──『ラプンツェル』

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ラプンツェルに出てくる王子が面白くてそして未熟で好きだ。森で耳にした歌声に興味を持ち、魔女がラプンツェルに頼んで塔から髪を下げてもらうのを見て「運試しに」と自分も声をかけてみる。それで下がってきた髪を登っていくととんでもなく美しい女性がいて、結婚を申し出る。もう、こういう物語の王子は結婚を申し出るのが鳴き声みたいなものなんだなーと私はこういう展開を見ていつも思うけど、そのときにラプンツェルはプロポーズの申し出に喜ぶというより、この人の方が魔女より若くて綺麗だしついて行った方が幸せになれるかもな、なんて打算的に考える。
王子に、じぶんを夫にもつきはないかときかれたときには、この王子がわかくって美しいのを見て、「この人は、ゴテルおばあさんよりも、もっとあたしをかわいがってくれるだろう」と、かんがえました。そして、よろしゅうございますと言って、じぶんの手を、王子の手のひらにかさねました。
ラプンツェルちゃん! いいなぁ! けれどこのままでは出られないから、自分のところに来るたびに絹紐を持ってきてくださいと王子に頼み、脱出を計画するラプンツェル。なんてかっこいいんだ。王子を自分の救い主ではなく、脱出の相棒として見ている。というか、王子は塔に閉じ込められている女性を見て結婚とか言ってる場合ではないのではないか。まずその状況に疑問を抱き、あの魔女は何をしてんだ? と考えるべきではなかったのか。よくも知らない女性、しかも閉じ込められていて八方塞がりの女性に急に結婚を申し出る。そんなの、魔女から自分に所有権が移ることを希望しているだけにすぎない。
彼女を救おうと絹紐を持っていくたびに、彼がどれほど彼女に愛着を持ち、そして、彼女を対等に考えるようになったのか。グリム童話ではその過程はあまり描かれないが、魔女にラプンツェルと王子の逢瀬がばれた頃にはもう、王子は結婚を即申し出るような人ではなくなっていたようにも思う。ラプンツェルが行方知れずになっても、自分の目が潰れても、彼は彼女を探し続けた。もはや見えない「美しさ」になんの意味もないはずだが、彼はラプンツェルを見つけなければならなかった。彼自身のためにも。それは、ラプンツェルが王子のプロポーズをただ喜ぶような人ではなく、自らが進みたい方へ行こうとする人だから。そんな人の力になろうとずっと王子が行動してきたから。そうしてできた絆が王子を突き動かしていたように見える。
あなたが私を救うのではなく、私たちがここから脱出するのです。私たちが幸せになる、それだけのこと。それだけのことを願えるラプンツェルの強さに、王子はラプンツェルを人として愛することができるようになったのではないか。ラプンツェルは幸せになるべきだと、共に二人で幸せになるべきだと、そのために自分は彼女のそばに行かなければならないと、彼は考えていたのではないか。
美しい人だからなんだというのだろう。美しい歌声だからなんだというのだろう。人は相手に価値があるから恋をするのではない。どんなに客観的にその人が優れたものを持っていても、それは愛の理由にはならないのではないか、と私は思う。人に愛着を持つたびに、愛する相手がその人でなければならない、客観的な理由なんてむしろ無くなっていくのではないか。もっと平凡な、当たり前の、かすかな、心が通じ合う喜びを重ねて、その人でなければならないと心から思うようになるのではないか。その人に話しかけた時、その人がこちらを見てまっすぐにその言葉を聞いてくれること。その人を助けようとする時、その人を支えようとする時、その人が自分の差し出した手をそっと取ってくれること。自分が相手のために心を懸けたとき、その心を丁寧に受け取る人がいたら、心が通じたように思える。相手と自分の人生が重なり、人と人として思い合えたと思える。それは誰かを思うことそのものの幸せを私に教えてくれる。
