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最果タヒ 愛は全部キモい

第12回 絶対に応えなくてはいけない愛なんて、ありません。──『親指姫』


イラスト 三好愛

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 親指姫。ヒキガエルに連れ去られ結婚を強いられる場面と、ツバメの背中に乗せられて、花の妖精の王子様のところに連れて行かれ、王子様と結婚する場面が心に残っているお話。読み直すと、親指姫は物語の中盤、死にかけのツバメを献身的に看病しており、それでツバメが恩義を感じて彼女を背中に乗せ、南の国に飛び立つ、という流れだった。たぶん、絵本によっては話もダイジェストにされているのだろう。私が読み直したのはアンデルセンの原作が翻訳されたもので、葉に結ばれた蝶がそのまま放置されたり、親指姫の育ての親である女性(絶対にずっと親指姫を探していると思うのですが……?)のその後は一切触れられなかったり、案外、いろんな存在が救いのないまま物語から退場していて、切なくなる。

 愛という視点で言えば、この物語は「愛ではなく支配」と言えるものがあまりにも多く登場する。美しくて小さくてか弱い親指姫を、攫ったり、閉じ込めたり、脅したりして結婚を迫る生き物たちと、それから、恩人である親指姫を助け出すツバメが対比のように描かれる。対等か、対等ではない関係か、を区別していくと、ツバメとの関係だけが対等で他は全くそうではない。
 昔に絵本で読んだときは、親指姫がツバメによって、妖精の王子様のところまで連れて行かれ、王子様と結婚してハッピーエンド、ということになるのだが、アンデルセンの原作を読むと、その後のツバメの静かな失恋(2人の結婚を祝いながら、悲しみを隠して歌っている)こそが物語の主旨だったのではないかと思わされる。

そして、あの小さいツバメは、上のほうの、自分の巣の中にいて、できるかぎりうまく、みんなに歌をうたって聞かせました。でもツバメは、心の中では、悲しんでいたのです。なぜって、ツバメは、親指姫が大好きで、別れるのは、ほんとにつらかったからです。

 王子様と結婚するべきでなかったと私は言う気はないが、でもあのタイミングで、本当の意味で親指姫を愛していたのはツバメじゃないか、とは思う。そしてその愛が失恋として終わるのが私はとても好きだった。アンデルセンはツバメの愛こそを物語の最も大切なきらめきとして描いている、そしてそれなのに、ツバメの恋は叶わない。自らの失恋の悲しみを隠すツバメの姿は、この物語の最大の愛の現れで、むしろ叶わない恋だからこそそれは澄んだまま貫かれていた。

 

 ここで、親指姫の美しさと無力さについて考えてみる。親指姫は「美しいから」攫われるし、閉じ込められるし、脅される。結婚を申し出されるのも美しいからで、そしてなおかつ、親指姫が他の生き物よりずっと弱いからだ。
 そして彼女を助けようとする小さな魚たちすら、その理由を、親指姫が美しいから、なんてことを言う。

そうやって、見たとたん、魚たちは、その子がとてもかわいらしいのがわかり、こんな子があんなみにくいヒキガエルのところにおりていかなければならないのは、ほんとにかわいそうだ、と思いました。

 うるせえ、かわいくなくてもこんな状況の子がいたら助けろや! と思ってしまうのですが……。これは、美しくなけりゃ起こらない(ということになってる)悲劇だけど、どちらにせよ「美しさ」を理由に行動する者全てが嫌になるような話だ。
 一方、中盤に登場するモグラは目が見えなくて、親指姫が美しいことは知らない。ただ親指姫の美しい歌声が好きで、そうして結局は彼女の承諾を得ないで結婚しようともくろむ。彼女を保護している野ネズミと話をつけて、妻として地中深くに連れて行こうとする。
 モグラも親指姫のことは好きだけど、親指姫を幸せにしたいのではなくて、自分が幸せになりたいのだ。それは、他の求婚者にも通じるところで、そうした身勝手さが唯一ないのは妖精の王子様だろうか。私はこんなぽっと出の王子様と結婚するくらいならツバメと世界一周旅行したほうがいいよ! と最初思ったが、精一杯彼なりに、好きな人に自分と対等になることを約束してプロポーズしようとしている。それは確かなのだ。知らない場所に連れてこられて、自分のような地位もなく、花から一人で降りることもできない親指姫。その人を尊重し、対等に扱うことを約束し、恐る恐る行われたプロポーズ。その誠意の見せ方に、親指姫もときめいたのだろうなぁとは思う。

