第3回 愛はそもそも身勝手──映画『風と共に去りぬ』
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きみのことは好きだが結婚にきみは向いていないとか言われたスカーレット・オハラがかわいそうでならないし、彼女ほど人を愛していることに正直な人もいないのに、同時に彼女は自分勝手な人間だと言われてもいて、確かにそれはそう……なのだけれど、愛とはそもそも身勝手ではないのか? 身勝手でない人間が人を愛せるのか? 愛する相手が優れているからその人を選ぶわけではない、なぜその人を選びその人だけを特別に思うのかというとそこに合理的な理由はない、それなのに別の誰かよりその人が大切だと思ってしまうこと、それが身勝手でないわけがないのだ。
映画『風と共に去りぬ』では人は結婚するものだという大前提があり、愛し合う二人は結婚し、互いを支え合って生きることが当たり前のゴールとして語られる。愛は支え合うこと・思い合うこととされるが、そんなのは人間が人間と共に暮らしていかなければならない社会の形に合わせた「愛」でしかなく、愛そのものが生まれた時からそんな形をしているわけがない。
「ゆとりと安らぎのある静かな人生を送りたい。お前にわかるか?(I want peace. I want to see if somewhere there isn't something left in life of charm and grace. Do you know what I'm talking about?)」
「いいえ。わかるのは愛してることだけ(No. I only know that I love you.)」
「かわいそうに(That's your misfortune.)」
スカーレットがラストでレット・バトラーに言った「わかるのは愛してることだけ」が私は心から好きだ。彼女は、周りが彼女の愛を拒むときに語る言葉の意味が本当はずっと、本当にずっと、心からわからなかったのではないか、と思う。わからないのは彼女が無知だからではなく、彼女ほど愛を愛のままで持ち続けることができる人はいなかったから。愛は、それだけなら世界の中でただ一人を特別に思うことでしかなく、愛する側だけの問題にすぎない。愛は当たり前だけれど愛している側の感情でしかなくて、それを差し出すことやその手段はまた別の問題であったりする。大きく激しい感情を他人からさも尊いものかのように差し出されるのは恐ろしいことだ、愛するとは愛される側にとっては傍若無人なことであり、それをぶつけられるだけでは少しも愛される側は救われることがない、と私は思っている。
スカーレットは、それでも「愛する」ことしかできなかった。愛することを受け入れられるためにはどうしたらいいのか、彼女は知らない、というより、考えたことがなかったのだろう。美しくて魅力的で、誰もが自分を好きでいるのが当たり前のスカーレット。相手も自分を好きで、自分も偶然その人を愛している間だけ、電波がアンテナに届いたかのように二人は奇跡的に通じ合い、そしてその奇跡は簡単に終わりを迎えてしまう。それが彼女にとっての愛の成就と終わり、だったのではないか。今、あなたも私を好きで、私もあなたが好き! それが「恋の成就」だったのかなぁ。でも周囲は、愛をそんなものだとは思っていない。結婚をゴールに設定し、偶然になんて頼らずに、互いに工夫をし長く二人の関係が平穏に続くことを望んでいる。彼女にとってだけ、愛や恋はいつまでも「偶然」や「奇跡」のもので、周りが違う形で愛し愛されていることをちゃんと知ることができなかった。誰も教えないから。教わるものではないから。みな愛に飢えたり、恋に破れたりすることで、学び、諦め、妥協し、それから見出していくものだから。人を惹きつけるその見た目で、ずっと愛されることが当然だった彼女には気づくことができなかったのだろう。
彼女の愛は未完成でも未熟でもなく、むしろ愛そのものだ、気まぐれで身勝手で自分のために人を愛す。愛とはそもそもそういうものだ、でもそれが間違っているとスカーレットにみんなが言う。だれもがそのとき、愛だけでは意味がないのだというふうには教えない、彼女に「身勝手」だと言ってしまう。愛がないかのように言うのだ。スカーレットのどこに愛がないって!? でも、彼女の周りが欲する「愛」は確かに彼女にはない。「愛されたい」に応える愛ではない。生きていくために人が求める「愛」ではなかった。
