【文庫解説】カント著/大橋容一郎訳『プロレゴーメナ』
『プロレゴーメナ』は、カントが『純粋理性批判』への周囲の無理解に対して、いわばその入門解説書として刊行したものです。岩波文庫では約50年ぶりの新訳となります。巻末には、カントが本書を執筆するきっかけとなった、ガルヴェとフェーダーによる「ゲッティンゲン書評」、そして訳者・大橋容一郎先生による『プロレゴーメナ』各節の梗概も掲載しています。以下は、大橋先生の「訳者解説──『プロレゴーメナ』の三つの位相」からの抜粋です。
『プロレゴーメナ』の三つの位相
『プロレゴーメナ』が、『純粋理性批判』(以下『批判』)の第一版刊行の二年後、後述するように、いわゆる「ゲッティンゲン書評」に対する反駁として書かれたことはよく知られている。しかし『プロレゴーメナ』は、たんに「『批判』に対する批判への反批判」という、スコラ的議論のような書物ではない。カントによれば『プロレゴーメナ』は、その書名の通り、「学問として現れうる将来のあらゆる形而上学のための序説(プロレゴーメナ)」であり、別の言い方によれば、「学問を現実のものとするためには何をする必要があるか」を示すはずのものである。さらにカントは、『プロレゴーメナ』は『批判』の準備作業であり、その「全般的な見取り図」なのだ、とも言う。『プロレゴーメナ』は『批判』の概説書という性格をも併せもっていることになる。
1 『純粋理性批判』の見取り図としての『プロレゴーメナ』
現代の読者の多くは、あたらしい形而上学を企画するためではなく、『批判』のわかりやすい解説を求めて本書を開くと思われる。だが、本体の仕様を知らずにマニュアルだけで何かが理解できることはない。『プロレゴーメナ』を見取り図ないしマニュアルとするためには、本体である『批判』についても多少のことは知っておかねばならない。
カントは、「ゲッティンゲン書評」(本書「資料」に全文収載)が、ユークリッドの『原論』を誤って図形作図の仕様書と見なして扱うようなもので、『批判』を数学の参考書か仕様書のように扱っている、と批判する。とはいえ、その扱いはあながち批評者だけの誤解だとも言えない。数学の参考書には、多くの分野(『批判』の超越論的諸原理)が分類されて並び、各章には、前提となる(ア・プリオリな)定理(カテゴリー)と、基本的な証明方式(諸原則)が詳細に書かれているだろう。そして『批判』はまさにそのような本である。しかし参考書や仕様書には、分類や原則の意義や目的についての説明はない。意義や区分の目的がわからぬままに証明や計算の方法を覚えさせられて、数学が嫌になっても、読者や学生ばかりが悪いとは言えないだろう。
また『批判』は、そのほとんどの部分が「超越論的論理学」だという、さらなる大きな困難を抱えている。つまり『批判』とは、ただ厳密に論理的に書かれている書物ではなく、まさに「論理学」の教科書なのである。重要なのは体系的な論証の形式と手順であり、各論証の意義や意図については詳述されていない。加えて『批判』は、当時の専門家にさえ耳なじみのない、「超越論的」論理学の教科書である。結果として、「その本を通読しようとは思うが、すすんで考え抜こうとは思わないので、それを理解することはできないだろう」、とカントが言う通りになった。『批判』は理解不能とされ、カントの弟子たちでさえ、八〇〇頁もある大部の新奇な論理学の教科書を読み込んで理解しようとはしなかった。(当時の書評状況については、田端信廣『書評誌に見る批判哲学──初期ドイツ観念論の展相』晃洋書房、二〇一九年に詳しい。)
じつはカントもそうなることは重々わかっていたと思われ、『批判』の悟性概念の演繹や誤謬推論などの論述は冗長なので、『プロレゴーメナ』を吟味の基礎とするように、と語っている。その一方で、カントは『プロレゴーメナ』では、『批判』の体系的で詳細な証明についてはほとんど提示しない。その代わりに、各論証の意義や目的についての解説や弁明をおこなっている。(誇り高いカントは、『プロレゴーメナ』は弁明ではなく、さきに論証の本体があり、後になってその意味についての説明があるという順番のほうが、逆の手順よりただしいのだ、と主張している。)
したがって、読者が『プロレゴーメナ』を読むことは、『批判』での各論証に含まれているカントの意図を汲み取る、という作業になる。『批判』での体系的な論証の意味や意図がわかるのはありがたいが、しかし逆に、その説明が『批判』のどの証明や理論のものなのかは、『プロレゴーメナ』だけではわからない。そのために、『プロレゴーメナ』を読む場合には、どうしても『批判』をかたわらに置いて、該当する箇所を参照しながら、そこでの論証の意義を考えていくことになる。
(全文は、本書『プロレゴーメナ』をお読みください)




