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最果タヒ 愛は全部キモい

第4回 未熟な恋に罪はない──『人魚姫』


イラスト 三好愛

4

 人魚姫。
 命の恩人は本当は自分であるのだから、本当のことを言えば彼は自分のことを好きになってくれるはずだ(でも声が出せないから真実が伝えられない)という点が、子供の頃からよくわからなかった。そんなのは王子の勝手であって、恩人だから恋をするっていうシステムが人間にあるわけでもない。王子が浜辺で自分を介抱してくれた修道女に恋をしたのも、助けてくれたというのは確かにそのきっかけではあるだろうけど、心から愛したのは「その人だから」じゃないのか。そもそも、この修道女は浜辺にいた王子を助けてはいる。人魚姫の視点で言えば「私が助けた」のだけど、彼女が急に現れたら、修道女だって「私も助けたよ?」とならないのだろうか。浜辺に置き去りにしたままだと王子は凍えてしまうだろう。それでも人魚姫は陸に上がれず、船が沈み海で溺れた彼を引き上げて、浜辺につれていくところまでしかできなかった。人魚姫にできないことを、彼女は確かにしたのだし、そして王子は助かったのだ。なんだかいつも釈然としなかった。
 
 アンデルセンの原作では人魚姫は王子をはじめて見たその日に彼を助け出しており、まだそこで恋心の自覚はないように見えた。王子を海から助け出した後、他の人が来るのを物陰から人魚姫は見守っているけれど、そこで目を覚ました王子が人々に感謝の微笑みを向けるところで、人魚姫は王子が自分には気づかず、微笑みかけてくれなかったことに大きなショックを受けている。もしかしたらあのときの「見てもらえない」ことへのさみしさが彼女の恋のはじまりだったのかもしれません。人助けをするときにお礼を望んではならない、みたいな話をするのは簡単だけれど、でも、やっぱり助けたくて助けたときに自分だけがその空間から外れて「気づかれていない」というのは、自分の中にもともとあった生まれつきのさみしさを刺激するし、そうしてそれを救ってくれるのも彼の微笑みであるように錯覚するのかもしれない。自分のさみしさのすべてが、「あの人に微笑みかけられたい」という願いに切り替わるのかもしれない。彼が笑いかけてくれたら全てが報われる気がする。恋のはじまりってきっとそういうもので、それは決して軽率なことではない。
 
 原作の人魚姫の恋はたまにとても身勝手で未熟で、でもそれを一つも責めないように、それでいて一つも誤魔化さないように、アンデルセンは描写していっているように思う。自分が助けたのに気づいてもらえなかったことが傷となって、それが次第に恋心に変質した人魚姫。大きなリスクがあるのに、足を手に入れて陸に上がれば王子は自分を好きになってくれるはずと期待してしまう人魚姫。声が奪われ歌えなくなった彼女は、王子の前で歌う他の人々を見て「私の方がもっとうまいのに」「私に今、声があれば」と思ってしまう。人魚姫の悲しみはずっとたらればで構成されていて、不運なことがなければ自分は王子と結ばれたはずなのにとずっと叫んでいるようだった。恋は、リトマス紙みたいに条件を満たせば赤くなる、というものではないはずなのに、王子には王子の勝手があることを人魚姫は知らないように思えたのだ。
 
 一方、原作の王子は、自分を浜辺で助けてくれた修道女に恋をして、でも彼女は修道院からは出て来れないだろうから、それなら彼女に顔が似ている人魚姫と結婚してもいいなぁなんてことを、あろうことか人魚姫本人に言ってしまう。少しも人魚姫には恋をしておらず、ただ「助けてやらなければいけない人」と保護者として愛でているだけなのに。何よりそのことを彼女に隠そうともしないし、そうして受け入れられると信じて疑わない。それはとても失礼で、そうして彼女の心を踏み躙るはずの言葉だけれど人魚姫はそのことに気づかず、彼が自分のものになることを喜んでいた。彼が会ったこともない婚約者と結婚させられそうになる時も、王子がそれくらいならお前と結婚するよ、なんて言うから、彼女にとっては宝石のようにきらめいた希望の言葉となってしまった。
 王子も、他人にも心があるって知らないのだろう。自分の「恋心」だけが世界に存在する唯一の感情であるような気がしてそう振る舞ってしまっている、他の人にも心があって、それは自分の予想の範囲には決してなくて、不条理としか思えない判断をする他人のことをそれでも否定できないと、彼は知らない。彼にとって自分の恋心は誰もが祝福するはずのもので、そう信じさせてくれるやさしい世界に感謝をしている。