愛は、人生に馴染ませるために改変することが必要で、そこに優しさや思いやりや献身が混ぜられていくのかもしれない。結婚を前提として作中で語られる「愛」は、そんな形をしていた。いや結婚が前提としてなくても、愛しても相手も自分を愛してくれなくちゃ意味がないのだと思う時点で、もしくは自分の愛が肯定的に受け止められなくちゃ我慢ならないと思う時点で、「愛」は愛そのものの姿でいることをやめている。相手にとって自分の愛が嬉しいものであるのかどうかを気にしてしまうとき、自動的に相手のためを思って行動するだろう、相手にとって価値のある人間になりたいと思ってしまうこともあるだろう。献身的に振る舞い、相手を支えたいと願う。そして時に人は、それこそが愛することだと錯覚する。
もちろん「愛されるため」ではない献身もこの世にはたくさんある、それはこの作品の中にも多く散りばめられている。そして、私は献身と愛は決してイコールで結びつけられるものでもないと思っている。愛こそが献身、愛こそが優しさ、というなら、どうして愛する人だけにそれらを向けるのですか。愛が献身だというなら、全ての人類を愛せない限りそれは偽りだ。誰かを思いやり、慈しみ、思いやることは美しいけれど、それは愛と独立して人の心にあるものだ。愛ゆえに行われる献身は、別の意図が含まれているだろう。それを非難するつもりはないけれど、献身こそが愛だという言葉は否定したい。人は、愛だけが美しいのではないです、愛が人の美しさなのではないです、愛とは関係ないところで人は美しいのです。愛そのものがそんな美しいものだとするなら、ただ一人を選ぶことの冷たさと、はげしく矛盾してしまう。
スカーレットは身勝手と散々言われるが、愛の身勝手さを隠さないだけで、人としては優しさもあるし献身も見せる。彼女は自分が恋していたアシュレーと結婚したメラニーを心底嫌っていたが、それでも北軍が侵攻してきたとき、産気づくメラニーを見捨てることがなかった。スカーレットはメラニーが死んだときメラニーのことを「愛していた」と語るが、彼女の出産を手伝ったのは、メラニーが好きだったからでは決してないだろう。メラニーを頼むとアシュレーに頼まれていたから、というのもあるだろうが、アシュレーが自分に頼んだという事実が、「メラニーを救えるのは自分しかいないのだ」という現実を直視させたのではないか。自分が見捨てても誰かが救うならいいが、きっとそうではない。そしてそのことに彼女は耐えられない。それは単なる聖母のような優しさとは違う、彼女はただ、メラニーを見捨てたときに生まれる後悔や罪の意識に自分が押し潰されてしまうとわかっているだけだ。それは身勝手や偽善という言葉で片付けることもできるけれど、彼女がそうして見せた献身を誰よりもそのままで受け止めたのがメラニーだった。
メラニーは、スカーレットが自分の夫をいつまでも愛していることを知らなかった。でも、知らないからこそスカーレットを愛したのだろうか。知っていても、彼女はスカーレットの人柄を尊敬し続けたのではないか。アシュレーへのスカーレットの愛が、メラニーの中にあるスカーレットの姿全てを覆すほどの問題に見えないのはどうしてなのだろう。スカーレットはメラニーに最後までそのことを告げなかったが、それは偽りではないし、メラニーは騙されていたわけでもなく、メラニーが見ていたスカーレットも本当の姿だ。誰よりも、メラニーはスカーレットが自分を見捨てないと知っていたと思うし、だからこそ自分をおいて逃げてほしいとも頼んだのだろう。メラニーがスカーレットを愛する理由は、スカーレットが誰を愛しているかなんてこととは全く別のところにあるのだろう。
