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都甲幸治 青春文学のアメリカ

3 ルッキズムと人種主義――トニ・モリスン『青い眼がほしい』

『青い眼がほしい』(トニ・モリスン/大社淑子 訳、早川書房、ハヤカワepi文庫、2001年)
トニ・モリスン『青い眼がほしい』
(大社淑子 訳、早川書房、ハヤカワepi文庫、2001年)

人は見た目ではない、というのに

 人を見た目で判断してはいけない。そのことは誰でもよく知っています。見た目のいい人は必ずや性格も良くて優秀です、だからできるだけ見た目の良い人の言うことを信じなさい、なんて堂々と主張する人はいません。学校の先生もご両親も、こんな言葉を聞いたら即座に否定するでしょう。人は見かけではないですよ。人格は外見からは分からないし、能力は一緒に働いてみてようやく分かるもの。そして私たちは思うのです。確かにそのとおりだ、人を見た目で判断するのはいけない、と。

 最近ではルッキズムという言葉をよく耳にしますよね。良い外見の人を優遇したり、あるいはそうではない人を差別したりすることを指します。いろんな場所で、ルッキズムはよくない、と言われていることを、あなたは知っているでしょう。けれども、ここで疑問を抱かないでしょうか。どんな人でも小さなころから、見た目で人を差別してはいけない、と教えられている。ならば、本来この社会には、そんなことをする人はすでに一人もいないはずだ。もしそうであるならば、なぜここまでルッキズムが繰り返し批判されるのか。

 実は、私たちはルッキズムが大嫌いで、なおかつ大好きです。テレビを見ても雑誌を読んでも、美しい男女で埋め尽くされています。あるいは、SNSはどうでしょう。見た目のいい人たちが次々に現れ、より美しく、魅力的になるにはどうすればいいかについて熱く語っています。見た目が良くなれば人の注目を集められる。そうすればお金が儲かるし尊敬もされる。確かに、見た目は正義だ、とはっきり言われることはありません。ですがそうしたメディアは、そのあり方そのもので、ルッキズムは良いものだ、というメッセージを発してしまっています。

ルッキズムの背後にある人種主義

 トニ・モリスンは1970年に発表したデビュー作『青い眼がほしい』で、このルッキズムの問題に正面から取り組んでいます。商業化され映画や広告を満たしているルッキズムの論理がいかに私たちを蝕んでいるか。そしてまた、ルッキズムの背後にはいかに人種主義が存在しているかを、モリスンはその作品で深く鋭く暴いていきます。人種主義とは、白人なら本質的に価値が高いとか、その反対に黒人なら価値が低いとか決めつける差別的な考え方のことですね。美しい人が愛されるのは当たり前だ、という素朴さを装って、ルッキズムは私たちに近づいてきます。

 当時のアメリカにおいて美しいとされる人々は、その多くが白い肌を持ち、金髪で直毛です。そして黒い肌で黒髪、縮毛の人々は醜いとされる。ならば、美醜の差とはそのまま、人種的特徴の差なのではないでしょうか。さらにそれが人間の価値の差に変換されるとき、人種主義は自然なものだと私たちは思い込まされるのです。ならばその自然さをこそ問い直さねばならない。モリスンはこう考えて本書を執筆しました。

 『青い眼がほしい』の主人公は、黒人の貧しい少女ピコーラです。実は彼女の属するブリードラヴ家は、ほとんど崩壊状態です。自らも崩壊した家庭で育ち、家族の温かさを知らない父親チョリーは、もともと飲んだくれの流れ者で、生涯に殺人を含む様々な犯罪をおかします。

 彼は妻のミセス・ブリードラヴと顔を合わせれば常に喧嘩で、その暴力に耐えきれなくなったピコーラは、父か母のどちらかの死を切実に願うほどです。けれども、ミセス・ブリードラヴにはもう一つ家庭がありました。彼女は裕福な白人の家庭でハウスキーパーの仕事をしているのです。そこで尊厳をもって扱われ、ほとんど家族の一員とすらみなされているミセス・ブリードラヴは、むしろこちらを本当の家族だと思っているふしすらあります。

 あまりに居心地の悪い家庭で、ピコーラはこんなことを思います。もし私の眼がもっと美しかったら、きっとお父さんもお母さんも、そんな私の前では恥ずかしくて喧嘩をやめるに違いない。そして仲良くしてくれるだろう。もちろん私たちには、その考えが間違っていることは分かります。両親の不和という問題は両親のせいであって子どものせいではない。だから子どもがどうしたところで、両親がそれによって心を入れ替え、振る舞いを改善することなどありえない。

