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山本貴光 岩波文庫百話

第17話 河野與一は何人いるのか

 岩波文庫で知った名前は数あれど、なかでも忘れ難い人物に河野與一(与一)がいる。まずは次のリストをご覧あれ。

①トルストイ『芸術とはどういふものか』(改訳『芸術とはなにか』)

②『トルストイ 文学論集』

③『アミエルの日記

④『プルターク英雄伝

⑤シェンキェヴィチ『クォ ヴァディス』

⑥ツルゲーネフ『ハムレットとドンキホーテ 他二篇』(柴田治三郎共訳)

⑦ヴェルコール『海の沈黙/星への歩み』(加藤周一共訳)

⑧『ライプニッツ 形而上学叙説

⑨ライプニツ『単子論

⑩ベルクソン『哲学入門/変化の知覚 思想と動くものI』

⑪ベルクソン『哲学的直観 他四篇 思想と動くものⅡ

⑫ベルクソン『哲学の方法 思想と動くものⅢ

⑬ルイ・ドゥ・ブロイ『物質と光

 これはなにかと言えば、訳者として河野與一の名前が出ている岩波文庫の一覧である(煩瑣になるので詳しい書誌は省略した)。分野としては文学(①から⑦)、哲学(⑧から⑫)、物理学(⑬)の本があり、帯色でいえば赤と青。言語としてはフランス語(③⑦⑧から⑬)、古代ギリシア語(④)、ポーランド語(⑤)、ロシア語(①②⑥)の4言語にわたる。なにをどうしたらこんなことができるのか。

 岩波文庫を意識的に集め読み始めてから、訳者の名前にも目が行くようになった。たいていの場合、文学の訳者は文学を、ロシア語の訳者はロシア語を、という具合に1人の訳者が関わる分野や言語は1つであることが多い。たしかにそういうものだよね、と思っていたところ、どうも当てはまらない人がいる。というよりも、このトルストイを訳している人物と、フランス語の哲学書を訳している人物と、ドゥ・ブロイの物理学書を訳している人物と、プルタルコスを古代ギリシア語から訳している人物は同じ人なのか。さりとて河野與一という同姓同名の翻訳者が3人も4人もいるとは思えない。

 一体何者だろうと思って著作を探すと岩波文庫にもう1冊、『新編 学問の曲り角』(原二郎編、緑164‒1、2000)がある。これは河野がさまざまな機会に『思想』『図書』『文庫』といった岩波書店の雑誌やその他に書いた文章を集め編んだもので、『学問の曲り角』(岩波書店、1958)、『続 学問の曲り角』(岩波書店、1986)をもとに作られている。「河野もできすぎて物が書けない方だ。いや、書きたがらない方かな。そして書く段になるとわざと身辺の、傍から見るとあまり興味もてないことを、実に丹念に端正に書く」とは林達夫の言(『思想のドラマトゥルギー』久野収との共著、平凡社ライブラリー、1993)。いろいろな人の証言を見てみても、河野與一は書かない人だったようで、主著らしい本を探してみてもどうりで見つからないわけである。それだけにかえって語学の達人という面がいっそう際立つ。複数の言語を学ぶ人はいるとしても、諸言語で一定水準の翻訳をこなすのは尋常のことではない。

 その河野は、岩波書店とも縁の深い人だった。略歴を見ておこう。1896(明治29)年、横浜生まれで、1917年に東京帝国大学法科大学仏法科に入学、途中で文学部哲学科に移ってここを卒業。ドイツやフランスへ留学、その前後にいくつかの大学で仏文学や仏語、哲学の教鞭を執り、東北帝国大学で仏文学、古典語、西洋古代中世哲学史などを担当した後、辞職して東京に戻る。以後は岩波書店の顧問を務める。岩波書店には河野の部屋があったそうで、翻訳の問題を抱えてやってくる人びとの相談に乗ったり、「河野先生のお話を聞く会」(河野学校)で多様なテーマについて話し、集まった人びとと議論を楽しんだりしたという。前者については河盛好蔵が「語学診療所」という随筆に活写しており、後者については河野の没後、『河野與一哲学講話』(渡辺義雄編、岩波書店、1993)にまとめられている。1984年に87歳で逝去。弟子には杉捷夫、河盛好蔵、桑原武夫、原二郎、三好達治などがいる。以上は『回想 河野與一 多麻』(「河野先生の思い出」刊行会、1986)を頼りに書き出してみた。書名に見える「多麻」とは、国文学者で妻の河野多麻のこと。彼女が校注を施した『うつほ物語(一)』も岩波文庫に入っている。

 生前に交流のあった人びとの回想を読むと、河野與一はさまざまな機会を捉えてはギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語をはじめ、言語の手ほどきをしていた様子が垣間見える。誰かに教えることがなにより自分の勉強になるということがあるにせよ、なんという人があったものかと驚くばかりだ。

 そうかと思えば、「田辺元先生の思い出」(『新編 学問の曲り角』)によると、田辺からは「河野君は遊びながら哲学をしているから困る」と評されたという。楽しみのために読み考え、訳したいものを訳す。世を挙げて「役立つもの」や「効率化」を気にする昨今、とても彼のようにはいかないまでも、折々その言葉に触れて心に風を通したい、そんな人である。

(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)

[『図書』2026年1月号より]


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著者略歴

  1. 山本 貴光

    1971年生まれ。文筆家、ゲーム作家。現在、東京科学大学 未来社会創成研究院・リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学環境情報学部卒業。著書に『文学のエコロジー』(講談社)、『世界を変えた書物』(橋本麻里編、小学館)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)、『記憶のデザイン』(筑摩書房)など。

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