どれほど追い詰められても、スカーレットは自分のした選択から目を逸らさなかった。出産間近となっても医者が来ない、そんなときも彼女は弱音も吐かずに自分の手でメラニーの赤ん坊を取り上げた。選択した時より状況が困難になっていても、最初に決めた「メラニーを救う」だけを見据え、彼女は駆け抜けている。たとえそこにあったのがメラニーへの愛でなくても、「見捨てる」という選択ができるほど鈍感でない、というだけであったとしても、それをやりとげるスカーレットの姿には、愛を「愛する」だけで貫く彼女らしいまっすぐさがあった。彼女は愛以外においても不器用で、決めたことから目を逸らすことがどうしてもできないのだと思う。他を選ぶことも回り道をして工夫することも都合よく決めたことを捻じ曲げることもできない。だから彼女はメラニーを救うために手を止めないし、想定以上に困難があったとしてももはや足を止めない。それしかできないのだ。愛も、愛するしかできないし、そして止まることができない。同じことなのに、一方は献身で、一方は破滅の愛となる。メラニーは最初からそんなスカーレットの情熱を尊敬していた。救われたことに感謝してスカーレットを愛したというより、メラニーはスカーレットのその不器用さを最初から愛していたのだろう。人は生きれば生きるほど器用になってしまうものだ、どうしても手に入れたいもの諦められないものができ、そのたびに他の思いや他の願いについて妥協して、不器用さやまっすぐさを失っていく。けれどスカーレットは彼女自身のエネルギーで、全ての意思を貫いて生きることができ、でもそれゆえに不器用なままだった。こんなにも純度の高い感情を持ちながら、それゆえに、相手が求める形での「愛」を差し出すようなことはできないままだった。
スカーレットの善行は、彼女らしからぬことではなく、むしろ何よりも彼女らしいことだった。メラニーはそのことを誰よりも知っていたし、だからスカーレットが自分の夫を愛していると知らなくても、彼女の本質や、彼女の愛のまっすぐさは、メラニーが誰よりもわかっていたと私は思う。メラニーが自分の夫をスカーレットは愛していたのだと知ったら、きっと今もその愛を忘れられていないことも察するだろう。彼女のまっすぐさと不器用さを一番に尊敬しているのはメラニーだから。彼女はレットとはまた違う、スカーレットの理解者でもある。
レット・バトラーもまたスカーレットのそうした点を愛していた、けれどそれを「尊敬」するメラニーとはまた違って、彼は同情的だった。レットはスカーレットと自分は同類だと言ったし、理解もしていたが、その特徴を肯定的に見ることは(自分自身の特徴でもあるからこそ)できなかった。同じ理解者であるが、スカーレットを尊敬するメラニーに彼は共感できなかっただろうし、メラニーのことは、「全てを許し、スカーレットを信じ抜く聖母」に見えただろう。でも、メラニーはスカーレットが泥棒を撃ったとき、死んだ泥棒を見て「よくやったわ」とまず言う人だ(そして自分も武器を持ち、迎え撃つ気満々だった)。このことをレットは知らない。レットはスカーレットと同類だからこそ、メラニーの「敬意」が理解できないが、メラニーは聖母のような心を持つからスカーレットを許しているのではなく、スカーレットがスカーレットだからこそ、尊敬し、愛しているのだ。
けれどレットも、スカーレットを愛した。自分の身勝手さや利己主義に嫌悪感を抱くこともありながら、彼は自分と「同類」のスカーレットを愛することができた。自分のことをアシュレーは好きなはずだと信じて、アシュレーを思い続けたスカーレットとは違い、レットはスカーレットが自分を愛しているとは思いもしなかった。それでも、彼女を理解できるのは自分だという意識が、彼女を特別な存在にした。
けれど私は、スカーレットとレットが本当の意味で同類だとは思えないのです。二人とも他者の言葉に惑わされず、それ故に不器用だけれど、特に愛については、二人は違っていたように思う。それは、常に愛されることが当たり前でそうではない男に出会ったことがない(つもりでいる)スカーレットと、自分の方を決して見ようとしないスカーレットを目で追ってきたレットの違いだろう。ただ愛することだけで「愛」を形作るのではなく、「愛されたい」と願い、「愛されようとする」こと。二人はそれがどうやってもうまくできない人間だけれど、レットはスカーレットとは違い、「愛されない」ことのジレンマを次第に抱えるようになっていった。レットは他の人がするように「愛されようとする」ことはできなかったけれど、それでも「愛されたい」と願い、そうスカーレットに懇願することはできなくても、不器用なりに、娘にスカーレットを重ね、娘を愛し、娘に愛されることで、その願いを満たそうとしていた。けれど、スカーレットはラストシーンの直前まで「愛されたい」と願うこと自体が頭になかったように思うのだ。だから、彼女はレットの悲しみが理解できない。互いが好きならまた結ばれるはずだと、彼に別れを告げられたラストシーンでさえも信じている。「愛されたい」と願うことの苦しみを、彼女は知らない。