 「あなたの名まえはなんていうの? ぼくのお嫁さんになりませんか? そうすれば、あなたは、花たちみんなの女王になれますよ。」といいました! 
 ええ、ほんとうにこの王子は、りっぱな人でした。あのヒキガエルの息子や、黒いビロードの毛皮にくるまっているモグラなんかとは、まるでちがう人でした。ですから、親指姫は、この美しい王子に、「はい」と答えました。

 王子様は、親指姫の美しさにときめいてプロポーズしてるので、動機は完全にヒキガエルと一緒だと思うが(そしてろくに彼女のことをまだ知らないと思うのだが)、選択する自由が親指姫にあり、そして、親指姫と王子様は体の大きさが同じくらいで、物理的には「対等」だ。野ネズミが親指姫をおどすような、恐ろしい歯も持たない。その後親指姫は結婚のお祝いに羽ももらい(つまり移動が己の力だけでできるようになり)、それによって、完全に王子様と同じだけの力を持つことができた。


 このお話は、日頃「あなたは世界一可愛い」と大人たちから語り掛けられている子供が聞かされる物語だということをたぶん、加味して考えないといけない。実はここに登場する「美しさ」とは、膝の上に乗せてもらってこの物語を聞かせてもらう子供全てが持っているものである。彼らは自分は可愛い唯一無二の存在だと無垢に信じているのであり、そういう子供たちがこの話を聞くのだという、そんな前提で作られたお話のように思う。美しい子供たちは、このお話を「あなたがとてもかわいらしいから、どんなピンチも助けてくれる人が現れます」「そしてあなたはとてもかわいらしいから、危ない人も近づいてくるかも(気をつけましょう)」と受け止める。少なくとも、それを期待して作られたお話なのではないか。だから私は、美しい女の子だから助けようと頑張る魚たちに「きしょ……」と思ったが、それはまあ、私が大人になり、美しさという言葉の意味が私の中で変わってしまったというだけなのだと本当はわかっている。
 むしろここで気になるのは、登場人物たちが、弱き者だからこそ脅したり攫ったりするのだということだ。つねに、支配という形での求婚が行われる。カスである。そしてその上下関係は親指姫が死にかけのツバメを助けるときに逆転するものでもあった。
 親指姫は最初、ツバメは死んでいると思い込んでいた。哀れみからツバメに毛布をかけてやり、花を添えていた。けれど、ツバメが生きていると気づいた時、彼女はツバメが自分よりずっと大きく強い存在だからこそ、恐怖を感じてしまう。自分より弱い存在には勇気を出さずとも優しくできる。でも、そこでやっと自分より強い存在としてツバメを認識し、それでも彼女は勇気を出して、ツバメの看病を続けた。


 ここでもしも逃げていたら、それは弱い存在だからこそ強く出られる他の生き物とある意味では同じだった。やることは全く違っていても、自分との力関係によって態度を変えてしまう軽薄さは同じだ。けれど、親指姫はそれを乗り越え、ツバメの看病を続けることができ、そうしてツバメは自分よりずっと小さな親指姫に感謝と敬意を忘れなかった。 

 ツバメと親指姫だけがこの物語で根底的に対等だった。親指姫は最初、野ネズミへの義理を優先し、共に行こうというツバメからの誘いを断るが、野ネズミにモグラとの結婚を強要されたとき、再び現れたツバメの背中に飛び乗った。そしてその先で、親指姫は王子様に出会うのだ。