「おまえも、ぼくのしあわせをよろこんでくれるだろう。だれよりもいちばん、ぼくのことを思っていてくれたおまえだものね」

 婚約者が自分が恋焦がれていた修道女(実際は修道院に教育を受けに行っていた王女様だった)であることが発覚した時、彼は婚約者を抱きしめながら人魚姫にこう伝える。知らない人と婚約するくらいならお前と結婚するよと言っていた矢先の出来事だった。
 アンデルセンはこのときの人魚姫のショックを、嫉妬だとか裏切りのショックとしては描いておらず、恋が叶わなかった人魚姫は泡になって死んでしまう呪いをかけられているから、だから(死が決まったことが)悲しいのだ、としている。
 これはきっと、人魚姫の恋の身勝手さと王子の身勝手さは同質のものだからだろう。人魚姫もまた自分の恋心が全てで、他の人の心のことを思いやることができていなかった。そうしてそれはもしかしたら多くの人がやってしまうことで、それらを全てきれいに直していけばよいということでもないのかもしれない。傷ついた人魚姫の「傷ついた理由」が彼らの恋の未熟さだと直接的には見せないのは、童話の読者に対するとてつもない優しさであるはずだ。未熟な恋は人を傷つけるが、だからって、未熟な恋を糾弾する必要はない。そういえば人魚姫の恋のはじまりもまた、未熟なものだった。言ってしまえば彼女の自尊心が傷ついたことがはじまりであるように思う。傷を埋めようと、傷付けた人を追いかけて、取り戻そうとして、そうやって恋になったのだ。でも、素晴らしい誰もが納得する運命的な出会いと根拠を持った恋だけが美しいなんていうのは、AIみたいな発想で気持ち悪いですね。物語や、関係のない第三者の人間関係の話を聞いていると、未熟さや認識の誤りにそれがダメなんだと言いたくなるし、そこを直せばうまくいくよと言いたくなるけれど、でも、本当にうまくいくんだろうか。人が全員完璧な価値観を持ち、矛盾のない行動をしたら、恋はうまくいくのだろうか。人は他者と出会うとき、その人の完璧さに惹かれるのだろうか。むしろ、それぞれがそれぞれの人生をその人なりに生きてきたことでうまれる「その人にしかない何か」を見出していて、そうしてそれを尊重しようとするとき、自分の中にある「自分だけの何か」を相手にも見てもらえる気がして、そうやって人対人だからこそ感じ取れる喜びに救われていくんじゃないかと思う。その「何か」にあるのは、完璧か未熟か、みたいなバロメータでは語れないものだ。100点の答えなんてどこにもなく、歪だったり偏っていたりもするはずで、むしろそこに「その人」がいる。そうやって関わり合う二人に恋が生まれる時、その恋の未熟さってそんなにも本質の話なのかなぁ。もちろん、思いやれたらそのほうがいいけれど。もちろん、その未熟さで深く相手を傷つけてしまうのは避けたいけれど。

 王子と結ばれなければ泡になって消えてしまう運命の人魚姫は、けれど姉たちの助けによって、王子を殺せば300年はまだ人魚姫として生きられるのだと教えられた。だから彼女はナイフを片手に王子の寝室に忍び込み、そして王子が寝言で婚約者の名前を呟くのを見てしまうのです。
 途端、彼女はナイフを捨てるのだけれど、人魚姫は愛している彼を殺せなかった、とか、愛ゆえに彼の幸福を壊せなかった、とか解釈されているのを読みながら、単純に「彼は自分を選ばなかったんだ」と、そこでやっと理解したんじゃないか、と私は考えてしまっていた。自分の恋の未熟さに彼女なりに気づいたんじゃないだろうか。そして、恋は未熟だったけれど、その未熟さで好きだった人を傷つけることはしなかった。だから人魚姫は何も間違っていない、何の罪も犯していない、と私は思うのです。
 
 未熟さは事実としてあって、でもそれは、罰せられるものではない。未熟であれ、成熟であれ、どんなに愛してもその人にとって自分の愛が無意味であることはあるし、その時に自分の中でその愛の価値が下がる、なんてことはなくて、その愛はこれからも自分一人で抱き締めればいい。一人で抱える限りは、いつまでもその人を愛せる。それを咎めるものは最初からどこにもいないのだから。
 
 原作で人魚姫は、人魚たちは死ねば泡になって海面に浮かび消えてしまうけれど、人間は死んでも魂が残り、永遠に存在できるのだと教えられた。彼女はそのあり方に憧れ、人間に愛されたのならその魂も自分は手に入れられるのだと知ったからこそ、王子とその魂を手に入れたいと大胆な行動に出た。彼女は結局永遠の魂を手に入れられず、王子のことも諦め、そうして泡となり、けれど幸運なことに消えることはなかった。 

「まあ、お気の毒な人魚のお姫さま。あなたも、あたしたちと同じように、ま心をつくして、つとめていらっしゃいましたのね。ずいぶんと苦しみにお会いになったでしょうが、よくがまんしていらっしゃいました。こうして、いまは、空気の精の世界へのぼっていらっしゃったのですよ。さあ、あと三百年、よい行いをなされば、死ぬことのない魂が、あなたにもさずかりますのよ」

 人魚姫は泡になり、そうして「空気の精」の仲間入りをして、風として300年空を漂い過ごすらしい。良い行いをしていればいつかは永遠の魂が手に入って、人と同じように天国に行ける。恋は叶わなかったけれど、彼女が憧れた「魂」はいつか彼女のものになる。彼女は報われている、では、何に対する「報い」だろう。未熟さは罰せられることがない、むしろ未熟だったとしてもそれで王子を大きく傷付けることがなかったから、彼女は風になっていた。

 彼女の恋が叶わなかったのは、その恋の未熟さとは全く関係がない理由だった。ただ王子が愛したのは別の人だったから。それだけだ。それぞれにみんな勝手に恋をするから、結ばれないことも当たり前にある。人魚姫の恋も、王子の恋も、未熟だったけれどその未熟さに、報いはなかった。そっと事実として描かれるだけで終わる。その「そっと」描くことにとてつもない作者の優しさを感じてしまう。未熟な恋の先で、誰かをとてつもなく大きく傷付けてしまったか。それだけが結末を決めている。
 
 風になった彼女が、空にあがっていく前にキスをするのは王子ではなく、王子の婚約者だった。人魚姫の恋は未熟だった。けれどそれは関係なく、ここにあるのはどこまでも透き通った彼女の心。

(イラスト/三好 愛)


*なお、文中のセリフは、矢崎源九郎・訳『人魚姫 アンデルセン童話集Ⅰ』(新潮社、1967年)から引用しました。

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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