司修 ヒロシマ・トマト[『図書』2025年7月号より]
ヒロシマ・トマト
まちんと
『まちんと』という絵本のテキストを、児童文学者・松谷みよ子さんから手渡されたのは、1976年に入ってからだったと思います。
その10年前、松谷さんが伝説を求めて日本の各地を歩いているころ、広島に近いどこかで、「まちんと まちんと」(もうちょっと)といって死んだ子の魂が、鳥になるという話を聞き、「まちんと」という幼い子の言葉遣いが心に残っていたといいました。「戦争を語り継ぐ現代の民話」という強い思いを持ったとも。そこに編集者・相原法則さんもいて、私たちは企画会議をしているかのようでした。
『まちんと』のテキストは、幼い読者を意識した詩のような文体で、悲しく、素晴らしいと思いましたが、絵のことを考えると、「難しいな」がつきまといました。
広島に原爆が投下された8月6日、もうすぐ3歳になる女の子が、母と共に瀕死の重傷をおい、母親がもちあわせのトマトを娘の口に入れてあげると、その子は「まちんと まちんと」とせがみます。母は、燃えさかる炎の中へトマトを探してさまよい、ようやく1つのトマトを手に戻ってくると、その子はまちんと、まちんとといいながら死んでいたのでした。場面は復興なった広島に変わり、「その子」は鳥になって、「まちんと まちんと」となきながら空を飛んでいるのです。
松谷さんが、「平和を願って」といいました。
私は家に帰ってから、絵本でヒロシマ? と考えこんでしまったのです。3歳になろうとする女の子が被爆死する、ヒロシマの現実がその子の背後にある。それを3歳になろうとする読者にも伝える? 私はそれから1年間、土砂で塞がれた道の前で立ちすくんでいるかのようでした。
『ヒロシマ・ノート』(大江健三郎、岩波新書)の章カットになっている『ピカドン』(丸木位里・赤松俊子共著)を見るたびに、道を塞ぐ土砂が何倍にもなって、酒量が増えました。
被爆地を歩いた2人の画家の目と耳と鼻が絵の裏に感じられる絵本『ピカドン』。[足だけ二本、ぴったりとコンクリートの路の上にはりついて、つっ立っていました]という絵。
原爆の詩
(『詩集 原子雲の下より』青木文庫)
げんしばくだん──坂本はつみ
げんしばくだんがおちると
ひるがよるになって
人はおばけになる
(広島市比治山小学校3年)
詩人・峠三吉、山代巴を中心とした「原爆の詩編纂委員会」は、 [広島の子供たちの原爆の事実に立脚した、何者にも歪まされない卒直な叫びを中心に、戦後七年、生活のすみずみにまで滲透した原爆の悲劇の中から起ち上る市民の、平和への願いを](峠三吉の序文)こめ、『詩集 原子雲の下より』(青木文庫)を刊行しました。
比治山小学校3年生の坂本はつみさんは、8月6日当時、2歳から3歳。その眼で、その肌で感じ取った強烈な印象でしょう。そのような場を、具体的に表した『ドキュメンタリー 市民の手で原爆の絵を』(NHK、1975)での、被爆者である西沖清子さん(36歳)の描いた絵には、まだ幼いご自身と、半裸で横たわる母と丸裸の弟が、焼け焦げたように描かれていました。
昭和二〇年八月六日正午ごろです。場所は現在の県病院の中庭の光景です。中央に座っている子どもがあたくしです。全身ヤケドの母と弟を見まもっていましたが、弟は正午ごろ、あたくしの眼の前で息をひきとりました。死んだ母親にすがりついている赤んぼうは、よく日には静かによこたわっていましたが、死んでいたのでしょう。その前の中学生は、あたくしに、僕は一中のナニナニです。この弁当箱をお母さんに渡してください、といって、日の丸弁当をあずけると、息たえました。
戦中、日の丸弁当は、どの家でも母親が作ってくれた、白いご飯と赤い梅干1つの日本国旗模様です。
小鳥の死
無題──佐藤智子
よしこちゃんが
やけどで
ねていて
とまとが
たべたいというので
お母ちゃんが
かい出しに
いっている間に
よしこちゃんは
死んでいた
いもばっかしたべさせて
ころしちゃったねと
お母ちゃんは
ないた
わたしも
ないた
みんなも
ないた
(広島市南観音小学校5年)
私はこの詩との出会いで、「よしこちゃん」との出会いで、幼い読者が、ヒロシマという現実と自然に結びつく「なにか」を感じて、絵本のために、「可愛らしい主人公を描く」というジレンマから外れました。
だらしのない告白をすれば、私は、売れない絵を描き続けるために、自分の時間が得られ、お金になる仕事を何種類もしてきました。その1つが絵本だったのです。私の絵には「可愛い人」はなく、どちらかといえば、時代を表そうとするグロテスクな絵ばかりでした。ゆえに、『まちんと』の主人公を可愛く描けなかったのです。