 ピコーラの考えは、いわゆる典型的なアダルト・チルドレンの思考法です。機能不全家庭に育った子どもは、自分がいい子じゃないから両親が争っているのだ、と思い込み、自分を責めるようになる。それでも、自分にまったく状況を改善する手立てがない、と思うよりはましなのですね。こうした、すべては自分のせいだという幻想は、人を幸福には導きません。けれども、もちろんピコーラにその考えの誤りを正してくれる第三者などいないのです。

 それにしても、なぜピコーラは自分が醜いと思い込んでいるのでしょうか。そして、なぜ可愛い人の前では大人も行動を変える、と考えるのでしょうか。それは彼女が日々の暮らしの中で、そうした思考法に慣らされてしまったからです。たとえば、当時女の子に与えられる人形は必ず、白人の少女をモデルにしていました。白い肌で金髪の人形を見たら、かわいい、と思うのが当たり前だとされたのです。そして、そう思わない子は変わっているとみなされました。

 そのころはシャーリー・テンプルがスターでした。本作にも登場する、1930年代の代表的な子役である彼女は、はっきりと白人の特徴をもっています。そして、白人や黒人の大人の俳優たちを相手に、映画の中や広告で大活躍するのです。シャーリー・テンプルだけではありません。キャンディーの包み紙に印刷されているメアリ・ジェーンもまた、金髪で青い目です。ならば、可愛いと言われることができるのは白人だけで、黒人である自分は醜いに違いない、とピコーラが考えても仕方ありません。

 それは単に映画や広告などメディアの中だけの話だろう、とあなたは思うかもしれません。けれども、ピコーラは日常でもそうした差別を感じています。ある日、モーリーンという女の子が転校してきます。明らかに肌の色が薄く、なおかつ裕福な彼女の前で、大人たちすら態度を変える。そして、いざ喧嘩となれば、モーリーンはクラスメートの少女たちにこんな言葉をぶつけるのです。「わたしはかわいいわ・・・・・! だけど、あんたたちは醜いのよ! 黒くて醜い黒んぼやーいだ。わたしはかわいいわ!」(『青い眼がほしい』ハヤカワepi文庫、109-110頁、大社淑子訳、2001)。これを言っている、当のモーリーンもまた黒人の血を引いている。それでもこんな言葉を発するところに、アメリカ社会の深い闇を感じます。

 実は、ピコーラたちと自分を比較の対象にするというモーリーンは、本作においてはまだたちが悪い方ではありません。たとえば、ピコーラがキャンディーを買いに行った店の店主である白人男性は、彼女を人間としてさえ見ることがないのです。ピコーラを見る彼の目には、人間らしい感情がまったく欠けています。「この空白はなじみのないものではない。それにはとげがあり、まぶたの底には嫌悪がある。彼女は、これがすべての白人の眼に宿っているのを見てきた」(同73頁)。それだけではありません。その向こう側には、黒人への強い嫌悪感が表れています。黒人を嫌う彼は、お金の受け渡しのときすら、なんとかピコーラに触れまいとします。けれども、そうした差別的な彼の態度をピコーラは理解できず、代わりに、私が子どもだからちゃんと相手をしてもらえないのだ、と解釈するのです。

作者、トニ・モリスンについて

 このような作品を書いたトニ・モリスンとは、どのような人物なのでしょうか。アメリカの黒人女性で初めて1993年にノーベル文学賞を受賞し、20世紀後半から21世紀にかけてアメリカ合衆国で最も重要な作家の一人となった人物です。彼女は1931年、オハイオ州ロレーンの町に生まれました。両親はアメリカ南部から移住してきた黒人で、黒人たちの伝承してきた文化に深い理解を持っていました。モリスン自身はそこまで酷い差別を受けることなく、優等生として育ちました。やがて歴史的黒人大学であるハワード大学で学士号を取得し、さらにコーネル大学で修士号を取得しました。卒業後、彼女はさまざまな大学で教鞭をとります。その後、出版社ランダムハウスの編集者として、モハメド・アリやアンジェラ・デイヴィスなどの著作を手がけました。そうした暮らしの中で、初めて書いた短篇を膨らませたのが、本書『青い眼がほしい』です。さらに後には、プリンストン大学の教授を長年務めました。