助けを必要とされた時、困っている人を支えた時、その相手に対して抱く愛着は、いろんなものがあると思います。相手に必要とされることが自分の孤独を埋めるとか、自己肯定感を上げるとか、そんな単純なことでもないように感じる。もちろん、そんなパターンもたくさんあるのだろうけれど。自分がいなければ彼女は困るだろうとか、そんなことで自分の存在価値を確かめるのではなくて、むしろ自分が精一杯相手を思いやったとき、その心をその人が大切そうに見つめてくれた経験が、一人きりでは感じ取れない「世界の美しさ」を教えてくれるのではないか。他者と同じ空間を生きていることを、一つ一つ幸福だと思うきっかけになるようなそんなことだと思うのです。自分一人の世界ではないこと、他者の心が少しも見えないこと、そんな他者と隣り合って生きることは少し怖い。でも、そんな世界だからこそ、一人では感じ取れない、心の触れ合いがあって、無数の心の中の一つとして生きるからこそ感じられる尊さがあって、そのとき、世界そのものを「素敵だ」と思えるのではないか。世界を愛する理由に、「あなた」がなっていく。「他者」と肩を並べて生きることを、美しいと思える、そんな理由になっていく。たった一度手を取ってもらえただけでも、世界を見つめるとき、一つの小さな光としてずっと自分の中の希望になる。それからの人生において、自分に誰かに手を差し出す勇気をくれることもある。
一人の人に目を見つめ返してもらうことの幸福、助け出そうとした思いを汲み取ってもらえる喜び。その一つ一つが肯定するのは、自分そのものというよりも、自分が見つめる「世界」で。そしてだから、「あなた」が特別になる。「あなた」が世界の美しさの中心にあるように思うのです。
もちろんそうでないありかたもあるのかもしれません。頼り頼られることが互いの自尊心を支え合うこともあるのかもしれません。けれどラプンツェルと王子はそんな形ではなく、もっと二人が相手の未来のことを考え、ともに二人三脚で走ろうとするようなそんな爽やかさがあった。
自分の足で立ち、未来を切り開こうとする人に、助けて! と言われること、その人の未来を手伝えること、その未来を自分も見据えることで芽生える愛情が、二人にはあったように思います。ラプンツェルのあの自立した心が、私にそう思わせるのです。そして王子は、幸せを摑もうとするラプンツェルを心から助けたいと思ったから、彼女の幸せを見据えることができたのではないか。まさに「あなたの幸せは私の幸せ」とはこういうときに似合う言葉なのかもしれません。あなたの幸せを願うことが私自身の「生きる」になる。
王子の中で育っていった愛は、そんな無限のものであったのではないか。
そんなことを思うのは、魔女が考える「ラプンツェルの幸せ」が全く真逆のものだからだ。
魔女は、ラプンツェルの逢瀬を知った時、ラプンツェルを砂漠の真ん中に連れて行き、置き去りにしている。誰にも助けを求められない場所にラプンツェルを放置して、「もう守ってやらない」状況にした。そして私はこれは、別に大した罰ではないようにも思う。砂漠で実際ラプンツェルは生き延びている(し、子育てさえしているから、食べ物に困る場所ではないのだろう)。砂漠に連れて行ったのは、王子が探しには来れない場所、というだけなのだろう。
もしも王子との仲を引き裂きたいだけなら、まだ魔女はラプンツェルを自分の監視下に置き続けただろう。そうではなく、自分が見放すことがラプンツェルへの罰になると魔女は思い込んでいるのだ。私はこの罰は大したことがないと思うけど、魔女はそうは思っていない。自分こそがラプンツェルを守り幸福にすると思い込んでいるから。そして、自分が去った後、王子が新たな庇護者として自分のいた場所に収まることは許せないから、行方知れずにしてしまう。ラプンツェルは王子に会えないことを悲しむが、魔女に見捨てられたことは多分なんとも思っていない。その証拠にきちんと自立し生き延びている。もはや彼女には魔女の庇護は完全に不要なものだったのだが、そんなことを魔女は知る由もない。
野菜(ラプンツェル)を盗んでいた男に、生まれてくる子供を代わりによこしなさい、と言った魔女は「子どもは、しあわせにしてやる。」と告げた。そうして美しくなったラプンツェルを見て、このままではいけないと塔に閉じ込めてしまう。それは、愚かな人々が彼女を手に入れようとするのを防ぐためだった。実際、塔に侵入して閉じ込められている少女を見てまずプロポーズをした王子も愚かな人間ではあったし、こんな人が当たり前にたくさんいる世界を魔女は信用できなかった、というのは、私も少しわかる。(それで軟禁するのは間違っているが。)もしも、なんらかの方法で二人が出会ってすぐに塔から逃げ出せていたとしても、ラプンツェルは王子と幸せになれたようには私は思えない。(ただしラプンツェルなら王子のことも騙して、彼からも逃れどこかで自由を手に入れてしまいそうだ。)
魔女は世界のこともだし、そしてラプンツェルのことも信用していないのだ。幸せにはしたいと思っても、自分が与えてやる幸せをラプンツェルは黙って受け取るべきだと考えている。そうしてそのことにラプンツェルが疑問を持つはずもないと考えている。