 

 常にツバメは親指姫の選択を尊重し、自らの意思を押し通そうとはしなかった。けれどその誠実さによって、ツバメは、結婚を申し出る王子様に親指姫を奪われた、とも言える。親指姫は、ツバメの最初の誘いを断った頃、ツバメのことを好きだった。でも、王子様と出会う頃にはその思いが物語に描かれることはない。同時に、ツバメが自分のことを愛しているなんて想像もしていないようだった。
 タイミングが違えば、そうしてツバメが何かを言うことができていれば物語の結末は違ったのかもしれないと私は思う。けれど、ツバメはもしかしたら、自分の方がずっと体が大きくて、自分が親指姫にとって簡単に恐ろしい存在になることを知っていたからこそ、王子様のようにはプロポーズができなかったのかもしれない、とも思う。いたわり、彼女の気持ちを尊重し、そのうち、彼女の幸福を静かに祈る存在になっていた。自分が幸せになりたいから、彼女の意思も無視して結婚しようとする生き物たちと、彼女の幸せを願いすぎて、彼女の人生の物語からそっと退出してしまうツバメ。ツバメの視点でこの話を見れば、とても切なく、苦しい話だ。他の生き物にとって「親指姫が弱い」ことは好都合だったが、ツバメにとってはそれこそが足枷になっていたのだろう。

 

 私はそんなことを、そのままで描くアンデルセンが、リアリストでいて優しくて、とても素敵だなと思う。ツバメの視点で見れば悲しい終わり方だけど、でも親指姫は幸福な自由を得たわけで、ツバメは気の毒だけど、まあ、この展開で別に良いじゃん! と私は思ってしまう。
 別に誰かが幸せになるために、愛はあるわけではないのだ。ツバメにとって、親指姫との出会いが美しかったことは変わらないだろう。恋は叶わなくても。それで良いのではとも思う。本当は、ツバメの視点で言っても、これは別に悲劇でもなんでもない。切ない失恋ではあるけれど。

 

 私は、「本当の意味であなたを愛してくれた人と結ばれなさい」というような物語には、「愛してくれる人は一人ではないから別にそいつでなくても良いのでは? タイミングとかもあるやん」と思うので、それを押し通されそうになると少し疑ってしまう。この物語だと、ツバメは確かに親指姫を無限に愛していたが、でもだからって、王子様のプロポーズを受けた親指姫が間違っているとも思わない。まだ出会ったばかりの二人だが、二人は同じ小ささとか弱さを持ち、そして親指姫は羽(自由)を手に入れた。彼女たちがそこから人生という物語を始めるなら、それは好きにしたらいい、と思う。人と人の出会いはそういうラフな部分がたくさんあるものだ。これから気が合わないとか起きるかもしれないが、喧嘩とかしたらいいし、しょーがないなぁって呆れあうことがあってもいいじゃないか、他人なんだから。とにかく、ツバメでなければ幸せにできないというほど、親指姫の人生は狭くつまらないものではない。王子様と親指姫は、まだときめいているだけの関係だけれど、そこから関わり合い、人と人として物語を紡げばいい。最低なことが起きて話が合わなくてお別れってこともあるかもしれないが、そこで親指姫はもう出ていく力を持っているのだから、それはそれで、もういいのだ。そんなものでいいのだと思う。

 

 多くの童話は愛に関する夢を見せてくれる。真の愛を見つければ幸福になるとか、唯一の愛すべき人に出会えばあなたは一生その人を愛し続け生きていけるとか、いろんな夢があるが、この『親指姫』が見せるのは、「あなたは弱いかもしれない。不幸な目に遭うこともあるかもしれない。でもどこまでも誠実に、人に優しくするための勇気を忘れずにいたら、その勇気であなたを思い遣ってくれる人が現れるかもしれず、たとえその人と結ばれなくても、あなたをそうして思ってくれる人の心が、いつまでもあなたの永遠の幸せを祈るだろう」という夢だ。つまり、「あなたはその人の恋に応えなくても、よい」という夢でもある。あなたを全力で思い遣ってくれる人は、あなたがそれに応えなくても、祈りの歌を遠くで捧げてくれるだろう。あなたは、他者からもらう愛からも本当はとても自由なのです、という夢なのだ。この夢を、子供に見せるアンデルセンが私はとても好きだった。