 作家としての彼女の経歴は輝かしいものです。逃亡奴隷である女性が、自分と同じ奴隷の人生を歩ませたくない、という理由で子どもを殺した実際の事件を題材とした『ビラヴド』が代表作で、この作品により彼女は1988年にピュリッツァー賞を受賞しています。それだけではありません。彼女の唯一の評論集である『暗闇に戯れて』(1992年)では、たとえ黒人が一人も出てこないアメリカ文学の作品ですら、象徴的な黒という形で、黒人や奴隷制を扱っているのだ、という新たな視点から、アメリカ文学史を再解釈しています。すなわち、彼女自身が小説作品でアメリカ文学を作り変えると同時に、アメリカ文学の読み方すら書き換えていったのです。

 黒人たちが長年伝えてきた語りの文化を小説として編み上げる、という使命感のもと書かれているモリスンの作品は、時に現実と幻想が混淆し、また散文から詩に近づく、といったふうに書かれており、特に後期の作品は読み解くのがなかなか難しいものも多いです。しかしながら、デビュー作である『青い眼がほしい』は、比較的平易な言葉で、私たちが日常生活の中で感じるようなことについて語っているという点で近づきやすい作品になっています。なので、本書やその次の作品である、女性二人の友情と決裂を描いた『スーラ』などからモリスンの世界に入っていくのがいいのではないでしょうか。

傷つけられる自尊心

 さて、『青い眼がほしい』の世界に戻りましょう。映画や広告などのメディアの世界はピコーラに敵対的です。それだけではありません。学校や近所の商店さえ、彼女には自分の居場所とは思えません。そして、ピコーラは見た目だけでなく、人間としての自分の価値についてさえ、どんどんと自信を失っていきます。けれどもどうでしょう。もし両親が彼女を精神的に支えていれば、ピコーラは決定的なところまで追い込まれることはなかったのではないでしょうか。しかし残念ながら、家庭すらピコーラの安住の地ではなかったのです。

 たとえば、ピコーラの母親であるミセス・ブリードラヴはどうでしょう。実は彼女もまた、自分や家族の醜さに絶望しながら生きています。経済的にも苦しい日々の中で、彼女の唯一の楽しみは、貯めたお金で映画を見に行くことでした。それは確かに気晴らしになる行為です。けれども、夢のような映画の世界から現実に戻ってくるたびに、彼女は黒人である自分や家族を見るのも嫌になってしまいます。「映画はわたしをうんと楽しませてくれたけど、映画を見ると家に帰るのがつらくなり、チョリーを見るのがつらくなった。どうしてだかわからない」(同181頁)。

 こんなふうに言っているミセス・ブリードラヴですが、本当はどうしてなのか、自分でもわかっているのです。映画は彼女の無意識の中に美の基準を刷り込みます。そしてその尺度に当てはめて自分たちを見れば、そこにはかけ離れた姿があるわけです。そうやって、彼女は自分のお金と引き換えに、自尊心や幸福感をどんどんと失っていきます。そして、自分ではいけないと思っていても、どうしても子どもを怒鳴りつけてしまいます。

 こうした生活の中で彼女を救ったのは、幻想の中で白人になることでした。ミセス・ブリードラヴとして他の人と接しても、決して敬意を持ってもらうことはできません。けれども、裕福な白人家庭であるフィッシャー家のハウスキーパーとなり、主人の代理として人々に接すれば、役人たちのような権力を持った人々でさえ彼女の言葉に従うのです。しかも極めて有能である彼女は、家を完璧に整えることができました。だからこそ白人家族からはポリーという愛称で呼ばれ、子育てや調理など、家事全般を完全に任されたのです。

 こうして暮らすうちに、ミセス・ブリードラヴの中で現実が捻じ曲がっていきます。そして夜、寝に帰る黒人家庭は仮のもので、昼間の白人家庭こそが本来、自分がいるべき場所だという信念が築き上げられていくのです。そしてそこに、本当の娘であるピコーラが入り込む余地はありません。そのことはある事件で証明されます。ある日、フィッシャー家で焼きたてのパイをひっくり返してしまったピコーラは、ひどいやけどを負います。けれども、ミセス・ブリードラヴはピコーラを助けようとしないどころか、その場で殴り倒します。そして代わりに、泣き出したフィッシャー家の子どもを必死になだめます。言い換えれば、ミセス・ブリードラヴにとっては、自分の娘の命よりもフィッシャー家の子どもが泣いていることのほうが重要なのです。これでは、ミセス・ブリードラヴとピコーラの間に信頼関係が育まれるはずがありません。