他者を幸せにすることで得る幸福感に魔女は少しも満たされていない。それは相手のために差し出された幸福ではないから、ラプンツェルに魔女の心が届いていないから。幸せを祈ることは愛することであるはずなのに、魔女はラプンツェルを愛せていない。
魔女はラプンツェルを砂漠に連れていった後、塔で王子を待ち伏せして、ラプンツェルはもういないことを告げ嘲笑うが、嘲笑うこと以外は直接的な攻撃は何もしていない。(王子は逆上し塔から飛び降りて目を潰すが、それは彼が勝手にしたことではある。)魔女はきっと、王子からラプンツェルを奪うことが王子にとって最大の罰だと思っている。確かに、事実それはそうなのだが、しかし魔女はそれが王子にとってラプンツェルが「愛した人」だからではなく、ラプンツェルが他にはいないほどの美貌だったから、なのだと思う。ここまで世間を毛嫌いしている魔女が王子の愛を信じるわけもないし、「ラプンツェルはおまえさんのものではなくなったんだよ。」と嘲笑う魔女は、王子がラプンツェルを自分の所有物として愛しているわけではないことを知らない。魔女は、多分王子が、ラプンツェルが美しいから恋をしていると思っている。王子が目を潰したとき、もう王子はラプンツェルを求めない、とも思っただろう。(だから彼が落ちた後追いかけたりもしなかったのかなと私は解釈している。)誰よりもラプンツェルを一人の人として見ることができていない、それなのにラプンツェルの幸福を一番考えているつもりでいた。それが魔女だ。
幸福を願うのは、その人の目をまっすぐに見つめることから始まる。その人が生きる世界、その人が見つめる世界が、できる限り美しいことを願うことから始まる。その人の見つめる美しさの一部になれるよう、自分の心を精一杯その人に向けて、祈り続けて、そうしてその気持ちを相手が見つめ返してくれた時、自分自身も今とても幸せだと感じるのだ。
他人を幸せにするのはとても難しくて、でも幸せを願うこと、つまり他者を愛することは、心を傾けることできっと可能で、もちろんそこには「本当に自分はその人のために何かができているのだろうか」という不安もたくさんあるのだけど、それを相手が優しく受け止めてくれた時、本当にこれは二人にとっては愛で、二人の中で心が通じたのだと嬉しくなる。世界がこの二人にとって今少し、美しくなったと思えるのだ。そして、幸せはきっとそこにある。
自分自身がどれほど素晴らしいものを差し出しても、その人が幸せに思うかどうかは、その人が決めること。その人の心が決めることだ。だから幸せを願うのは、答えが見つからない問いにひたすら向き合うことでしかない。心そのものをその人に傾けて、全力でいることが必要になると私は思うし、自分が「これだ」と思う幸福を差し出すことに意味があるとは思えない。それでも魔女はそんなやり方しか知らず、そしてそこに疑問を持たず、だから、ラプンツェルに心が届くことはなかった。幸せを祈ってくれているなんて少しも思ってもらえなかった。
王子は、ラプンツェルがまっすぐに幸福に向かおうとするその姿を見て、自分が彼女にできることを精一杯行おうとした。自分のプロポーズより全然具体的に現実と未来を見つめているラプンツェル。彼女の言葉を聞き、彼女が喜ぶことを考え、願うたびに、王子は彼女のことを心から思い、二人で幸せになろうとした。そうしてそれを受け取ってくれるラプンツェルに、彼は確かに幸せを感じていたはずなのだ。
だから、王子は目が潰れても、ただ一人のその人を探し続けた。確かに魔女が言う通り、最初は王子は世間そのものの人間で、愚かだったかもしれない。けれどラプンツェルと未来を見ることで、彼はラプンツェルを愛していった。絶望し目を潰した王子は、たとえラプンツェルに再会できてもその美しさを見ることは叶わないが、もはやそんなことは関係がないのだ。ラプンツェルという人が、今どこかで悲しんでいると思ったら耐えられない、それが王子のラプンツェルを探し続ける理由だろう。
他者の幸せを願うことは、他者を愛すること。それそのものが、その本人の幸福となりえる。そのことを魔女は知らない。どんな絶望の淵でも、ラプンツェルのことを諦められない王子は、魔女からすれば不幸で愚かだろうが、彼ほど幸せな人はいない。
(イラスト/三好 愛)
*なお、文中の引用は、グリム、金田鬼一訳『完訳 グリム童話集 一』(岩波書店、1979年)からのものです。