 

 ツバメが美しいのは、失恋を隠す、というその一点だ。本当は一度は親指姫はツバメを愛してもいたが、もうそれは終わってしまい、そのことをツバメは知らない。そして知らなくていいし、ツバメが、ここで親指姫の幸せを願い、黙ることが美しい。これはツバメの視点からすれば残念なすれ違いだが、でももう親指姫は王子様という相手を見つけ、今更ツバメと結ばれることはあり得ない。全てはタイミングであるし、ツバメがここで何かを言っても、親指姫は困るだけだ。

 

 けれど、現実にはこんな関係が起きたとして、そして別の誰かと結ばれたとしたら、何かを言いだす人が多いだろう。「私だってあなたを愛していた」ということを、心から信頼していた人に今更?というタイミングで言われるような、そんな出来事に、「はあ?」とは申し訳なくて思えず、応えられないことに心を痛めるような人は、きっといるだろう。でも、そのときに、「今更?」と言ってもいいのだ、『親指姫』が見せる夢ってそういう強さをくれるものだと思う。

 

 もしも、ツバメがあの結婚式でそんなことを親指姫に言ったら、親指姫は本当にショックを受けるだろう。親指姫にとって大切な出会いだったツバメの存在が、そこで輝きを失っていくのが見える。なんのためにそのタイミングで言うのだろう、それはもはや身勝手な求愛でしかなく、親指姫のための愛ではなくなっている。
 親指姫は、それでもツバメを嫌えないだろう。だから可哀想なのだ、そうなるのがわかるのに、そんなことを言うツバメがいたら、私は嫌だな。(まあそんなツバメは、童話にはならないな。)そしてそうではなく黙って歌うツバメの姿が本当に「夢」だって、思えてならない。

 

 現実にツバメのように振る舞える人は少ない。人はそりゃ、弱いから、しかたないです。しかしこの物語はツバメのためではなくて、親指姫と同じ立場の人のための物語だと思う。ツバメの姿を描くことで「そうできる人もこの世のどこかにはいる」と教えてくれるから、この世のどこかで親指姫のようになってしまった人に、「あなたの気持ちには応えられません」ときっぱりと答える勇気を与えるのではないだろうか。そこまできっぱりはできなくても、その人はその人が掴んだ愛をそれでも手放さずにそこを貫いて生きる後押しにはなるだろう。
 ツバメと親指姫は確かに愛がある関係だけれど、愛は人生にただ一つではない。私たちは愛し合っていたではないか、とか、私はあなたを愛してきたではないか、とか、そういうのが、相手の選択に対する切り札になると思っている時点でその愛の価値は地に落ちる。優しい人ほどそれでも、愛を切り札なんかにしようとした相手への罪悪感や同情で、「あなたの愛の価値は地に落ちた」とは言えないし、思えないし、自分が悪かったような気がして、悲しむのだ。だから、何も言わず歌って去るツバメの、愛の美しさが物語の中できらめく。これがただの切なさではなく、童話という枠組みで、ひとつの夢として差し出されていることが素晴らしいな。「大丈夫、あなたはそこに囚われなくても良い」と、この物語をきいている子どもたちの10年後20年後に伝えている。絶対に応えなくてはならない愛など、どんなにそれが美しい愛でも、あり得ないのだ。

(イラスト/三好 愛)


*なお、文中の引用は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン、大塚勇三訳『アンデルセンの童話1 親指姫』(福音館書店、2003年)からのものです。

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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