『対話 原爆後の人間』(重藤文夫・大江健三郎、新潮選書)は、はじめからおしまいまで緊張と感動の対話でしたが、原爆病院院長・重藤先生の被爆直後の、小鳥の死が語られるところで私は、『まちんと』の幼女が死んで鳥になる場面を浮かべたのでした。
……そこで気づいたんですが、人間の死体のほかに小鳥が翼をいためて、飛べなくて落ちているんですよ。これの姿がいたましいものだと思いましたね。チョロチョロチョロ水のようなところを、頭を低くして逃げているんですよ。ときどき出てはみるけれども飛ぶことができないでね。ツバメやスズメのようなものでした。
絵本の幼女の死と、小鳥の死は1つになりました。ヒロシマの空を、世界中の空を飛ぶために生きる、死と再生のイメージを持たせていただいたのでした。
死と再生のイメージは、大江健三郎の「戦争と平和のイメージ」に私を運んでくれました。それは、『ヒロシマ・ノート』を書いているときか、その直後のエッセイです。大江健三郎がひそかに「二十世紀最大の二人の実存主義者の往復書簡」と呼んでいる、鈴木大拙とガブリエル・マルセルの書簡から、鈴木大拙が引用されています。
マルセル先生、この『生きながらの死』に、そしてふたたび、幽霊としてではなく、生きた人間として、生き返るという体験、これが私の手紙の主題であります。ここにほんとうの意味での平和があるからです。平和の条件はさまざまに異なりましょう。しかし、もっとも根本的、かつ必要不可欠なものは、われわれを相互理解へと導く愛であります。愛がない場合には、二者の間に、それがどのような種類の二者であろうと、そこに平和はありえません。愛が欠けているならば、そこには相互理解の余地はありません。
人間のもっとも侵略的、破壊的衝動がほしいままに放置されるので、無軌道野蛮な力の主張となり、大量殺人が不可避となるのです。こうして起こった戦争が、この厚顔無恥な残忍行為をひきおこし、問題の解決にはならないことは当然です。愛がないならば、そこには信頼もなく、寛容もありません。したがって、いくら会議を開いても、何の平和の保証もえられません。
大江健三郎の「戦争と平和のイメージ」は、[一九六三年夏の広島で、原水爆禁止大会がひらかれていた期間]を思い出しながら書かれています。[平和についての人間の知恵は海辺の砂の城のように、築かれては壊され、あるいは、壊されることによって、再び築かれる糸口を見出す、ということを、くりかえしてきたのだと思います。]
ピカドン
ピカドン──横本弘美
ピカドンのときは、ぼくは小さかった
おかあちゃんのかおや
からだのけがはしらない
いまごろになって、かおのきずから
がらすがでてくる、
もう三べんもでてくる、
二へんまでは
小さかったからしらない
いまは二年せいです。
いまごろかおから
またがらすがでてくる
ときどきおかあちゃんがさわっている、
ぼくはそれを見ると
もうピカドンが
なければよいとおもう。
(広島市千田小学校2年、母親と共に家屋倒壊で重傷、当時千田町 爆心地より約二キロ)
お母さんの顔から出てくるガラス片は、痛くなさそうだけれど、とても恐い。放射線が体を蝕み続ける怖さも伝わってきます。
「戦争と平和のイメージ」を読んだ後の私は、絵本『まちんと』のことから、少年たちの原爆の詩を読みかえし読みかえししていました。それで気づいたのは、彼らの詩に表された願いは、その悲劇性を感じさせるためではなく、何気ない日常の持続である「平和」であり、「平和」という意味の全体である、両親、兄弟姉妹、仲間たちとの「愛」だ、ということでした。私は、年老いた母が亡くなってもなお、母からの愛を受けたことがないとしていた典型的な親不孝者です。父親のいない私に、母は、男の役目もしていたからよけいそう思ったのでしょう。空襲で町が焼失するまでの母は、何かと子どもの私を殴りました、恐い母でした。母が亡くなってから日が経てばたつほど、見えなかった母の「愛」というものが大きくなったのです。死者が生き返るというのはこのことかと思いました。「愛」も、「死者の生き返り」も、目には見えませんが。
(つかさ おさむ・画家)
ちひろ美術館・東京
2025年5月16日―7月21日
https://chihiro.jp/tokyo/exhibitions/02760/
安曇野ちひろ美術館
2025年9月5日―11月9日
https://chihiro.jp/azumino/exhibitions/96421/