 それでは、ピコーラの父親はどうでしょうか。流れ者であり続けてきたチョリーは、恋に落ち結婚しますが、家庭生活は彼の想像を超えたものでした。一つの場所に定住し、一人の人を愛し続けなければならない、という結婚制度を、彼はどうしても理解できません。人生の喜びを見失った彼は酒に溺れ、ついに妻に暴力を振るうようになります。このようなチョリーが、ピコーラの苦しみに寄り添い、共に解決を目指すなどということはできるはずもありません。彼はただ酒を飲み、野獣のように暴れ続けるだけです。

青い眼が美しいという幻想

 周囲の大人には頼れない。先生も親も味方になってはくれず、友達も攻撃してくる。孤立したピコーラは、一人で解決法を見出さなければならなくなります。そして彼女が思いついた方法が、目を青くすることでした。目が青くなれば可愛くなれる。可愛くなれば周囲の人々も暴力的でなくなる。そして、愛と尊敬に満ちた関係の中で生きることができる。そしてピコーラは、自分の目を青くしてくださいと、一年間も神に祈り続けます。

 「こういうふうにして、奇蹟だけが自分を救ってくれるという強い確信に縛られていたので、彼女は決して自分の美しさを知ろうとはしなかった」(70頁)。つまり、ピコーラの中にも元々美しさは備わっているとモリスンは書くのです。けれども、彼女にはそれが見えません。なぜなら、当時の社会がそれを見ることを許さないのです。なんと残酷な状況なのでしょう。この部分の記述がなんとも切ないです。

 さて、思い詰めたピコーラの前に、ある人物が現れます。白人と黒人の血を両方引き、カリブ海からやってきた謎の男ソープヘッドです。祈祷師であり、かつ偽医者のようなことをしている彼のもとにピコーラがやってきます。そして、彼女の願いのあまりの切実さに、ソープヘッドの心が動くのです。彼は自分がピコーラの目を青くしてあげると言い、謎の術を使います。いや、実際にはこれはインチキ催眠術のようなものでしかないのですが、ソープヘッドはピコーラを騙すことに成功します。そして、「神様」にむけてこう手紙を書くのです。「ほかの人には、彼女の青い眼は見えません。しかし、彼女には・・・・見えるのです。そして、彼女は今後ずっと幸せに暮らすでしょう。わたしはそうすることが、正しく、ふさわしいことだと思ったのです。」(同268頁)。

 もちろん、正しく、ふさわしいわけはありません。けれども、ソープヘッドのおかしな言葉にも、ほんの少しの理はあるのではないでしょうか。本来、外見の違いなど、単に生物が環境に適応しながら変化させてきた遺伝子的特徴が表に現れているだけです。肌の色がどうだろうが、容貌がどうだろうが、その価値には何の違いもありません。けれども、私たちは歴史的に作られた幻想の中で、そこに美しさや醜さを読み取ります。それだけではない。それらが社会システムとして制度化され、価値が低く醜いとされた人々が苦しみ続ける。これが今の社会の現実なのです。

 ピコーラの黒い目を青い目だと言いくるめる、ソープヘッドが作り上げた幻想も、人の美醜には価値の差があるという現代社会の信念も、どちらも根拠がないことに変わりはありません。そうした社会の核心を射抜く批判を、モリスンは本書で行っているのではないでしょうか。社会の幻想に逆らい、ピコーラの中に美しさを見ること。それを通して、私たちは自分を生き延びさせる力を取り戻すことができるはずです。モリスンは本書で、そうしたきっかけを私たちに与えてくれています。

(とこう こうじ・アメリカ文学、翻訳家)

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著者略歴

  1. 都甲 幸治

    (トコウ コウジ)
    1969年生まれ。早稲田大学教授。専門はアメリカ文学。主な著書に『大人のための文学「再」入門』『教養としてのアメリカ短篇小説』、訳書にトニ・モリスン『暗闇に戯れて 白さと文学的想像力』、ブコウスキー『勝手に生きろ!』、デリーロ『ポイント・オメガ』など。

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