ラストシーン。スカーレットの「わかるのは愛してることだけ」に対する「かわいそうに」というレットの言葉は、それまでのどんな言葉より、スカーレットへの理解に満ちていた。彼はスカーレットが愛することでしか愛を貫くことができないのを知っている。愛されたいとか愛されようとすることとは無縁で、ひたすらに好きだと思うこと。それだけが彼女の愛だと知っている。彼は、その直前までスカーレットが自分を愛してるとは思わなかったし、だからこそ出て行くのだが、それでも、彼女にここで「かわいそうに」と言うのは、数分前に彼女が言った「あなたを愛している」を信じたからじゃないかと私は思うのです。信じて、それでももう遅いから出て行くのだ。彼はもうスカーレットを愛していないから。
「すれ違いか。もう手遅れだな(It seems we've been at cross purposes, doesn't it? But it's no use now.)」
彼はそしてスカーレットの愛を愛として受け止めながらも、この結末が彼女の愛が未熟だったり、不足しているから起きたものだとは決して言わない。彼女の愛が結婚には不向きだとか、そんなふうに言ってきた人たちとは全く違っている。レットはスカーレットの愛の告白を、初めて正面から受け止めた人だった。彼女の愛がやっと実ったのはこのシーンなのだ。二人が結ばれることはなくても、彼女の愛はここで成就していた。
愛が二人を結びつけ、二人で幸せにいきていくためのものだというのなら、「愛」と呼ばれなくなる愛がこの世には多々出てくるだろう。愛は「二人」のためにあるのではない。愛はその愛の持ち主のために生まれ、その人のためだけに輝く。愛とは、ただ一人の人を特別だと思うこと。本当はそれだけなんだ。「幸せになってほしい」とか「幸せにしたい」とか「二人で支え合って生きよう」とか、そういうのは愛とは別の決意の話で、愛は、最初は「好き」それだけ。とてつもなく身勝手で、愛される側にとっては関係のないことですらある。そんな身勝手なものを他者に告げるなら、他者にも自分を愛してほしいと願うなら、「愛」は変容を求められるのかもしれない。愛されようと振る舞うことこそが「愛する」ことになるのかもしれない。でもそのことを知らず、愛を愛のままだけで貫いてきてしまった人にとって、愛は「愛し合う」ことでも「愛されようとすること」でもなく、いつまでも、「あなたを特別に思うこと」でしかない。それが不幸かどうかは誰にも決められないし、愛したならその愛でもって幸せになるべきとかいう発想自体があまりにも偏ったものであるように私は思うのです。自分の中にある素直な愛の形のまま、それを貫ける強さを持つ誰かに、「それは間違っている」なんて言うのはただの傲慢でしかない。愛だけがすべてではない、むしろその愛をいだいたその人の意思こそがすべて。まっすぐの「愛でしかない愛」の成就とは、愛されることでも二人で仲良く生きていくことでもないように思います。ただ、その愛が他者にも愛として受け止められる瞬間こそ、愛の成就だと思える。そんなものは愛じゃないなんて言われずに、あなたが私を好きなのはわかった、と言ってもらえるだけで、それだけで奇跡のようなことだと私には思える。スカーレットが自分を愛していることを、レットはこのとき理解した。彼女の愛しているという言葉を彼は信じたのだ。それこそがスカーレットの「愛でしかない愛」の到達点だと思うのです。
彼女の愛は、彼女を幸せにするものではない、もちろん、相手を幸せにするものでもない。でも、愛とは幸せのためにあるのではない。ただ「好き」だけだ。「好き」を信じてくれた以上の結末がどこにあるだろう?
もちろん彼女は愛した人に去ってほしくはないし、彼女自身は幸せになりたいと願っているし、レットを取り戻したいと考える。でも彼女の愛が微塵も否定されることはなかった、彼女の何よりも美しいまっすぐさを、決してレットは否定しなかった。だからこそ彼女はラスト、レットに置き去りにされても絶望などしなかった。未来を見つめることをやめなかった。故郷のために、まず生きていこうと決めるのだ。
(イラスト/三好 愛)
*なお、文中に併記したセリフの英文は、“Gone With the Wind” (Victor Fleming, 1939) から引用しました。